雑記(貸間あり問題・視差のこと)

 
●考えるヒント:井伏君の「貸間あり」:小林秀雄
久しぶりに読み返してみて、納得の行く水準で理解できるようになっていた、のこと。でもまだ分析読みの段階なので、もうちょい時間掛かるかなぁ。
前回この話に触れたのが2009年3月だったから、1年放置していたことになる。少しずつ理解が深まっていたのだと思いたひ。
 
安直に要約してしまうのであれば、小説の写実主義を批判していることになる。さらに安直を重ねていいのであれば、印象主義的な解決をすればいいじゃん!な方向もちょっと入っている。リアリティの対義語はインプレッションだ!とか言っとけば二大政党的な話にはなるのだろう。
 
だが、これには厄介な問題がある。(と続く)
リアリティという言葉が、カメラやテレビ的な「写実主義」とごっちゃになってしまうということだ。その結果「表現する」ということが「正確に再現する」とイコールでつなげられてしまう。そんなの間違っている!という話なわけだ。

 
絵画などでは印象派などの言葉は生きていても、作品批評としてリアリティに対応するであろう用語としてのインプレッションはほとんど死んでいる。それは何故か?という問題。……つまり本当のリアリティというものは、最初から「インプレッシブ・リアリティ」とでも呼ぶべきものなのだろう。
 
なぜならば、人間は「写実的な存在」では無いからだ。ありのまま、存在するままを観る事は、大なり小なり、叶わない。どうにも主観的な存在でしかないのだから。それら非写実的な存在に対し、「リアリティ」というものが写実的な再現の方向で満たされる、などと考えること自体がボタンの掛け違いであり、「錯覚」なのだろう。
 
これら「リアリティ=再現主義」の問題は、現代でも十分に当てはまる。例えば京アニのアニメ化なんてものはこの問題を避けられなかったりする(笑)
そしてこの話は、作り手よりも読み手である我々、視聴者なり消費者なりの側の問題になってしまったのだ。映像化による問題としてみても、「考えるヒント」の書かれた昭和34年には既に俎上に載せられていたのだし、もう作り手側だけの問題ではあるめーよ。
 
京アニのアニメ化に対する、素朴で感覚的な反発というのは、「モデルを正確に再現することに、意味なんか無い」という辺りに核心がある。更にその原因は、リアリティという「コトバ」に対する齟齬であり、言ってしまえば、そういう反論をすること自体によって、反論者自身が、リアリティと言う観念を「物質再現的にしか捉えていない」ということを表してしまっている。
 
批評というものが何かは私には全然わかってなんかいないが、その仕事の一つが尺度の再評価にまで及ぶのであれば、現在のリアリティという用語は齟齬の原因であると認めなければならない、と考える。その内に誰か大衆に影響を持つ有名人が、流行り言葉としてこの辺りの分かりにくい用語を塗り潰す時が来るだろう。それまでの間はせめて機能する単語を、もしくはその観念だけであれ、用意することが出来ればいいのにね?といったことを思う。大衆にリテラシーを要求するのではなく、自然に、感覚的にわかりのよい形を提供するのが王道というか、基本だよね、といった話。
 
 
●視差のはなし(構えの話になってしまったw)
0時過ぎたので書いてしまうのだけど、バクマンの「シリアスな笑い」に関しては視差の問題が利用されている。再現的なリアリティと、インプレッションのズレを利用して、「作品」と「読み手」の関係でふり幅を作るわけだ。来週の解答が凄く楽しみなのだけど、問題を整理しておきたい。
 
「作品」←―「読者」
  ↑     ↑
「真剣」←―「滑稽」
 
こんな感じかな? アンジー以後のオニデレだとか、うしろの大魔王みたいな感じだとするなら「誤解」がキーワード化しそうな感じかなぁ。
んー、ってことは、読者側は「真相が見えている」ことになるのかな?まだちょっと違う感じがするんだよなぁ。なぜ、真剣さを見て、それが滑稽に感じるのか?ってことなんだけど。
 
「作品」←―「読者」
  ↑     ↑
「真剣」←―「滑稽」
  ↑     ↑
「誤解」←―「真相」
 
もうちょい練らないとダメかな
 
まぁ、直感的にはデスノートの「ダメだこいつ、早くなんとかしないと……」の事だろう。ダイの大冒険でも「メラゾーマではない、メラだ」とかが印象に残り易いことがあってか、ダイ大のセリフを利用したレスを掲示板なんかでも見かけることが増えて来ている。ネットを利用する年齢層の変遷とかもあるんだろうけど、ともかく人気作という以前に、観察としてもシリアスな笑いには記憶に残り易い傾向があるのかもしれない。
 
ただ、個人的には笑いはくだらなさが至上だと思う派。ビートたけしがくだらないものだ、と言っているからだけの理由だったりするんだけど(苦笑)、同時に高級な笑いは危険だとも思ってる。ダウンタウンの松本が「高級な笑い」を志向しているなんて話があるんで、方向そのものを否定することまではしないのだけど、やはりどこか危険だなぁ〜と思ってしまう。
 
まず構えの問題があるんだろう。笑わせてやるぞ!と凄めば、そりゃ誰だって身構えるものね。だから「ドヤ顔」みたいなんが流行るんじゃないかな。「ドヤ? オレ、面白いやろ?」って言っても、受け手の構えを崩せてねーよっていう侮蔑だとか、その滑稽さをせめて笑おう、みたいな。
 
「くだらない笑い」なんかも、直接に笑かそうとしているのではないんだと思う。お笑いを見る人の「期待」が「構え」になってしまう。だけどその「期待」は、「オチ(落ち)」るための落差を作る「高度」でもあったりする。ズッコケのコケなんかも、落ちだろうね。寝そべってたらコケられないわけで。
そんでシリアスの笑いの場合、笑いに対して「身構えていない」だろうから、直接的にエグレる可能性があるぞ、と。
 
 

リアリティのレフ化概念としてフィルタリング・リアリティを考えていたんだけど、やっぱそこまで行かないなー。