雑記(容疑者Xの献身)

 
●容疑者Xの献身(映画版)
意外と悪くなかったので書くことにする。もう記憶も曖昧とは言え、原作本を読んでいるお陰で、いつものように「映像化」の文脈で観ていた。
天才数学者・石神の役を堤真一がやるのは「いかにも」なミスキャストに思える。役者の格を使って映画として成立させようとするマーケティング的な意図がミエミエであり、そういうものに対して嫌悪感を覚えてしまうからだ。売れれば作品としての完成度が低くても構わないのだろう、と。個人的には、佐藤二郎という俳優さんのイメージが強い。佐藤二郎版の容疑者Xの献身が観てみたかった。これが基本的な態度だった。
 
観終っての感想は、正直に言って悪くなかった、のだった。石神には2つの側面がある。天才数学者である側面と、いかにもモテない喪男としての側面、この2様態だ。佐藤二郎をイメージしていた理由は喪男としてドンピシャだろうと思っていたからで、天才数学者という要素はオマケとしか考えていなかった。だけど、キャラとして石神の本質は天才数学者の方なのだ。少なくとも私個人は映像を見ながら天才としての要素ばかりを追いかけてみていた。堤真一の演技は、この点でそれほど悪くなかったのである。
難しいのは、作品としては「喪男の恋」であることでしかドラマが最大化しない点だろう。キャラとしては、天才、作品としては喪男でなければならなかったのだ。
 
普段であればどうでもよい演出であるはずの登山のシーンは、結果的に石神の天才性を演出するのに一役買う事になっている。テレビシリーズでの福山は運動神経抜群として描かれており、登山のような運動でも福山演ずる湯川が有利かと思われた。しかし、石神は淡々と山に登り続け、湯川を置き去りにしてみせる。ヒヤりとさせるシーンだった。
天才数学者というとインドア派でいつも椅子に座って勉強している「頭だけ良い人間」という先入観・イメージがあるものだろう。そこを一見、関係ないハズの登山を使って、その天才性を表現する試みになっていた。非常に好感が持てる挑戦だった。数学ができるということを映像的に見せるのは難しい。だから見栄えとして登山を選んだのだとしても、私に対してはバッドチョイスにならなかった。結局のところ頭脳労働も肉体労働の一種であり、頭脳という名のからだが活動している。脳は集積回路のようなもので、全身からの刺激を集めて処理している部分。実際問題として「頭だけが良い」ということは論理的にはありえない。この意味での「身体が良い*1」というのは反射神経のような運動機能のことではなく、頭脳を刺激する意味でのもの。(例えば柔らかさとか)でも世の中には宇宙論ホーキング博士みたいな人もいるわけで、バルゴのシャカ的な仕組みなんだろうか?とちょっと思ったりなんだり。話が逸れたかな ………… 登山での石神の肉体的な強さを、彼の天才性を裏付ける効果として配置する。なかなか頑張りますな。
 
湯川に、石神の慟哭を聞かせるというシチュエーションも悪くなかった。だが最後になって気になったのは、一言一言の「言葉の重み」だろうか。
 
 
ダメだ、限界ぐらいに眠い。
 
 

*1:この表現の「変さ」は勿論、わざと