ネタの格納庫。割と思い出した順に並べてある。
 
八百長問題(筋書%)
筋書きの有無で判断し、プロレスを八百長と呼ぶのであれば、現代の格闘技の全てが八百長になってしまう。
そもそも筋書0%の状態とはどういう状態であろうか? それは開始や終了どころか相手を選択する段階においてすら全くのノールールでなければならない。仮に2人の凄腕剣士が居たとして、彼らが真剣で果し合いに挑んだとしたら、これには暗黙の筋書が存在しているだろう。相手を手紙なりで呼び出して、さぁ始めましょうとお互いが構える。これが茶番でなければなんだ? 相手を殺したいのならば、遠距離から狙撃なり、暗殺者を雇って毒殺などすればいい。多人数で囲って一方的に打ちのめし、最後に自分で止めを刺すのはどうか。わざわざ自分の命を危険に晒して格闘技ゴッコなどしてみせるのが「筋書無しの闘争状態」だと言えるのか?そんなハズが無いだろう。
 
もう少しアナログに考えてみよう。武器の使用選択、開始・終了のルールなどの最低限のルールを設定し、不意打ちを禁じて平等な状態で戦いをスタートさせることにしたとする。この状態を筋書き10〜30%だとしよう。
次に死の危険を排除しているような打撃系格闘技を想定し、ダウンした相手への追撃を禁じたり、目突き、金的攻撃の禁止などを盛り込んだ場合を筋書30〜50%ぐらいだとしよう。
更にプロレスで相手の攻撃を「受けて魅せる」などのルールを盛り込み、一応は流れで勝敗を決める(どっちが勝つかまでは決めていない)ブックを用意した場合を筋書50〜80%と見做すとしよう。
この様な様々な筋書%において、本質的な差異はどこに求められるのだろう? ………… そんな差異なんぞありゃしないのだ*1
 
ならば、勝ち負けが決められていたらどうなるのだろう? それは前提の目的に左右される。勝敗を賭けていたら筋書きの存在によって賭けが無意味になる。多くの人々は「だから格闘技が無意味になる」と考えるのだが、これは当然なのだろうか? 格闘技ではなく賭けが無意味になったことを混同していないか。それに多くの人々は格闘技を見ることに対して勝敗のみに興味・関心を抱くわけではない。それならば対戦結果を新聞なりで知れば済むことになるが、実状はそうではない。
ここまでで見てきた通り、格闘技は暗黙のルールの存在によって守られた「筋書のあるドラマ」である(多かれ少なかれ) よって動作の完成度などの一連の身体的なパフォーマンス・表現を見聞きし、触れることに意義を見出していることが言える。
 
では問題の完全に筋書きが決定された筋書100%での格闘技はどうか。筋書100%とはどのような状態なのか。それは全ての技の使用・順番が決められ、完全にブレることがない状態のそれを指す。例えるならばコンピュータの格闘ゲームで事前にプログラムされた戦闘を眺めるのに似ている。コンピュータであれば、何度やっても再現率100%が維持されるだろう。…………しかし、人間は原理的にこうは行かないのである。どれだけ練習したとしても、全く同じタイミングで攻撃を仕掛けることなどは無理だ。そんなことは不可能だ。よって防御もその人間が許容するであろう微細なズレに対応しなければならなくなる。このズレと修正は絶えず連続することになる*2。そこでは必ずや真剣さが火をともすことになるだろう。
ならば、そこに掛かる修練や熱情は人に感動を生まずには居られないだろう。筋書100%が存在したとして、その筋を限りなく100%に近い状態で再現することには、大変な困難が要求される。ここにおいて格闘技は演劇・演舞へとその姿を変えるが、それを言うのであれば筋書きが1%でも含まれる対象の全ては最初から演劇的要素を含んでいたと看破されなければならない!*3
 
結論として、1)我々は一切の演劇性を持たない格闘技をエンタメとして楽しむことが出来ない。それらはただの暴力行為や殺しであり、既に格闘技ではなくなっている。
次に、2)格闘技を楽しむ人々はプロセスやそこで表現されるパフォーマンスを求めている。勝敗にのみ関心があるのであれば、結果だけ知れば良い事になるからだ。このため 3)筋書%の高さはその競技を非難する理由とすることは出来ない。 そんなのは映画や演劇、サーカスを見に行って八百長だ!と叫ぶ不見識と同質の行為だ。
格闘技は全て演劇性を内包する。よって格闘技の筋書の存在に暗黙的に同意している(することになる)。故に、格闘技を楽しむ人々はそこで表現されるパフォーマンスを求めていることになる。
 
勝ち負けが決定していないことは、対戦者同士が真面目に戦い合うことを(ある意味で)保証させようとする仕組みである。それは筋書とは関係の無い「別の要素」を決定しようとする。勝敗が決まっている戦いは即ち「手抜き」だという認識が隠れており、自分を感動させるにはぬるいパフォーマンスであってはダメだ!とする気持ちが筋書きを否定させている。なぜならば、演劇性が高く真剣に戦っているように見えされすれば、結果、文句は言われにくいことが言えるからだ。(単に他人が傷付く姿を見たいだけの人間も多いかもしれないが、それは格闘技を好んでいないのは明白だろう。もののついでに過ぎない)
 
真の問題は「自分が感動するかどうか」にあるため、筋書きとはほぼ関係がない。表現されるパフォーマンスのレベルが、支払ったコストとの関係において自分を満足させるかどうか?の一点よって決められる話なのだろう。
逆にいえば「勝敗が決められていないこと」は、観客を満足させられない低パフォーマンスにおいて、一定の満足を保証する「文化的な仕組み」ということになるのかもしれない。(終わり)
 
○演劇性による過剰化
ルールに即した技術系だけで相手と戦って殺したり死んだりを強要されたり、仲間が目の前で殺されようとしていても1対1であれば黙って観ていなければならなかったり、逃げたら「卑怯者」などとレッテルを貼られ、社会的に抹殺されるようなデメリットを配置したり。既にノールールの闘争状態とは別種の厳しさを対価的に導入してあるのに、その狂気に気付くのが難しくなってしまっている。たぶん他所の星の人々からすれば物凄く不自由な状態を甘受しているように見えるだろう。演劇性があるからぬるいどころか、実際にはもっとエグいことにしちゃっている、というか。避けられるのに、受けなきゃならなかったり、とかね。
 
 
●物語殺し
物語=運命 なので「運命を変えること、悪しき物語を終わらせること」を「物語殺し」と呼んでいます。これもループ系の物語で見られるパターンです。ガンダムF91という作品は1stガンダムのリメイク的なことになっている物語で、主人公のシーブックアムロの生まれ変わりの様な存在として語られることになります。ここで一番分かり易い物語殺しとは、アムロは戦争によって人類が半分になった後に登場する主人公なのに対し、シーブックは人類が1/10になってしまうのを防いだ主人公だということです。前段の物語(運命)が語られていることによって「運命を変えた」と見做すことが出来る様になっているわけです。しかし、このことはシーブックの手柄とはなりません。起こらなかった悲劇から世界を救っても、その手柄は誰にも知られることが無いからです。(匿名的英雄の発生!)
ララァの死によってアムロとシャアの物語は着地点を失ってしまいます*4。つまり成し遂げられなかった恋愛面での完成を意図していて、F91ではシーブックとセシリーというNT同士による完全恋愛を果たさせようとするのです。このことによって「完成する」のですね。言ってしまえばガンダムに決着を付け、終わらせる(殺す)ための物語だったということになります。(その後Vガンダムで壊しに掛かり、ターンAで全て黒歴史に(苦笑))これらガンダムの完成によって物語の機運はエヴァンゲリオン(TV放送1995年〜)へと繋がっていくことになります。
ちょっと余談で、
敵のMA・ラフレシアは例えるなら機械獣みたいなスーパーロボットへの「先祖返り」を果たしており、作中でリアル系vsスーパー系による頂上決戦の様相を呈していたりします。当然、リアルだのスーパーだのの分類は某ゲームが作られた頃の用語・認識*5のため、当時はこの視点で観ることは難しかったのですが、その分、潜在的なエンタメ性の高さが伺えるという話でもあります。
 
 
ガンダムに見る「運動の論理」
慣性の法則
何度も見ている人にとっては感覚的に分かることなのだが、ガンダムではモビルスーツの機動で反転して逆行しようとすると撃墜されるようになっている。これが何度も繰り返されるものだから、法則の様になり見てて怖くなる(苦笑)
意味が分からない人のために説明すると、宇宙空間では(現実には地球上でも同じなんだけど)慣性の法則が働く。真っ直ぐワーッと直進している所から、反転して逆進する場合、まず直進してたのと同じだけの推力をブレーキで使う。更に逆進する際にも推力を使う必要があるため、停止・再加速の間が狙い撃たれ易い一番悪い動き方になってしまう。この動作が「撃墜フラグ」としてお約束になっているわけだ。このお約束を作ることで、作中のモビルスーツ戦闘には間接的に慣性の法則が存在することになっている。(Ζ以降だったかな?)
 
・残身(ざんしん)
空手など格闘技の「動作終わりの態度」(心持ち)のことで、大雑把な意味としては「相手の反撃がまだあるかもしれないから、心を残しておくこと」といった内容。
F91ではこの残身が取り入れられ、一種の様式美として機能している。ロボット戦闘は大抵「やっつけたらお終い」になってしまうのだが、F91では何度か倒した直後に反撃してくるシーンがある。教条的ではあるが「やったらやりっ放し」の態度では直ぐに撃墜されてしまうのである。
本来の残身としては、最後にラフレシアを倒し、残像を残して引くところの「余韻」に強さと美しさを兼ね備えた機能美を見ることが出来るだろう。
 
●文字制限は、リテラシー制限
ニコニコ動画のコメントや、ツイッターのようなサービスでは、文字数に制限があることがリテラシーの差を吸収する仕組みとなり、コミュニケーション・コストを下げていると観察される。
 
 
●新人に贈る挽歌 (……って挽歌かよ!)
まず、勝ち組の人生を生きるんだ!って「決めている人」はとっくに勉強してるだろうし、ネットなんかも一流どころをさらう程度だろうから、ウチを読むとはとても思えない(笑) アドバイスなんて必要なし。自分で考えることが大事なのは百も承知しているだろう。失敗を自分の責任だと感じることが重要だ。実際に「も」分かり切っていることばっかりが並ぶものだろう。たまーに認識力が高まったりした時に常識で言っていることの一部に物凄い価値があるんだ!って気が付くことがあるってぐらいじゃないかな。
そしてこのクラスの人達は人生の最奥を眺めることはできないし、望んでもいけない。勝つことだけを考えていたら、そんなものに興味は抱かないハズなんだ。少なくとも引退するまではやめとけーって感じだよね。……でも回り始めたら、不思議なことに、常識からはどんどん外れていくハズだ。それで合ってる。飛び移るタイミングも自然と身に付く。でも最後辺りは謙虚さが大事だとか正しいことをしよう、爽やかに生きたいみたいな分かり切っていると思っていることに辿り着いたりするものだったり。
 
 
次に、大半の人達は、自分は特別だと思いたがってはいても、実際のところは人並みの幸せを望んでいる。問題なのはどっちの割合が大きいか?という部分だろう。この2つは矛盾しているからね。本当のところ、大きな責任は持てないだろうし、持ちたくも無いでしょ。たっくさん努力するよりも、もっと大事なことがあるんだ!とか思うだろうし。基本的に友人を大事にすれば間違わない。金は使えば残らないからね。やはり人間が大事なんだよ。
オススメなのは、そこそこ勉強すること。特に最新の知識に対してミーハーでいるべし。その方がたくさん楽しめるよ。後は考え過ぎずにチャレンジっていう普通のアドバイスが本当にそうだから頑張ってみ、ってね。
そこそこ願いは叶う、けれど、一番欲しいものに限っては手に入らないって法則が発動するから、欲しいものからは上手に目を逸らしなさい、としか言えない。人生は上手くできているから、ちょっとは「変なこと」を意識してやっとくと良い。でも嫌なことをやっている人間からは何が何でも逃げたほうがいい。実際のところ、友人を「選べば」豊かな人生になるんだ。例え面白そうなヤツで一緒にいたら「特別な経験」が出来そうだと思っても、面倒に巻き込まれるのがオチだ。そして自分が土壇場で上手く処理できないってことを自覚した方が良い。地味な人生を怖れるのは分かるけど、派手な人生ってのは悲惨さも深い。豊かな人生ってのは、友人関係の豊かさが決めるんだよ。だけどコネみたいなエグいことはいちいち考えずに、気の合う友人を増やし続けるといいだろうね。目的は特に老後に孤独にならないようにすることだから必死にやんなさい。チャンスがあれば子供はたくさん作っとけ。
 
 
最後に特別な人生を……選んでいるかどうかは微妙だろうけど、そうなっちゃったお仲間さんは、ご愁傷様(笑) しょうがねぇよなぁ。大半は周囲からみたら変で失敗まがいの人生だろうさ。
他の人も読むだろうから書いておくのだが、レールから外れたら、海だよな。実際、風任せ、波まかせだろうよ。目的地だって正直、分からないし、どうなるのかなんて知ったことかって思うよ。流石に俺もレールにしがみ付く方が正しい生き方なんじゃねーかぐらいに思うようになったわ(苦笑)
既に歩いている場合は、足を継ぎ足せばいい。でも動き出していない場合は、高確率で奇跡が要る。ガンダムが大地に立つのは、ありゃ奇跡だからね。
最低限 覚えとくべきことだけど、まず、やはり人生に無駄はない。だから行く時は思いっきり行けばいい。最後は「死ぬ気」を出せばなんとかなる。命までは取られまいよ。死にそうになったら他人に遠慮なく頼ること。それは親だけじゃなくて、お役所だとか色々な(案外、サービスが揃ってる)。そしてやっぱり本当に大切なのは親だのの血縁だけだ。実際、死ぬほど親孝行しているだろ?(笑) 迷惑を掛けるのは死なせたく無いからだもんなぁ。最後にコンプレックスを克服できていない場合は…………基本はイベント待ちだろう。だけど法則が当てはまるとは限らんからどうなるかわからん。
 
 
●有能なフリをするための方法
一番簡単な方法は「正しいと思うこと、理想的なことをやること」。もう基本はコレしかない。やり方も「相手の気持ちを考えること」ぐらいだな。後はやれば分かる。これの真上の段階は、可能性のマトリックスに手を差し込むってレベルになるよ。関係性は意識で網を作ってるから、介入して成功させるとかいう厨二病(でもマジ)をやることになる。これは脳の潜在領域がフルで必要になるから恋だの女だのは邪魔になるね(笑) そのかし超面白い。
それが無理な場合、戦略や戦術を練って選択肢を増やしていくことになる。いわゆる「企み」ってヤツだね。これは王道というよりも腹黒かもしれない(苦笑)
 
 
●ピンチはチャンス
ピンチがなければチャンスは無い。ピンチの時に思い出せるといいのだけどね。
チャンスはピンチの中にある。普段からチャンスは普通に存在しているのだけれど、埋もれていて何処にあるかが分からない。ピンチになると、水位みたいなものが下がるので、チャンスを発見し易くなる。昔のサムライは戦争がなければ出世は無かった。戦争というピンチを待望したわけだ。命がけのピンチを出世のチャンスと見做していたわけだ。それに比べれば、まぁ、死にはすまいよ(しらんけどw)
 
●自分を信じるな、自分の中心軸を信じろ!
「自分を信じる」ということは「自分の出す結果を信じる」ということなのに、上手く結果が出るか分からない時に「自分を信じろ!」と言ってしまうのは、実際のところ意味の無いアドバイスだろう。
一つは、中心軸を信じること。自己は信じられない。努力も裏切る。しかし中心軸は裏切らない。なぜなら裏切りようがないからだ。出来・不出来は中心軸の問題に落とし込んで一元化してしまえばいい。
もう一つは確信の操作だ。不安に襲われたら、芥子粒サイズの「絶対的な確信」を作ること。どんなに小さくても大丈夫。間違っても全身をやる気や闘志などで満たそうとしてはいけない。ただ1粒の絶対的な確信の前に、全ての不安は吹き飛ぶ。
 
●「疲れ」の気持ち良さ
「疲れたって言うから疲れるんだ!」みたいな話があるが、何日か言わないってのを試したことがあって、疲れているはずなのに、疲れられず、不自然にしんどい(でも疲れてはいない)状態になったことがある。心身の不一致は非常に不快で、そろそろ疲れたいんだけど、どうやって疲れればいいのか分からなくなっていた。
その頃、缶コーヒーの宣伝で「ほっ」と一息、みたいな宣伝をやっていたのを思い出し、「ホッ」と気を抜いてみた。2度目には成功して、体の外の空間にあった「疲れ」らしきものが、体の中に入れるようになったらしく一気に流れ込んで来た*6。座って安静にしている状態からいっぺんに汗が噴出してドロンとした状態になったが、それはとても気持ちの良い「疲れ」だった。(こうなっちゃいけないよ)
 
●やる気ホルモン
丹田でやる気が出るって話があるんだけど、普段はそんなことは無いと思う。面倒臭がりが治るとはとても思えない。ただ、完全にやる気が出なかったことが一度だけあって、その時は病気でも無いのにまったく起き上がることが出来なかった。雪山明日菜並みのピンチ状態。
出来ることといえば、横になったまま呼吸することだけ。腸管免疫のことを聞きかじっていたので、もしかするとやる気に関係するホルモン物質が出せるかもしれないと考え、呼吸で腹圧を掛けたりしながら下丹田に刺激を与えることしばし、「ジワリ」という水分っぽい感触と共に、やる気みたいなものが出てきて、すぐに立てるようになった。まぁ、そういうこともあるらしい。
 

●嘘を付く子
怒って育てると嘘をつく子に育ち易い。これは嘘が自己防衛から生まれてくる適応だということに拠る。故に、嘘を付く子はあまり我慢できない傾向がある。
嘘をつかない子は、逆に我慢強い傾向になる。このため我慢の限界を超えた時にガス抜きの機能がなければパンクしてしまうと考えられる。
嘘を付くことでガス抜きができればパンクせずに済むわけで、嘘をつく子は我慢弱いけれど壊れにくいと言われる。嘘を付くようでは正面突破のエリートタイプには向かないかもしれないが、自営業で社長になったりするのかもしれず、一長一短……だといいけど、デメリットの方が大きいかもしれんね。
 

●論理語
口癖にすることで、思考を論理的にするための用語。
「そもそも」は前提の見直しに使われる。「逆に」と言えば、別の角度からの思考が促される。「ぶっちゃけ」「率直に言えば」は本音を明かすためのもの。これは隠したり秘密にすることでそれが弱点だと相手に認識されたり自分でも苦手意識に発展したりで「弱点化」することを防ぐ意味もある。嘘を付くにしても本音は混ぜるものなので、ある程度までは意図的にぶっちゃけておいた方が、どちらにしても都合がいい。
「そして」「それと」は追加のための言葉。「しかし」「でも」「だけど」などを口癖にていると相手の意見に反対しているニュアンスがあり、対立関係に誘導してしまい易い。その辺りをなだめて回避しつつ、自分の意見を通すための戦術語として「そして」を使う。
使う言葉によって性格が汚れたりもするので、なるべく綺麗な言葉を使いたいものだけれど、中々に難しいところ。
 
 
●残像分身の理屈

ガンダムF91などの残像分身では、分身に紛れて本体が知覚されないことがその技の本質になっている。このため先頭を狙い撃ったとしてもその先頭自体が残像である可能性が高い。
FSSのディレイアタックであれば残像を敢えて残し、それが本体か残像かを判断させるように仕向け、虚実を作り出して攻撃ポイントを悟らせないようにする。ここでも残像の先頭に本体がいるとは限らない(しかも実はそれが本体かもしれず、そのことによって更に判断は難しくなる。故に虚実 )
F91の場合は質量を持った残像が装甲から金属剥離する際に(もともと冷却システムとしての機能だったものが分身として応用されているため)熱を奪っていく。この時、肉眼ではなく、コクピット内部でCG補正されたモニターを見ていると、分身体を本体として識別してしまうようなミスリードが発生する。情報として厚みがあるのは分身の側になるので、等加速度で慣性飛行する分身体の方をまず本体として識別してしまう。この事によってモニターに映るのも分身体、射撃も分身体に向けて補正するように働くと考えられる。しかもこの状態になれば数Gの加速度で迫ってくるF91に対して、(演出による戦闘の引き伸ばし抜きの実戦ならばw)攻撃のチャンスは1回あるか無いか。ニュータイプ、高加速度、分身(による誤誘導)と勝負にならない状態に追い込まれて撃墜されることになる。
 
 
●スポーツの実力と人徳性
スポーツマンの人徳性が問題になるのは何故だろうか。実際問題として、スポーツの実力は必ずしも人間形成とは関係がなさそうに思える。不真面目なスポーツマンを責める理由は、普通は見当たらない。これが武道・武術の場合ならば、人間形成に不安があれば凶暴な人間兵器を野に放つことになるため、批判は自己の日常を守るという必然性が与えられることになる。つまり、スポーツマンは武術家の延長ってことなのよね。
潜在的な論理としては、ハイパフォーマンスを生む機能と善性を高める機能とが同じ源から発していなければ、批判することが出来なくなるハズだ。では、実際にそんな都合の良いものがあるのか?というと、実は中心軸がこれに該当する。十分に発達した中心軸によって運動は機能的に統合されハイパフォーマンスが発揮される。同時に高次の認識(メタ認識)が生まれ、善性を好ましいものとしてごく自然な形で寄り添うことが出来るようになる。
 
ハイパフォーマンスは単純化すると「柔らかさ(いい加減さ)」と「強さ(真面目さ)」の合成で出来ている。リラックスを超えてよりグニャグニャになろうと思えば、多少の不真面目さは一局面として表現されてしまい易い。また、からだに柔らかさの無い中心軸は硬直した認識となり易く、十分な発達が望めないとされる。
 
●大きな声・小さな声
電車の中でギャーギャー騒ぐ子供が親に叱られているように、社会ではまず自己抑制が要求される。人間は知性を持っており、極論すれば「選択的に沈黙できること」によってそれは証明される。(黙れないヤツは低脳だってこと)若い頃は「自己抑制」が賢さの基準で、「小さい声」でいることが正しい。
しかし大人になると今度は「実現力」が求められ、それは「大きな声」に代表されている。大きく響く声は、ハラがなければならず、自分のからだで響かせる必要がある。本気でやろうと思えば単なる大きな声でもそれなりに高度な能力が必要になる。(単に馬鹿デカいだけのラフな声ではダメなのだけれど)
 
●良いイタズラ(サプライズ)
本音・建前の心理構造をしている場合、建前として善人をやっていると、誰も見ていない時に「自由」を「悪いことをする権利」と勘違いする馬鹿が出てくる。ガス抜きとしては「良いイタズラ」や「人が喜ぶサプライズ」をすることが頭の柔らかさを発揮する場として望ましい。迷惑をかけないイタズラ、良くも悪くもない不思議な行為などは、思わず認識が広がるような効果をもっていたりする。無意味なことだからこそ情熱的になれたりするものでもある。これらは「自己抑制」に対して「実現力」のバランスを取る行為に相当している。
 
●脱力とその先の展開
通常の運動理論は、パワー=(力×速さ)になっている。脱力することで出力に振り幅を作り、力も速さも高められるわけだが、実際のところ脱力すれば体を重く感じるようになっている。
ところで物理学だと運動量は質量と速度の積で求められる。すると「力」と「質量」の違いが何処から来るのか?ということが疑問視されるべきであろう。
まぁ、ぶっちゃけてしまうけれど、脱力して重くなった体を「質量体」とし、速度との積で運動量に変換する運動構造が可能な場合、筋力というのがほとんど速度のためだけにあることになりそうなんだけど、それってどうなってしまうのだろうね?(笑) いわゆる中国武術系の大地の力を利用する〜ってヤツのはずなんだけど。
 
●刃物の論理
ただの一般常識。知らないと恥ずかしいし、書いてるのも実はちょっと恥ずかしい。刃物には良く切れる角度があり、上手い人がノコギリを引く時などは「その角度」をピタッと守って美しい姿勢をしている。25度から40度らへん(いちいち測ったことなんか無いので分からん) 刃物全般に通じる話なので、カッター、包丁、剣など全てで使われている。もっと言うと大根おろしでも使えるし、仕事に対してもそういうエグって先に先に進める角度のような抽象的な何かがある(ような気がする)。
そもそも刃物は引き切る道具なので、叩くよりも刃物の根元を当てて引っ張る方が効果的。「その時の角度」の話。
 
●デコピンの原理
これも良く見られる仕組みで一般常識。『シグルイ』の「星流れ」などで今は認知度が上がっているはず。アクセルに対してブレーキを掛け、ブレーキを「放れ」させることで通常よりも速い威力を発揮させている。原理から考えれば弓もこの原理を利用していることになる。アクセルとブレーキを左右の手に分担する方法以外にも、他者の力をブレーキとして利用する方法がある。相手の切り下ろしを、刃先を下にして受け流し、そのままブレーキとして利用し、力を掛けてデコピンの原理で攻撃、といった具合。
 
●冷凍マグロと生のウナギ
有名なメタファーとしての「マグロ」の反対の概念は何か?と考えれば有効な解と成り得るのは体幹部がクニャクニャと動く生きたウナギあたりだろう。ビクッてね。
 
●覚醒と朦朧
お酒を少量嗜むことは人生を楽しくすると思われるが、アルコールに強いことを自慢し、下戸に対して理不尽な態度を取りやがる横暴で下劣な人間が余りにも多い。ハラが立つので馬鹿にしてやることにした。
深酒は自傷行為の代表格であるにも関わらずそれを好み、酒を飲まずにいられないのは明らかに中毒や気狂いの態度だ。酔っていなければ本音も話せないような臆病者の集団は、酔って間違い、失脚する人間のことを平気で馬鹿にできる。自分だって同レベルの酔っ払いだろうに、自分のことは平気で棚上げにできる恥知らず共だ。 記憶を失うような飲み方による「軽微な脳障害」をこそ良い思い出だと信じて疑わない。だから他人にも深酒を強要できる。酔っ払う程度のことが「人生の充実」なんだから仕方がない。単に飲まなきゃやってられないだけの癖にね。そしてこの幻想を壊してしまう相手のことを忌み嫌っている。なぜって自分が愚か者だって看破されてしまうからだ。……この様に酒を飲む輩は「朦朧」とすることを好む「程度の低い能無し」だ。
これと比較し、まっとうな人間は「覚醒」をこそ喜びとする。明晰であることや、感覚が開かれていることを楽しむ。この有意義にして明確な差は、長い時間を経ることで、横たわる巨大な溝を作るだろう。
 
●存在(状態)と行為
「存在」は最重要概念のひとつ。例えば「普段の意識」と「飲酒後の意識」では、意識状態(=存在の仕方)が違っている。このため、なんということのない判断が出来たり・出来なかったりする。
同様に、やる気を出すということを考えた場合、行為レベルでやる気を出しても長くは続かない。存在のレベルで調子が良かったり、快適でなければやる気を出そうにもあまり意味がないわけだ。
同様に、死にたいと思っている人達を理解することは「普段の意識」では難しい。彼ら彼女らは存在レベルで不安定なのであって、その辺りが原因で相手を理解することが難しくなっている。それらの状態の上で、行為レベルで死にたいとかがどうだこうだと考えているようだ。
もっと言うと「神を信じる人」のことを「普段の意識」からの類推で理解するのは難しい。多くの場合、自分が既存の価値観でしかものを見れていないことにすら気付かないだろう。
バイアス(偏り・歪み)とは行為レベルのそれだ。そのバイアスが掛かっている時の「状態」が、正常な認識を狂わせる原因になっている。カイジ的に選択前に(前提を変換して)「本人を追い込む」って話でもある。
 
●生命力
生命力とは、怪我や病気、疲労になった時に高まることから、健康状態ではあまり高まることがないらしい(スポーツや武道は負荷を掛け、意図的に疲労状態に追い込んでいる)
負荷の掛からない特殊な訓練を行い、生命力だけが高められた際に「死の恐怖」を感じることがある。病気や怪我の時にしか高まらないはずの生命力が高まってしまったことから、今は病気や怪我なのだろうと体が勘違いしたらしい。死を感じる時、生命力が高まるといった1対1対応があるようだ。
死の恐怖は一般的にイメージされてる精神・心理的イメージのものではなく、直接的・ダイレクトな肉体的恐怖のそれである。(本物の精神・心理学療法的にもダイレクトな恐怖だろう) 実際、意識から身を守ることは難しい。
 
●青い炎
高校時代に実際に経験したものは透明な目には見えない蒸気のようなものだったが、目を閉じると青い炎として認識していた。(ハンタの「念」の表現にかなり似ている)突然、身体が燃え上がったわけだ。真面目に人体発火現象かと思ってビビッた(笑) 切っ掛けとなった「怒り」を燃やし尽くしたことから浄化の炎なのだと思う。青い炎は魂の色と言われることもあるが、詳細不明。
 
●移動中攻撃(B)と移動後攻撃(A)
移動時の速度を加算する攻撃方式(B)と、体の回転と筋力を加算する攻撃方式(A)のこと。前足の接地前(BFS*7)と接地後(AFS*8)で分類できるという。これ自体が驚天動地の大発見で教科書に載るような重要事項のはずなのだが、一般には全く知られていない。(高岡英夫の BFSとAFS)
移動中攻撃系は、前後といった少方向、大距離移動・高速度の運動系で、空手の移動突きの場合は軽く秒速16m以上(時速58km)になると言われる。突進系なので、バスケのレイアップシュートなど。マンガの忍者は決め技ですれ違う(交叉する)と昔から決まっている。移動系空手の蹴り技(仮面ライダーのライダーキック)など。
移動後攻撃系は、前後左右ナナメの多方向、小距離移動・高加速度の運動系で、その場突きの場合は秒速10m前後(時速36km)と言われる。腰や肩の回転力を伝達する。ゴルフのスイングもこっちに含まれる。
 
少林寺拳法やボクシング(+止まって打ち合う近年の空手)は移動後攻撃系に属すが、移動中攻撃に対する対応力が低く、寸止め系空手のような突進からの突き技を防ぐことは構造上とても難しい。その移動中攻撃を使う空手は合気道との相性が悪く、投げ技のカモになってしまい易い。合気道は移動中攻撃に対する防御と投げ技がミックスになっているため、襲って来た相手に対して後退しながら対処すると高い戦力を持ちえるのだが、ボクシングや少林寺のような移動後攻撃系を投げる体系にはなっておらず極めて相性が悪い。……というようにジャンケンのような形になっている。
 
AFS系の剣術は実戦では論外で、多人数戦闘で立ち止まってチャンバラなんかしてたら横や後ろから簡単に斬られてしまう。
 
●戦闘開始距離
移動中攻撃系の武術は試合時に開始距離をある程度取らないと有利に始められない。逆に移動後攻撃系は距離があったら有利にならない。考えみれば当たり前の話だが、果たしてこれは「当たり前」だろうか?
 
●神の将棋
神が将棋を指せば、結論的に「先手必勝」か「後手必勝」、もしくは「千日手」になると考えられる(小林秀雄「考えるヒント」)
 

*1:1%と2%、はたまた49%と50%、もしくは99%と100%との間に「本質的な差異」を見つけようとすれば論理的な罠にハマってしまう。でもまぁ、高級な技術体系はその1%に膨大な内容を持っていたりするんだけどね(苦笑)

*2:この行為は通常のガチバトルとその本質は等しい

*3:実戦←→演劇の二元論として全200%とかね。

*4:アムロはエマとの出会いを邪魔してあり(その事によってカミーユシロッコに勝つ)、シャアはハマーンから逃げます(でも基本ヘタレ野郎なので母の代理のララァの代理のハマーンの代理のナナイのオッパイに甘えます)

*5:高橋良輔説あり

*6:「真竜の戦い」そっくり!

*7:Before front foot's landing strokeの略語

*8:after front foot's landing strokeの略語