ヱヴァ:破

 
圧倒的だったなぁ。とても長い映画だった気がする。大満足。もっと続きが見たいのだけど、今日のところは勘弁してやろう(苦笑)と思ったり。
考察やら何やら書いたけど、ネタバレタグつけて続きを読むの記法だから遠慮してないのでヨロ。
 

 
でわでわ、
見ていないのにネタバレ感想を読もうとかいう(私のような)不届きものがいるかもしれないので敢えて罰的に暴露すると、トウジの代わりにアスカがダミープラグに潰されてる。それとゼルエル戦で自爆を敢行した綾波が使途に取り込まれ、それを見たシンジが「男の戦い(TV版19話)」的に戦い始める。暴走からの永久機関の捕食じゃなくてAir/まごころ〜みたいな感じでサードインパクト直前の状態になる天使化だ。結果、綾波を取り戻すものの、そのままサードインパクトか?という所でスタッフロール。ガンダムOOみたいにエンディング後にシーンが挿入されて、そのまま逝っちゃおうとしていた初号機をロンギヌスの槍で貫きストップさせる、真打カヲル君が新型エヴァに乗って登場する。以上。
 
 
では、語りたい欲求を満たすべく書き連ねるとしよう。ちなみにパンフ類は売り切れてたので参照してない・できなかった。品薄とかバカじゃねーのかよ、マジかよ、という状態。 orz。
 
簡単に言うと、ドラマの最大化だったねぇ。アスカの代わりに新キャラのマリを代理に立てたってストーリーだから、アスカが2人になっただけだったわけだけど、マリの方の掘り下げがどのくらい行われるのか?というのが今後の見所かな、と。
 
文脈的な問題として、ゲームのエヴァ2の見立てが正しかったことが証明されたという印象。やはり芝村さんは凄かったというのが本当のところかなぁ。イベントの組合せだとか、ループ構造をその外部に持っていたなどが新ヱヴァの基礎になっていると思う。知らなくても全然・大丈夫ではあるんだけど、知っていると凄まじいものがある。
 
ともかく、
最大の見せ場はやっぱりトウジの代わりにアスカがグシャッとやられるところ。論理的な構造としてゼルエル戦(男の戦い)でアスカがいなくなってしまうんだろうね。これを補う意味で新キャラを配置してある、という見立てで仮組みすべきだろう。
 
とりあえず、論理的に明快な構造で抜けがないのが分かる。TV版で落下してくる使途でゲンドウに褒められ、トウジを潰すことで失望し、ゼルエル戦で男の子するわけだからイベントで繋がっているといっても、この順番は崩せない。今回の映画でもこの順番は守られていることから、最後のゼルエル戦で男の戦いをメインに持ってくる意識が脚本側にある。
 
本来のアスカはゼルエル戦後にサラッと敗北・精神汚染してレイプ後(笑)の状態で発見されている。つまり、アスカのドラマがおざなりというか、シンジと絡んで無いから散漫というか、なのよね。トウジもある意味でポッと出だったからアスカをここにあてがったのは確かに巧いと思う。食べられてしまうのは旧作映画でも存在するイメージだけに、アスカってキャラは食べられる運命にあるのかもしれないねぇ。
ともかく映画の尺だとクラスメイトのキャラにまで焦点を当て切れないし、ヒカリ(委員長)とアスカの関係があった上で、トウジをプチッとやるわけじゃん。その手で更にカヲルを潰して殺す演出が重なるんだけど、今回は噛んでいるだとか、カヲルがエヴァに乗って登場してたりするわけで、その辺りも興味深い。
 
 
真希波・マリ・イラストリアス
マリはアスカその2だ、と書いたんだけど、これが何故か?と考えるとエヴァエヴァに留めるための処置だと思われ。アスカというエヴァのもっともエヴァらしいキャラが2つに分裂していることによって、エヴァエヴァ以外のものにせずに済んでいる、というわけだ。ここから先のルートは分岐することが許されているだろうから、どう展開するのか?という部分で期待したい。
 
例えば、今回のアスカの登場シーンは空から落下してそのままバトルになっている。そしてシンジの前に出てくるマリはパラシュートで空から落ちてきて激突する(笑) これはラピュタその他で見られる「落ちてくる美少女」(専門用語があるらしいけど忘れた)であって、この2人が同じ登場方法として踏襲されている。勿論、わざとだからマリはアスカの分身として登場していることになっているわけだ。これがアスカが海からじゃなかった主な理由だろうね。恋するに値するオンナノコは突然に空から降ってこないといけないんだよ! がんばれ、世の美少女たち!ってこった(笑)
 
 
綾波とシンジ
「来い!」と叫んだシンジ。こんなのシンジじゃねぇ!的な叫びが聞えてきそうなんだけど、潜在的なシンジに対する不満っていうのはゲンドウの子供がどうしてこんなに貧弱貧弱貧弱ゥ〜なんだ?という部分に存在しているから、カエルの子する方がむしろ自然だといえる。ゲンドウの世界を歪めようかという我儘がシンジにはどうして無いのか?ってね。それが今回の演出によって明確になった。やっぱりシンジはゲンドウの子であって、その本質はもうどうしようもなく我儘なわけで。だから、今までのシンジってのは我儘だったけどそれが単に内向きなだけだった、とか言う風に回収されることになるわけだ。
 
綾波は完成形の長門有希ハルヒ等の登場によって旧ザク化しているわけだけど、今回も人間っぽいイベントをやっているので人によっては違和感もあるかと思われ(笑)
綾波はもともと二重・三重的な存在で、母であり娘でもある。ゲンドウはレイに母(碇ユイ)の姿を重ねて見ている。比較してシンジはユイを知らないことによってレイそのものを見ているわけだから、綾波がシンジを選ぶのは本人にすれば当然だよね。
綾波を通してエディプスコンプレックスの文脈・構造で父と子の話を作っていることになる。母親を寝取りたい子供の欲求、それを許さない父親との対立。それが綾波レイの本質部分になっているわけだ。
 
例えば上でアスカが2人と書いたのだけど、ここに気が付いた場合、じゃあ次はレイを2人にすればいいんじゃね?と必ず誰かが考えるものなんだけど、論理的にそれは難しい、もしくは無理だということが分かる。(分かるかな?)
だって分割しちゃったらゲンドウとシンジの間に対立を起こさなくなって、それだと単なる無口キャラでしかなくなってしまうのだ。母親と恋人・もくは姉だか妹だかに分離しちゃったら普通の家族関係だもの。綾波が統合的なキャラだからこそ、もしくは常に1人しかいないからこそ、2人は潜在的に争うことが出来るわけだ。(まぁエヴァ初号機というユイは居るんだけどね)
 
そしてこの縛りが存在するからこそ、綾波は無口キャラに相応しくない行動を採り始めることになる。それが今回のお食事会イベントというこったね。つまり、実は「綾波らしい行動」と言えるわけだ。
 
それと特記事項としては、シンジに「来い!」といわれて反応したのは、彼女がシンジと同じタイプ、ハッキリ言えばもう一人のシンジだからだろうね。母ユイが娘だったらレイにすると言っていたように、シンジ自身が「来い!」と言われて引っ張られたい部分が綾波の中にも同様に存在している、という表現になっている。綾波が女シンジだから、というイメージで補間される場合、家族愛に近くなってしまって、これは恋愛か?という疑問が生まれてくることになる。旧作の映画版が「他人としてのアスカ」を選択したということを踏まえておくべきだろう。先の展開が楽しくなるかどうかは知らんけど。
 
 
●それ以外
見てる人には書くまでもないことも多いしなぁ。
とりあえず1回見た程度ではこのぐらい押さえてあれば十分かなぁ?と思ってはいる。パンフないんじゃパンフ見ている人の認識がどうなっているのかさっぱりだし。
 
ネルフ本部の方はボロボロでも問題ないんだけど、地上の街並みが消えるのは心の荒廃とも関係があるから、エンディング直前(補完計画発動)になっちゃうんだよね。地上部分が平気なのかどうか?というのは記号的に非常に重要だったり。たぶん大丈夫なんだと思うのだけど。まだ使途を必要な「数」倒してないだろうし。(数には関係なく補完計画は発動可能だけど、映画は2本残っているから)
 
・分かり易かったのは、ビルが生えてくる光景を無視して通勤する人々の姿だったりね。無視することで日常化していたのは流石。そういう絵を入れてあることが働き蟻的に通勤・通学する日本人の姿を交えて、アートっぽい気がしないでもない。アートなんてワカランのだけど(笑)