雑記(水で作られたロボット)

 
●ロボットらしさの追及もしないで
人間の多層性・多面性を無視して、「人間のロボットらしさ」と「人間の人間らしさ」を対決させたら、人間らしさが勝つとかって思想はいい加減に頭悪いからなんとかならんのだろうか。どう考えても夢を見すぎているだろう。人間の人間らしさで仮に120%の性能を発揮できたとしよう。しかし人間のロボット成分は300〜400%ぐらいの性能を軽く有しているだろうよ。勝負になんかなんねーよ。
かといって100m走が6秒とかですぐさま走れるようになるなんて言わないけどな。でも12秒で走っている人達が9秒代に突入する程度に能力を発揮している可能性はあるかもしれないぜ?
 
人間の人間らしさの何処に夢をみる余地があるのだろう? 火事場のバカ力ですらロボット成分に過ぎない。最初から備わっている・用意されているものを使っておいて、人間らしさとかって疲れることは言わないで欲しい。普段の何処で、自分の人間らしさが、自分の生物機械的な要素を越えた実力を発揮しているだろう? これは比較するパートが違い過ぎるのが問題だ。
複雑な生存環境において「間違いうる」ということがセレンディピティ的に有意義な側面を持ちうることはたしかにある。でもここで問題にしているのはそういうことではない。「人間の人間らしさ」というのは「制御方式」のことだからだ。歩いたり、話たりをある程度の精度・範囲において「意図した通り」に制御する方式の一つが人間の「人間らしさ」というものだ。だから、能力発揮・能力測定に対して、「人間の人間らしさ方式」と「人間のロボットらしさ方式」で勝負したとしたら、まったく勝負にならなくなる。コストが低く、安全に制御できる低次制御方式こそが(この文脈で使われている)「人間らしさ」の正体だからだ。
 
キーボード一つ叩くのにしても、「あ」とか「い」を探して打っている段階を過ぎてしまえば、ほぼ無意識に指を動かしているだろう。その時、その動かし方に「人間らしさ」は必要だろうか?アホか、いらねーよ、そんなもん。
 
そして、ありがたいことに人間は最初っから「多層的な存在」だ。自分の道具的・機械的側面を選択的に発揮する自由が与えられている。機械的側面を利用して表現した先に自分らしさでもなんでも籠めたきゃこめればいい。
 
 
通常の機械らしさに付きまとう金属的な性質はその構成成分から抽出したイメージだろう。道具といえば木材のイメージが混ざるかもしれない。ところで人間や動物のよな「生物機械」ならば、その機械としてのイメージはどうなるだろうね?
宮本武蔵の言葉を借りるのならば、水じゃね?
 
 
人間という生物機械は、その多くが水分で出来ている。
 
 
水で出来たロボット。
 
そのロボットらしさって、どんなイメージ?

 
それが、人間の本当の人間らしさだよ。
 
 
 
(やっぱ無理。刹那がアホな方向に行くぐらいなら、喧嘩した方がマシ。)