雑記(メモ)

 
・カメラ演出関連

カメラ キャラ 背景 使用例
固定 固定 固定 立ち止まって喋っている等
固定 固定 移動 電車に乗っている等
固定 移動 固定 キャラが動いている・画面外に出て行く等
固定 移動 移動 電車にキャラが走って追いつく等
移動 固定 固定 ズーム・イン/アウトの演出等
移動 固定 移動 キャラを中心にカメラがぐるっと回る等
移動 移動 固定 手前や奥に走ったり歩いたり
移動 移動 移動 並走するカメラを置き去りにする等

 
適当に考えてたらこうなった。これにプラスして「カットイン」のようなものがあるのかな。後はアングルとかの選択だけど、その辺の技術論はとりあえず放っておこう。簡単な図を作りたいな。
 
 
・言葉の死
考えてみれば、死語って、異化が終了したことによって起こる現象なんだね。異化が同化することなんかそうそうお目にかからないだろうとばかり思っていたが、案外身近にあったもんだ。今はなんとなく「俎上にのぼる」とか使いたい気分。「〜に載せる」が正しいっぽいのだとか。
 
 
・マヤ度
キャラクター漫画の究極は、そのキャラをガラスの仮面北島マヤが演じることだな。マヤが演じれば、どんな平凡な話であっても人の目を惹きつけずには居られないハズだからね。これを仮に「マヤ度」とすると、「マヤ度」がより高ければいいのであって、話の善し悪しは二の次ということが言える。…………二の次って一体!?!? しかし、落語に見られる現象と一致している気も。微妙だなぁ。きっとマヤが細部を勝手に作り変えるんじゃなかろうか(笑)
 
面白いのは、マヤが演じると演劇空間上に背景が出現する効果だな。
 
 
・非言語的評価(昨日のメモから派生)
より吟味する読みは絶対評価に近付いていき、より一般的・平均的な読みは相対評価へとなっていると仮定。
多くの作品に対して(私かそうであるように、)「面白い」か「つまらない」か的なデジタルな二極的評価しかしないと考えた場合、それは非言語的評価に近しいように思う。するとその評価系に対応するのはよりプリミティブな知覚刺激しかないような気もする。…………こっち系統の話に対する私の回答は、快感ではなく、快適感となる。
 
・日本語の快
ちょっと難しめの日本語は、使うのが楽しい。難しめの日本語を使うことに対して、ダメ教養主義とかで批判する向きもあるらしいのだけど、英語至上主義よりずっとマシ。意味を掴みようがない安易なカタカナ語の方がよっぽどエセ教養主義だろ?とか思う。ただし、分からないように書いてそれを自慢するのはバカだな。
地質学者のハットンは、分かり易く書けなかったせいで本気で読まれなかったらしい。学者ですら読まない・読めない本という存在は、反面教師的に考えて希望の光だな。暗黒すぎる(笑)
 
 
・もめんたむによる社会学
背景論を考えるために「街道をゆく」を読みたくなかったので、社会学の入門書にお呼ばれして処理に泣いている人がいるらしい。まったくどうしようもないな(笑)…………orz
 
全体最適の本であるところの「ザ・ゴール」なんだけど、何故あの本が「ザ・ゴール」かというと、コストワールドという抵抗意識をボトルネックと見做していて、合理性(→その方法論として制約条件の理論)による反論の形式をとっているからなのだ。これに社会学的な言葉と概念を使うと面白いことが分かる。
 
会社を「利益追求の場」と考えるのは(普通は)ちょっと抵抗があるわけだ。もう少し曖昧な「自己実現の場」みたいに考えているだろう。すると儲けの追及以外の行動が増えて、それを社風・カルチャー・モラルといった言葉でいじくりもてあそぶようになる。結果、不合理な行動が選択され易く、無駄な作業が増えたりしながら残業が増えることになっていく。その休みのない状態に対してマズロー的な「より高度な社会的・精神的満足を得ているのだ」と解釈することによって解決しよう/させようとするわけだ。つまり会社を自己実現の場と考えること自体が「コストワールド」の出発点であり、残業の源となるわけだ。
しかしマズロー欲求段階説は、下位の欲求を前提としてより上位の欲求を満たすという考えに基づいているから、あまりにも休みが少ないと、流石に不満や嫉妬が起こるようになる。言ってしまえば、これが(日本型)資本主義の欠陥構造ということになるのだろう。
 
身の回りの「儲けにつながらない行動」を数えていくと……(このブログとか?)……ギャー!!!
 
 
・物語とはなんぞや?的な考察
結論的には、物語とは「自分を映す鏡」なのだろう。自分を理解するのに、自分だけでは何故足りないのか?ということで悩んだのだが、一番シンプルな答えは「顔の形を知るときに鏡を見るから」だろう。社会学とかの言葉だと対自存在だとかなんとか。
 
 
・漫画はつまらなくなったのか?
仮に答えが2つ考えられて、物語消費論として考えると表面で消費されていく物語の質が落ちた可能性がひとつ。もう一つは(上の項から考えて)自分を映す鏡としての機能が弱くなっているのではないか?という可能性。
 
物語は生まれてすぐに完成して、それ以来、形を変えながら存続してきたものであって、たまたま我々の時代につまらなくなったりするのだろうか?と思うとそれは難しいんじゃなかろうか。なぜ1000年前に廃れてしまわなかったのか?ということだよね。表現形式自体は進化してきていて、字で書かれるようになったかと思えば、映画だの漫画だのアニメだのゲームだのといった風に枝葉を伸ばして来ている。漫画はその一分野に過ぎないとはいえ、物語そのものが衰退するとはとても思えないから、現代の語り手達が特別に下手(笑)とかって身も蓋もない可能性はあるかもしれないけど、それ以外の特別な理由に関しては懐疑的な気分になる。
 
安直な辺りだと、キャラクターの過剰な中心化(キャラクター漫画)が原因となって背後構造体という「大きな物語」から物語のエッセンスを汲み出せなくなっている、と考えられる。この場合、もう一度大きな物語にアクセスすること自体を考えないといけなくなるわけだ。個人的にそれは背景論という形になるね。まぁ、本当にキャラクター漫画の世界になっているのか?という話とかはあると思うけど、王者であるジャンプ漫画がキャラ漫画ならそうだろうね。
もう一つは、鏡としての機能に関して。語る側に問題があるケースと、受け手に問題がある場合と、その両方に問題がある場合とが考えられる。風刺というのは鏡的な反映性を再強化するための装置と言えるから、社会風刺的な舵取りをすることで、感情移入・没入の度合いが深まるかもしれない。それから受け手の自己そのものに異変が起こっていると考えた場合、語り手たちは彼らが反応しえる「新しい葛藤」を描かなければならず、それに対して準備が出来ていないのかもしれない、とかね。個人的には単に少子化の気がしてならないが。
(この辺りに関しては、てきとーに言葉をチラつかせてそれっぽいことを並べただけだから、内容は無いけどね)
 
 
人間性の薄っぺらさに対するリフレーミング
デイヴィッド・ロッジの「小説の技巧」と、それを引用した佐藤亜紀の「小説のストラテジー」で、それぞれ「描写と語り」「ディエーゲーシス/ミメーシス」として語られている内容がある。簡単に要約すると、描写(ミメーシス)というのは、表現している部分とかセリフ。語り(ディエーゲーシス)というのは、要約している部分とか、説明の部分だという。
描写によって時間はゆっくりと流れ、より細かく表現される。一方、語りによって時間はすばやく流れ、より大まかに表現される、というわけだ。……で、語りを突き詰めると登場人物の人間性はすべて剥ぎ取られて薄っぺらになっていくという。キャラの立体性や重さに価値を見出す価値観を持っている場合、うすっぺらさというのはちょっと失敗的だが、勿論そうではない小説の例も示されている。ヴォルテールの「カンディード」は語りを主体的手法として使うことで圧倒的なスピード感を出し、翻弄される人間の姿を描いているそうだ。(語りなのに描くとは何事?)
 
このひらべったさなのだけど、ジジェクだったかが「民主主義というのは個性を全て剥ぎ取って残った人間を対象にしている」みたいなこと書いているらしい。(思いっきりうろ覚え) 表面の人間性に価値を見出すのも結構だが、全て剥ぎ取った跡に残ったものが善であるというのは確かに巧いやり方のように思える。もちろん、人間なんて所詮どうにもならない、どうしようもないと言った諦めを描くのでも使えるだろう。マクロ的視点でも同様に、人間性や個性と言われるような表面的な差異は無視されるわけだし、結構大事なことかもしれない。
 
 
というわけで、頭からっぽにする大作戦。
ラブシャーで先生のお相手の予想が的中してガッツポーズ。くそー、書いておけば良かった。書いてる途中で消えちまってて。今週のバクマンの話とかも何か書いたんだけどね。もう忘れたけど。