トゥルーエンド・ループ

致命の書き忘れを追加
 
マンガのような物語は、ゲームと違って、分岐して別の可能性を試したり出来ません。
ある意味で一直線なんですけど、作中にタイムマシンみたいな小道具を出すことで、擬似的にループ構造を作ったりすることができるわけですね。
 
しかし、今回のオスティア祭では別段、ループするような小道具があるわけじゃないんですよね。
 
ですから、
ネギま!という作品には、
 ループ構造があるんだぞ!」

と改めて言葉を配置するものです。
 
 
●ヒドいことは起こらない?……いいえ、ケフィアです。
ループ構造を指摘することによる一番簡単な影響は、「バッドエンド」は妄想の中に、存在するってことですね。ある意味では、バッドエンドを知りたい人は、自分で妄想するしかないとも言えます。酷いことが起こらないのではなくて、酷いことが起こらなかった未来・ルートを選択しているからです。
 
この意味でネギま!においては「本編作中で主にトゥルーエンドのルートを描く」というお約束*1が出来てしまっているといえます。
 
ですから、「わざわざ本編で(ただでさえ休みがちだっつーのに)バッドエンドなんかやられたら時間の無駄だ!」といったコンテクストで作品と作者と読者(ファン層)は動いているわけです。*2
 
 
今更、お前は何を言ってんの?とお思いでしょう。
 
しかし、今までのマンガの場合、「どうせ最後は主人公が勝つだろう」という認識だったと思うんですよ。
これ、ネギまでも同じで、どうせ最後に主人公が勝つだろう、とは思いますが、「その理由は?」というと、トゥルーエンドに到達するために目に見えないループが存在するから、なのです。前者は単なるご都合主義ですけど、後者のご都合主義はもう少し偶然性の低いものだと言えそうなのです。
 
このことによって、
ネギま!って人が死んだりしねーじゃん、子供向けwwwダセェwww」みたいな意見に対して、「バッドエンドを妄想しないお前が悪いんじゃん」……みたいな問題の次元のズレが発生するといえるでしょう。(後で某氏に謝罪かも)
 
 
で、ここからはオマケなんでけど、ループ構造とメタ認識はセットなんで、作中でループ構造が発生した場合、メタ認識もセットになって販売される傾向があるかもしれない、ということ。キャラに影響がでないと変ですよね。
 
次に、タイムマシンのような小道具を使わずにループを発生させる方法というところでの意味。神のみも作者のブログで2周目と(編集者の指摘で)言及されていますが、別段タイムマシンの無いところでのループ構造ですよね。あっちは女の子を落とすのに失敗したらバッドエンドですけど、「落とし神」の名の通り、まず失敗させないでしょう(笑)その意味でも、ネギま!のトゥルーエンド体質と近い構造を持っていると言えます。
むしろ無数の「妄想バッドエンド」を背景としていることが、ストーリー型のネギまよりも、わかり易いと言えるのではないかと。(その意味では、ストーリー型なのに、ループ構造化しているネギまって何なの?という話かもしれません)
 
このバッドエンド分岐なんかは別メディアで既に広く認知された存在なので、取り立てて珍しいものではありません。ですけど、トゥルーエンドを志向する全ての作品で、(タイムマシンなしでも)応用できる可能性があるということだと思います。そういう使い方もできるでしょうし、逆に、分析するときに役に立つかも?って話なのかもしれません。
 
 
なんか、かっちょいい言葉になればいいんですけど、
私のネーミングセンスだと、トゥルーエンド・ループとか、妄想バッドエンドみたいな中途半端な語句の組み合わせになってしまうのであります。ダセェ。
 
で、本当ならネギまのループはいつから?みたいな話をすべきなんでしょう。たぶん学祭のカシオペアで根付いたんだと思うんですけど、その辺りの話はその内に再読してからでご勘弁を(笑)
 
 
○追記部分
それでこれを書くと「作品構造レベル」での葛藤やら対立、対比がでてきゃちゃうんじゃないかと。たとえばネギま!が「トゥルーエンド主義」のような分類になった場合、他の作品を単純に「バッドエンド作品」みたいに決め付けてしまうと、これは非常に具合が悪くなってしまうんですね(笑)*3ので、ジャズ的な「ワンアンドオンリー」みたいな概念との対比が良いのではないかと。 一期一会っていうか、ぶっつけ本番っていうか。真・現実主義とか書くとそれっぽい響きが……
 
 

*1:この新しい契約をもって、ネギま聖典とする原理主義の発生がっ!←バカ

*2:逆に、明確な演出意図がわかりにくい状態で、変にバッドエンドを連想させるようなことが起こると、「越後屋・共犯関係」のルールにより読者炎上…………となるわけですね(笑)

*3:特に私がw