精神について

 
●垂直から水平への変化
要点は、垂直な価値観が水平な価値観へと変化していくこと。これは精神を「内面」と考えている状態から、心理学の「ペルソナ」への転換が起こるという風にみることができる。
 
●前提
自己に決められた形はない。
 
●内面としての精神 ―「本音と建前」
通常の価値観には、序列・順列がある。つまり一番と二番では一番により価値があるものだ。この形式での精神構造には「自我・イド・超自我」「アーキタイプ(元型)」と言った学術的な構造論などがあるが、ここではもっと簡単に別のケースで説明する。日本語だと「本音と建前」なんかが分かり易く「内・外」の構造と絡んでくる。
 
外=建前……善意?
内=本音……悪意?
 
人間は嘘をつく。それは、内面に少なからず悪意を持っているからだ、などなど。あんまり物事を考えていない子が「私はそんなに良い人間じゃない」とか言ってくる場合は、「普段いい人ぶっている」から、「内面に悪意ヲ隠シテイマス」というメッセージになっている。非常に残念である(涙)
まぁ、シチュエーションによっては予防線の場合もあるので、悪い子にはオシオキが必要という意味もあるとか。(どこか遠い海の向こうの話か、画面の中の話だと思うけれど) 逆に偽悪趣味では外側に悪意をもってきて「不良」をやって、内面に輝く「善意」を誰かに見つけて欲しい、とやるわけだ。
私の場合は、外側は「程々に善人」をやっていて、内面的には「超善人」を隠して(以下略)
 
●ペルソナ
そこそこ物語に触れていれば出てくるとは思うのだが、念のため。ペルソナは仮面の意味を持っている。簡単に言うと、相手(外部条件)によって対応を変えること、などなど。
 
親と話している自分
友人と話している自分
先生と話している自分
上司や先輩と話している自分
部下や後輩と話している自分



こういった感じで、人間は外部の条件によって対応が変化する。どれも別に嘘を付いているつもりはなく、全てが正しく自分の側面である。
この変化の先に、


善意の自分
悪意の自分
 
……というものが出てくる。
このことに気付くと最初は混乱するかも知れない。「善意の自分」と「悪意の自分」とが等価値であることに気付いてしまうため、「どれが本当の自分なのか?」ということが分からなくなったりする。
これの答えは「全部が本当の自分」だと気付くことにある。
(一元論的な善悪の融合はもう少し先の段階。ここはまだ「悪意の自分」を使わなければ良いと思っているレベル)

このような感じで縦型の構造が崩壊し、並列型の構造を経験することになる。
以下は、主にペルソナ周りの応用など。
 
○メンドクサイ病
ある程度、自由に自分の状態を選べるため「一番楽な自分」が本当の自分だと考えるようになる。これがメンドクサイ病だが、もしかすると一生掛かっても脱出できないかもしれない。その意味では「内側=本音……悪意」よりずっとタチが悪い病気である。仕事が終って家に帰ってらグッタリして(酒飲んで)ボーッとしていたいと思うなら、まずこの病気だと思っていいだろう。本当の自分でいれば楽なのだと信じている限り、治る見込みが無い(笑)
実際はというと、疲れを癒すのに「完全に抜く」のは効率が悪いと思われる。最低限のレベルで「入れて」おくのがオススメ。飲んだり食ったりしても一切回復しないと分かる「年齢」までどう頑張ったって納得するわけがない。諦めよう。
 
○英雄体験の利用
何か目的があって高い性能を発揮したい場合に「一番上手くいった自分」を思い出すようにする方法が英雄体験の利用である。英雄体験が無い場合は…………がんばれ(笑) 注意点としては残酷なようだが「人格は才能ではない」という点に尽きる。これはある程度の精神力をコントロールするためのもの。
応用として「粘り強い自分」とかで勉強しまくる……などをやりたい場合には「性格の固定」が問題になる。しかし自己にカタチが無いことが三日坊主の原因になる。あまり無理はせず、自分にとって「面白いこと」を追求するのが基本。
勉強は面白いけど、役に立つイメージが作れなかったり、教えるのが下手だったり、自分に理解力がなかったりすると壊滅状態になるので…………がんばれ(笑)
 
○環境の利用
ペルソナは外部への対応であるから、全てを「自分の精神力の問題」と考えるかどうかはよくよく吟味すべき。人間なんて大抵は流されるばっかりなのだから、まずは適切な環境に身を置くことを考えること。それが無理でも、本来 人間は環境を操作する能力を有しているものだ。
内部的な精神の領域もあるにはあるが、それは非人格的な自己を含む高度、且つ、残酷なものなので思った通りにできるかどうかは本人の「意識」しだい。
 
○コントロール
「私はシェリルなのよ?」などと自分のことを「決める」と、そのレベルで固定し易くなる。この時、シェリルでいることを「選んで」いる。素質のある方向への固定はそんなに難しくはない。
 
役割期待……性格の押し付け(ジェンダー
例えば、少し背の高い女の子は周囲から「サッパリ・サバサバ」した性格を押し付けられることがある。また真面目そうな子に委員長を押し付けたり、顔立ちの整っている子は勉強もできるもんだろうと勝手なイメージで役割や期待を押し付けたりされる。もっと範囲を広げれば「男らしさ・女らしさ」というもの(ジェンダー)も全て同じ根から発している。
個別の状況では悲惨で残酷なこともあるとまず認めなければならない。その上で、人間の内面には形がないことが原因になっていると繰り返すことしかできない。例え押し付けられた人格であっても、そのペルソナは時間と共に全て「本当の自分」になる。いずれ全てが自分にとって武器であり、個性となることを知るだろう。最初から全てを本当の自分であると認めることは確かに難しい。内面の、普段みせる機会の少ない「当人にとっての本当の自分」こそが「本当の自分」だと思うことは「個人的な真実」であり、その時点では正しい。
 
 
○相手への影響 ―「お前を信じる、俺を信じろ!」
他者に影響を与えるには相手をどう見做しているか?という問題が絡んでくる。「期待と信頼の違い」というレベルの話もあって「相手の可能性を信頼してやること」が重要な要因になりうる。
ペルソナの外部応答性を考えれば「自分」が相手にとっての「外部環境」となることで、相手の対応に影響・変化を与えられることが分かるだろう(「自己基準」の運用)
 
ハラの底から「アイツは凄い奴だ」と思っていれば絶対にその人間は変わる。まず、そいつに対する自分の姿勢が変わる。その内に周囲のそいつを見る目も変わってくる。(環境操作の方法の一つ)
 
……相手がどう変わるかまでは責任を取れないけど(笑)
潰れるかもしれないし、化けるかもしれないし。 女の子相手にこの悪戯を仕掛けてやるとリアル図書館戦争みたいな甘酸っぱいのが楽しめるかも。最低でも1年ぐらいは費やすつもりがなければ効果がないし、その子が自分の彼女になる保証とかは全く無かったりするけど、やる価値はある。
 
 
○非人格的自己への信頼
例えば、怪我をしたら肉体は治癒しようとする。これは水が低い方に流れるぐらい自然なことだ。一部の例外的にガンなどで肉体が自分を裏切るように感じることもあるが、大抵の場合、肉体は信頼することができると言える。
「自分を信じる」ということの難しさとは、実際問題 自己にカタチが無いことに起因する。移ろい易い自己はまるっきり信頼に値しない。しかし、例えば意識のようなものは違う。丹田や中心軸のような非人格的自己は特に信頼に値する。こうして非人格的自己は自己の内面において一種の「外部環境」になる。(ここから先は「どこまでが自分なのか?」という話が問題になっていく)
 
○自己の拡大
通常の概念での自己とは身体とその周辺に形成される「意識の場」……といった理解がなされている。
ここで、自分の家族、自分の友人、自分の恋人といった、「自己に属する」といった認識的作用が自己を拡大することが指摘されうる。つまり、自分の故郷であり、自分の国であり、自分の星(地球)であり、そして自分の宇宙ということが言えるのだ。そこで更に論理を飛躍させれば「我々の宇宙」という観念に辿りつくことが出来る。(更にもう一歩飛躍させると、「所有権」的な概念は消える。『宇宙即我』ってね。)
 
 
○率直に話すというスキル
「内面=本音……悪意」という思い込みに囚われている場合、正直に話したり、本音を語ったり、ぶっちゃけたり、率直に話すということは、つまり「悪口を言うこと」になってしまう。しかし、これは間違いである。
本来、率直に話すというのは、「本当の感情」と「相手に対する配慮」の二つを両立させるちょっとした話術(スキル)のことを言う。
相手を「バカ野郎」と思うのも本当の感情かもしれないし、「もう少し違う結果になった方がいい」と思うのも本当の感情だろう。率直になるからと言って、敢えて悪口をいう必要はないし、逆に悪口を言わなければ「嘘を付くこと」になるわけでもない。
感情ってのは大雑把なヤツなので、そこで使われる言葉は「厳密にコレ!」みたいな関係にはない。「本当の感情」の範囲の中で、相手に配慮した言葉を選ぶことができるかどうかが話術とかの能力なわけで。
「相手に対する配慮」を抜きにしてバカとかアホとか言ってたり、恨み言を吐き出していれば、確かに楽にはなるかもしれないが、それはせいぜい短期的な損得でしかない。悪口を言って満足するのはチンピラの勇気であり、「チンピラ勇者」にクラスチェンジするだけだ。
一方で相手に対する配慮の気持ちがあるならば、実りの多い会話になり易い(相手の水準が足りていれば、ね。)
ハラワタが煮えくりかえっている場合、相手にも同じ経験をさせてやろうと思うものだが、それでは動物的反射以上の行為にはなりえない。恨み言があってもひとまず忘れて、「シンプルな疑問」として「何故?」をぶつけてみることが出来るならば、案外スムーズに物事が進展することもあるのだと経験するだろう。
 
 
○「無条件の愛」を求める気持ち悪さ
誰かに対して好意的であることに本当は理由など要らないが、「無条件の愛」を要求してくる輩には気を付けなければならない。
たった一人でもいいから、自分を信じてくれる人間が居たら変われるかもしれない……そのこと自体は間違いではないが、「試練に耐えてくれる相手」を望んでおり、絶対的な愛や無条件の愛を証明するには結局のところ「無限の試練」が必要になるし、それでも証明することはできない。さりげなく、もしくは無自覚に失敗するなどして様子をうかがって来る。彼ら・彼女らはそういった「つまらない人生ドラマ」の役者であることがしばしば。タチが悪い。理性の問題ではなく動物的なホルモン物質とかの話になってしまうので処置なしだと思われる。
無条件の愛とは、与えるものであって、要求するものではない。見返りは求めないが、基本的にくれるものを拒んではいけない(といっても過剰な貰いすぎも控えること)
 
○占いとバーナム効果
バーナム効果とは、
「誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象。」……のこと。つまり、血液型占いとか星座占いとかは「誰にでも当てはまる」という意味。 
これは逆にガイドラインに使える。自分に都合のいい占い(性格診断)を選んで、その特徴を使って自己を演出していく風に使ったりする。例えば、血液型がB型の場合、多少のワガママは血液型の責任にしてしまっても周囲が納得する、だとか。合言葉は「オレ、B型だから〜(笑)」←嫌われてしまえ
 
○長所と短所の決定
就職活動で困ることの一つに、自分の長所と短所が分からないという話がある。これも自己にカタチがないため、自分では分からないし、分かりにくくなっている。他人の方が自分のことがよく分かる……とよく言うのは、定型のパターンで他者と接していることによる。その場合、友人のタイプが偏っているのかもしれないし、自分のパターンが決まっているのかもしれないし。
自分が人からどう見られているか……を描写するのも一つの方法。
 
 
●自分探し
自分探しとは、大抵は「愛される人格」探しのこと。ペルソナはある程度までは選ぶことができる。そして一体何が正しいのか?という評価を、全能の神が決定してくれない以上は、周囲の人間の評価に委ねてしまい易く、周りの人間に愛されているという感覚が正解だと考えてしまう傾向がある。
愛されている人間こそ賢い……などと考える場合がたまにあるが、イスカンダルのように軍団員数千人に命を賭けさせるほど魅了してから言えって話である。
 
○「ありのまま」の自分
外部に接して「状態が確定する前」の自分のこと。「可能性の段階」でもいい。
自分探しも含めて、「自分らしさ」という牢獄の中に答えは存在しない。自己が評価の対象とされていて、他者が評価する以上は「他者の基準」に左右されてしまうからだ。従って、周囲の人間が変われば評価も違ってくる。結局、自分に都合のいいことを言う友人(多かれ少なかれ)で周囲を固めるという戦略ぐらいしか方法なんぞはないと思われる。二〜三人耳の痛いことを言う友人を確保しとけば「自分は大丈夫だ」と思えるかもしれないけどね。
 
もう一つの方法は、強烈な自己で、他を「駆逐*1」し、自分にとって都合の良い状況を作り出すことにある。(自己基準による周囲の変化)これは愛されるとは限らないし、深く愛されたとしても同じぐらい深く嫌われることにもなるだろう。
 
 
●絶望
前提として絶望は個人的な感覚の問題であるために共有できない。出来るとしても出来ないことになっている。人間はコンテクストに支配されているため、コンテクストの違い共有していない状態で他者の苦しみを理解できると考えることなどは的外れにしかならない。
その上で述べると、みんなが大好きな「絶望」とやらは、「絶望するまでの状態」のことを指した概念。絶望し切って底を打ってしまうと実は楽になる。相対的な世界で自分が奈落に落ちると、逆に周囲の全ての価値が高くなり、美しく輝いて見える様になる。(実経験。もの凄く美しい世界になる)命や世界の輝きを知る。それら世界の実相に触れれば、絶望の真の意味を理解できる。
失われゆく希望にしがみ付き続けるのが絶望である。人間がしがみ付く能力は圧倒的で、なんというしぶとさなのかと思うほど。楽になるのをとんでもない力で拒否し続けることができる。やっぱり絶望しちゃうのはなんか怖いからなんだけどね(苦笑)
 
これとは別に、死にたくて仕方がない状態も存在している。それは絶望ではなく、不快感の極まったものだと考えられる。また生涯、死の恐怖を感じ続ける人もいる。悪の衝動と戦っている人もいる。意識の悪戯はその人達の人生を特別なものにしてしまうが、良いか悪いかは一概には言えない。何はともあれ、からだを柔らかくすること。
 
 
●「自由意思」と「全体的な存在」
人間には自由意志(らしきもの)がある。相対的な世界の論理では、自由意志を成立させるには二元論的な「逆の極点」となる「ある種の束縛」が予想される(自由←→束縛) その束縛として生理的な欲求や動物的な衝動、身体の機能的な側面がまず考えられるが、それらも全てをひっくるめて「神の計画」(→「運命」)がある様に感じられる。「神の計画」は人間の主観にとっては大抵 重たい。神の計画(運命)に束縛されることを嫌がると「自由意志」に逃避したくなってしまう。自由意志に逃避する恥ずかしさや申し訳無さがもしかすると原罪の初歩的な姿だったのでは?とすら思ってしまう(神は乗り越えられる試練しか与えない……?)
頭の中では世界と人間とを切り離すことが可能なため理解はされにくい。しかし、コンテクストに相当する「世界」から テクストたる「人間」が切り離されて存在することはそもそも有り得ない。このため束縛を「運命」と呼ぶことが半ば必然となる。あらゆる自己の側面が、世界との関わり合いの中で総合的に運命と呼ばれるものを形作る。そこに立ち現れてくるものとは、巨大な無意識領域にも似た、自己の背後構造体であり、全体的な自己の様なものと言える。その全体的なものは、感覚的には「心」に対する「身体」のように感じる。我々の自我や自意識は全体からすれば部分的な要素でしかない。
 
「どうやら僕は、君のことが好きみたいだ」というような言い方をする場合がある。表面の自己(自由意志)は相手に「恋」を感じていなくても、自分の「全体的な存在」が相手を求める場合がある(→それを「運命」の様に感じるという話。単なる下半身的な衝動ではない。)
自由意志は、正に自由であるからこそ心変わりが必然であるが、全体的な自分はシンプルで心変わりしにくい。この全体性が相手に対してどう反応するか?を自分が意図的に選べないことによって、人生は様々な折り合いが必要になってくる。 人生の一部には自由意志によって選べないものがあり、そこに運命と呼ぶ何かが関与していると感じる様になっている。
尚、全ての「全体」は、更なる上位構造にとっての「部分」である。
 
 
●無心
「自己」という幻想の上に人間が積み上げた素晴らしい遺産の全てを分かっているなどとは言わない。何せ無限かと思うほどの量があるのだから。だが、そんなに頑張る必要はない。勉強して積み上げている間は無限に積み上がって行くもので、終わりは来ないからだ。
 
「私は私である」
    ↓
「私(部分)は私(全体)である」
 
結局のところ、最後は無に至る。死ぬことによってそうなるかもしれないし、勉強した果てに至るのかもしれないし、宗教かもしれないし、スポーツなどの運動の果てに到達するのかもしれない。挫折によって至ることもあるかもしれない。全ての道が、無へと通じている。
……別に積み上げたものが無駄になるわけじゃない。大抵の場合は話としてちょこっと分かるだけだろうと思う。外から見たら特別な変化があるとも限らない。というか、誰かに教えてもらわないで「自分で至れ」という話だろう。
 
何せ「無」は、誰にでも至ることができる。それが犯罪者だろうと、お馬鹿さんだろうと一切関係がない。むしろ積み上げたものが多くて大きい人ほど、抵抗が大きいかもしれないぐらいだ。
 
自己が在るという前提でカタチがないと思っていた段階から、そもそも自己そのものが存在していなかったと分かる。その時、「ここに居るのは誰だ?」という問いを発することになるだろう。
「人間の意識」以外に「神の意識」というものが別個にあるわけではない。この世界には「神の意識」の他に意識はなく、人は神の意識の一部を使っている。我々は個別の記憶によって人間だと思い込んでいるだけの幻想である。

*1:駆逐するぐらいの気持ちでなければ通用しない。出る杭は打たれる。