あかんたれぶー

 
●なるべくデータから出発したい
麻生閣下に対する記者の質問を聞いていると、繰り返し選挙の話が出てくる。実際には麻生さんのことだけじゃなくて、マスコミがインタヴューすれば延々と同じことを違う表現で聞いていたりする。「バカなんじゃないか?こいつら」……ぐらいのことを思うのは当然にしても、どうしてそういうことをしているんだろう?という風に思う。
 
たぶん、記事のイメージが先にあって、そこに当てはまるデータ(証拠とか言質とか)を引き出そうとしているのではなかろうか、と思うわけです。だから、恥ずかしげも無く同じことを聞けるのでは? 国民が一番知りたいことだ!と言い張ればいいから、書きたい記事を書けるようになるコメントであれば楽になれる……とかだったりするんじゃないでしょうか?もちろん、上司の方針だとかの「色々な事情」の方が先に考えられるわけだけど。
 
私もこれと同じことをしようとしたことがあります。
内容はなんだったか忘れてしまったけれど、自分の思い込みがまずあって、記事の全体像がなんとなく浮かんでいて、後は裏付けになるデータを調べるだけ…………そしていざ調べてみるとそんなデータは無くて、首を傾げることになった。
 
このブログだったか別の場所だったかはわからないけれど、悔しいような、決定的な間違いをしたような、もったい無い気分でもあり、でもそのウソを付き通さずに済んでよかった……という気分になった。
 
いや、当サイトでは思い込みでパッと書いてしまう文章も多いんですよ。ただ、その時は書こうとした記事の内容から考えても、罪の度合いが違ったかな、と(やっぱmixiだったかも)
 
主観を出発点として、自分の意見に当てはまるデータを運用して記事を書く。ホントはやっちゃいけないことだ。プロがやっていたらそんなものは自分は読みたくないし、ムカつくに違いない。気付いたらツッコミを入れて悪態をつくコースだ。いざ、自分が表現する立場にたったら、それを自分でやろうとしていたというわけ。
……忙しいと、ねぇ(苦笑)と思えば共感もするけど、ホラ、私の場合はお金は頂いてませんので(笑)
 
なるべくデータに基づいて出発したいものです。
 
 
懐疑主義*1の方が、勝ち易い。
ネギま!なんかの話だと、「つまらない」という主観を論破することはできません。実際に他者の感じ方を批判したとして、相手を論破することによって「面白い!」と思わせることはまず無理ですし。なにか新しい読み方を提示できたとして、相手にとっての価値を再創造する……それは理想論であり、カッコイイし、正義っぽい。けれど、正直、その部分まで弄れなくてもいいものではないかと。
 
難しいのは、根拠は「主観」だって点です。
その上に論理なんか積み上げてしまえば、自分の意見というものを変えられなくなってしまうかもしれない。一貫した主張をするのは立派なことですが、自分の意見ってヤツはある程度の自由さの上に成り立っていなければ、単なる決定事項になってしまう。それならば、ある程度なら過去の意見(主観)を裏切ることになったって構わないと思います。その場合は、意見を翻すに至った経緯ってのは魅力のある体験ってことになるでしょうし。それを自慢してもいい。
 
(そんなこと言っても、私の場合はなるべく「つまらない」という風に直接は書かないようにしてますけどね。体力がある場合は「何故、つまらないのか?」という風に考えていくようにしています。ツマンネって書いて捨てるのは誰にでも出来ます。どうやれば面白くなるのか?と考えることは、難易度が高い。)
 
自由度の上に成り立つ意見というものは、変わることを怖れないものです。そして簡単に変わってしまうかもしれない。人間は信じるよりも疑う方が巧い。これは人間の種としての成熟度の問題でもあると思いますが、疑うことを通じて正しさへと至るストーリーの方が正しいと思い易い。実際の歴史でも多大な犠牲を払いながら「観測された事実」を通じて「既成観念」を覆してきたはずです。
また、その手の物語もたくさんあります。大抵は主人公がタブーを疑うことで悪党呼ばわりされる。盲目的に信じている側の人間は正義を標榜していますが、実質的には悪の集団です。そうやって何から何まで疑う方がエライ!という傾向を創ったわけでしょう。 疑えば正義、信じればカルト。
 
 
そして、疑いをしのばせてくるんですよ。
○○(バトルとか)のレベルが低いとかなんとか。そりゃ、その部分だけ取り出したらもっと巧く描く漫画は他にもあるでしょう。もっと凄い作品と比べて大したことがない…………それが相対性です。恋愛だろうと萌えだろうと、もっと凄い作品と比べたら大したことがないに違いない。
そして主観(ツマンネ)を根拠にして、恣意的なデータを切り取って、これが事実だ、ちがうかね?とやる。さぁ、反論してみよ!我々はデータを出したぞ。……どうした反論できないのか?それはおまえらが盲目的なカルトだからだ!とか言われちゃう。
 
それで反論するとどうなるでしょう?
「面白い」という素朴な感情をデータで塗りつぶして、反論することになる。根拠なんて基本的に「俺が面白いと思うから」だし、データだって「みんなそう言ってるから」ぐらいしかない。巧く書いてももっともらしい反論しかできないでしょう。んなこといったって、議論の基本中の基本ですが、趣味の問題には決着がつかないもんです。その手の議論は最初からやらないのがルールですよ。だけど、それでも反論したくなるもんです。言われっぱなしで反論できないのは、論破されたのと同じだ!って脅迫観念があるから。うまく反論できたとしても、「ツマンネ」っていう相手の素朴な感情は変わらない。変えられたとしても変えるのは良くない。何故も糞も、私が貴方の心の中を変えることはありません。精々が、私を切っ掛けにして、「自分で変わった」というものでしょう。(自分で変わったということに責任を取りたくない人もいるかもしれませんけどね。アイツの口が巧かったから乗せられてしまったのだ!みたいな。オレオレ詐欺とか)
 
その根底にあるのは、懐疑主義=正義という認識ですよ。
 
 
大体、ここでのこの書き込みだって汚い手段ですよ。自分の意見を変える気なんてサラサラないし(笑)、何よりメタ視点で相手の手口をさらしてその方向の攻撃を封じるためのものですから。大枠の方向は合っていると思いますが、ちょっと頭が良ければ、恣意的なデータにみえるものなんて一切出してこないのに決まっています。もっとわかりにくく「正しく」攻撃してくるでしょう。
そもそも主観を根幹にさえ置かなければ、懐疑主義で状況をひっくり返すことを間違いとはいえません。それにさも「信じること」の方が正しくみえるようにも書いていますしね。
 
しかし、ただ疑えばいいとは思えない。疑うのは常に信じるためであり、見極めるためでなければ。それに私にしても「疑う」という有用なツールを手放す気は毛頭ありません。
 
それでメタ視点でどうのこうの、と自分の手口まで批判対象にすることで、正当性を保とうとするという(笑)

……とかくことで(略)

……とかくことで(略)

 
こういう時は、赤木リツコ博士の名言で〆るのが良いでしょう。
 
 
「……ブザマね」、と
 
 

*1:ここでは疑いまくるだけのエセ懐疑主義のこと。本当の懐疑主義は慎重さをともなった誠実でまともな態度のことらしい。