雑記

 
・人を説得する場合、論理よりも属性の方が強い。たいてー論理は理解できなくても属性(権力的な意味でのパワーとか)は理解できるからだ。そんなのは言葉によるコミュニケーションのパーセンテージが如何に低いかということでしかないんだが、でもまぁ、論理を解さない相手と話すのは「無駄に感じる」わな。でも相手は人間(神)であるという理由で無視されたくないと思っていて、それが正しいことだと主張し、もしかすると反撃してくる。このため「殴る」とかってタイプのコミュニケーションを視野に入れる必要が出てくるわけだ。それはパワーだから、パワーは理解できる、というバカな話になる。言葉は解さない癖に、暴力で解決する前に言葉を使え、みたいな。
 
で、暴力以外の手段を複数用意できるかどうかが実力だという話もあるだろうし、それは単なる逃げだ(バキ)みたいな話もあるわけだけど、テメーらになんぞ理解されなくて結構!とやってしまわれると本などはとても難しくなる(苦笑) 理解できない理由は幾らかには「人間ドラマ」が存在している。ストーリー的に自分が考える最高のタイミングで物事を得たいと考える辺りが原因なわけだ。この圧力は結構強いし、だから答えをバシッと突きつけても納得しないし、出来ない。
 
一方で私の様なタイプは自分で気が付きたい派に属する。思い付きはインスピレーション・霊感とか言われるように、神様からの贈り物のようなもので、「自分で気が付く」ということは神の神託を解釈する預言者みたいな位置付けをその根底に持っている。これは大げさに聞えるかもしれないのだけど、日常にあるちょっとした「ラッキー」みたいなものが「何処から来るのか?」と考え無いのに近い。ラッキーなんてのは全て神に繋がっているのだけど、まるでラッキーはラッキーだけの単体で存在しているかのつもりで使ってしまえるし、そうやって単体で使うことで(神を無視することで)安心を得ている。ラッキーは潜在的な「定められた人生」といった観念にとても繋がり易く、その中でラッキーを得るということの喜びとはどこからくるのかと言えば、神みたいな曖昧な、だけど巨大な概念に収斂もしくは「廃棄」されているのだ。 ……例えば自分はいつか死ぬと分かっていても(それは常に分かっているつもりになっているだけなんだけど)死ぬだなんてことは意識しないで「いる」し「いられる」、ということと同じ構造をしている。というか、思っているよりも多くのことが神とかに繋がっているだけのことで(苦笑) ちょっと話がズレたけど、思考すれば(不幸にも)「思考」と「発想」の違いを自覚せざるを得ないし、インスピレーションに魅せられた人にとって思考は実に詰まらないものだと気付かされてしまう。「自分」に属する思考は、「自分」に属さない発想・インスピレーションにとって糧だか触媒みたいなものでしかない。
まぁ、ブログなんかだと「思考と発想の両方を巧く使えるといいよね?」的な落としどころで綺麗に纏めるエントリにするのが得策なのだろうけど、一般論ではない極めて個人的な見解では、インスピレーションだののご神託を要求しはじめると乞食状態になるね。神に対して怒ったりしながら、自分の人生を返せ!と脅しつけて霊感を要求したりすれば案外それで巧くいくことが多くて、だからそれで旨みを感じてしまうと人生ってヤツはあんまり褒められない方向に進んでいくことになる。渡世の価値観なんてものは神を前にすればあっても無いようなものなのだけど。 ……実際のところ、インスピレーションに霊感とか神とかの概念をあてているのは、コントロールできないそれらをいくらかでも制御するための装置といったものだ。インスピレーションは思考からは生まれない。それは思考と思考の「隙間」からやってくる。その沈黙を含んだ「間」のような何処に繋がっているとも知れない場所に滲ませフェードアウトさせても良いし、そこを深淵と呼ぶのも一興であろう。
 
自分を説得しえる相手としてインスピレーションを選ぶ、ということも結局は人生ドラマでしかないし、他者を巻き込むか、神を巻き込むか?ぐらいの差しかないわけだ。厳密に思考しようとすればインスピレーションを自分に含ませることは出来なくなっていく。だから、他者の思考はともかく他者の隙間から生まれたインスピレーションは、自分のそれと同等の価値を認めねばなるまいよ。この隙間は誰にでもあるし、その隙間を通じて神に通じているということ、そして我々は神を解して繋がっているという風に書くことが出来る。問題は、他者ってヤツがインスピレーションに従うとは限らず、嘘と見分けが付かなかったりだとか、自分の思考をより上位と見做してしがみついたりすることにあって、勿論このサイトも似たり寄ったりな状況だったりするんだけども、本人ですらいろいろと区別が付かなかったりするんだからしかたあんめぇ、なわけだな(苦笑)
 
境界線は常に曖昧なものなわけだけど、これはどちらかと言えば「一体性の罠」と言う方が近いかもしれない。神は人間の油断に付け込み、分離主義の幻想を打ち砕こうと罠を張り巡らせている。分離主義にとって引きこもりは英雄的行為だよ。負けが確定しているという意味でも英雄的行為だと思う(苦笑) 人との繋がりは簡単に途切れてしまう糸のようであり、しかし背後に忍び寄る影のようでもあったりする。
大抵の場合、自己と他者とを明確に区別しておきたいと我々は考えているし、そういった分離主義を無自覚であれ選択しているのだから、現在の社会から利益を得ているのであれば分離主義者だと考えて間違いはない。社会主義だとかに対する表面的な理解も計画的なものだし、レッテルとかラベリングとかで一定の勝利を得ているに過ぎない。まぁその敵視しているモノが良いものか悪いものか理解できているかどうか?はまた別の話なのだろうけれど。
 
 
 
・要素数が少ない場合は相対論的な価値観の誤魔化しが効くのだけど、複数要素になっていくにつれて価値観の絶対性が強くなっていくように思う。どうやらこれは記号論の相互排他性の影響ではなかろうか。相互排他性とは、「AはBではないものであり、BはAではないもの」といったことらしい。リンゴはみかんではないし、みかんはリンゴではない。もしくは大きいという概念は、小さいという概念の以外の何かで出来ていて、小さいの方は逆に大きいという概念以外の何かで出来ている。相互に排他し、それぞれの位置(価値)を特定するために他者が必要になるという外部要因性が記号論の特徴らしい。まぁ勉強している人にはあったり前のことなんだろうけど。
で、相対論で価値観の多様性を作り出そうとすると、相互排他性が邪魔をして決定できなくなっていくのではないか、と思うわけだ。メロンに別の名前をつけようとしてその可能性を保留しようとすると、その保留によって別の可能性を確定できなくなる。「可能性の保留」は「安直な決め付け」と対比されることで、より「正しい態度」となっている。このため、より正しいはずの「可能性の保留」を行った上で議論を進めようとすると、相互排他性によってその他の可能性でも保留が発生し、負荷が極端に増大していく。このことを回避するために「叩き台」みたいな「一時的な決め付け」を用意するわけだけど、それはともかくとして相互排他性がこの負荷の原因だと見做して良いと思う。そして相対的な価値観を徹底することが出来ないのはそれが「可能性を保留」させた「非絶対」的な文脈を有しているからで、人間の膨大な処理力を持ってしても、可能性を保留させたままでドライブさせるのは無茶な話なのだろう。確かに「決め付け」てしまうことでその価値観を絶対化してしまうのは相対性の運用・イメージからはブレるかもしれないね。
しかし相対論ではむしろ矛盾がなさ過ぎることによって「冷たく」なってしまわないだろうか。絶対論のいいところは、矛盾が存在することかもしれず、だから矛盾はむしろ「暖かい」と感じてしまっていいのかも知れない。まぁ、愚にもつかないんだけどね。
 
 
東のエデン
グンと面白くなってきたでぇ!と思うところなんだけど、滝沢のリア充っぷりとパンツの喪男を比較して考えると、つまりリア充がマイナス要因だってことなのかなぁ。嫌だな、そんなの安直すぎて。
 
けいおん!
先週は今週とセットで考えないとね。先週が「ああ」でないと今週は「こう」とはならないわけで。
 
 
べるぜバブ
……を考えると、あれって横綱相撲なんじゃないか?とか思ってしまう。内容に対する考察と「枠」に対する考察とがあって、内容よりも構造だとかの「枠組み」に対する考察に流れていくものなんだけど、その意味で横綱的な展開法(なだけ)じゃないか?と思う。
 
本命マンガとその他マンガとを考えて、その他マンガの最高峰はたぶん7SEEDSみたいなものじゃないかと思う。あれはつまみ食いするのには最高だものね。これは何をもって「王道」と呼ぶか?という話に派生するんだけど、べるぜバブは王道的な展開をしているけれど、本命にはとてもじゃないけど出来ない。遅すぎるし、情報が少なすぎる。逆に情報が少ないことによって気楽に読める点が好評なんじゃないかと思うほどだ。
別の観点からすれば、ワンピースみたいな作品だとかが雑誌の中で中心的な位置づけが明確なため、当然に棲み分けが必要なんだろうけど、じゃあ横綱相撲しているのはなんなんだろう。
 
やっぱ枠組みの勝負なのかなぁ。そっちに偏るのもあんまし好きじゃないんだけど。