雑記(未完結考察投げ捨て大会)

 
未完成のものを放出(鮭のよーに)。 頭からっぽにする大作戦。
(お気の毒に…… by天使ちゃん)
 
 
□ピアノ・ファイア:トゥギャッターまとめ
http://d.hatena.ne.jp/izumino/20100501
 
読みました。
 
んー、ネギま!は人数が多いから群像劇にも成り易いわけで、叙事詩に向かうのは半ば必然的にも見えますね。中でもセカイ系に対して使っていた単一視点(→魂の視座)のことからしても、複数化などで一致を見るのでしょう。
 
ただ、イズミノさんのトゥギャッターで言うと、上下の関連は考えた方がいいのかも。抒情詩の精神性がバトル漫画の「パワーの本質」だとしたら、叙事詩の理不尽さの半分は「実力不足による死を甘受すること」やもしれず。
 
抒情詩的な内面ぐるぐるに適合する作風は、夢の中の様な「願ったら叶う」系統だから、精神パワーでどーん!とやれば勝てる。願望達成が装置化されたりもする。
内面から飛び出して、外の世界で(と)戦うのであれば、精神パワーは通用しなくなっていくでしょう。もしくは「相手にも精神パワーがある」ということになりますね。
 
とりあえずは、勝つためのリアリティの所在の話になるのでしょうか。
 
(以下は思考過程)
 
マジンガーなどのスーパーロボットに対する(事実ではなく)イメージというものが、絶対的(=神話的)なロボットが苦戦しつつも、熱血だとか根性で勝つ!っていう話だった、と。ヤマトなんかもその絶対性=神話性がある部分は同じですね。
 
それに対してガンダムは基本的にロボットの神話性を排除していました。そこから後は構造的には同じで、最初の内はガンダムの性能差で押していたのだけれど、神話性を排除してしまったことで、ロボットの性能に緩やかなインフレが起こり、必然的にそれ以外の理由によって勝たなければならなくなっていきます。それが熱血や根性の代わりになるものとしてのニュータイプ能力だったわけですが、どちらにしても精神力であることは変わりません。
 
同時に主役ロボの乗り換えが定番化していくわけですが、これは敵が段々と強くなる(=インフレ)に対応する手段でもありますし、神を表象していない「工業品としてのロボット」ゆえに、乗換えが可能だった、とも言えるでしょう。神ですら乗り換え可能な世界観の話って東洋ならばアリのような気もしますが(苦笑)
 
エヴァもロボットに関しては神話性が強いんですよね。そこに世界観として宗教的な要素を取り入れている辺りが工夫なのかもしれませんが。
 
で、旧エヴァ→新ヱヴァになるのが、叙事詩としてのガンダムへの回帰だと見做した場合に、「失われるものは何?」ってことを考えておきたいところです。
 
絶対性=神話性の喪失なのかな〜? そこでは無敵パワーを失うわけです。グレートマジンガーの登場は、マジンガーを工業品へ貶めたのかもしれません。マジンカイザーみたいなものへ向っていくのは、神の地位へ登ってゆく必然なのかも。
 
コンテクストから見ていくと、それらの唯一絶対性は「世界を救う動機」とほぼ直列されてイコールなんですよね。唯一絶対だから、世界を救う責任みたいなものがあるわけで。その意味ではガンダムは世界を救ったりはしないんです。
 
作品としての優劣はともかく、ターンAはガンダムに神像としての地位を与えちゃってて残念でしたけどね。ロボットを工業品として扱う意味では、ボトムズの方が徹底されているようですが、その分、登場人物が強化されていくことになりますね。
 
んん? あれ、変だな。(この辺から更におかしなことになっていく)
 
「ロボットが強い」→「パイロットが強い」だとしたら、パイロットが強い理由は、精神力に拠るものだから、抒情詩的。
これを叙事詩的にするということは、ロボットが強いの方向。「ロボットが強い」の究極は、唯一絶対な「神のごときロボット」を使うことだから、神話の方向に向うを意味していることになる…………。
 
となると、ロボットの神話性が失われているガンダム叙事詩から抒情詩型への移行期の作品ということになるのかな?
 
そういえば、最近の映画って「タイタンの戦い」だとか、神話の方向に移行しているような? (王道回帰?)
 
あー、まてまてまて。(完全にぐちゃぐちゃに)
 
キリスト教を前提としたら、多神教の物語は「解体」だなぁ。日本でこの流れをそのままやろうとするってことは、並列のループ物から、垂直なヒエラルキーで「神へ至る」の話になってしまって、傾向としては逆になっちまうような。
 
パラダイム的に正しい方向は「神の大衆化」なんだ。理由は割愛。
だから、あちらさんが唯一神多神教の方向へ進むのはある意味で進歩なわけだけど、じゃあ日本はどうなればいいのやら。登るんじゃなくて、無に落ちろ!って話ではあるんだけど、それは置いとくとして、
 
えっと、魔王と勇者の話は、むしろ近代化なわけで、神話とかで区切ったらダメそうだ。多神教的な大衆化、つまり視点の複数化を、叙事詩で見ているんだよな。ここで一度わき道にそれないといけないのかな。
 
えっと合成の誤謬をどう捉えるのか?ってことだ。
 
これはキー概念どころか、逆にネックになるのだろう。ミクロの視点ではマクロ的に間違うということを言っているのだから、世界を救うには、マクロの役割を持つ登場人物を出さなければならなくなる。その境界を作る概念になってしまいそうなんだ。
 
個人的にはミクロの解決策が部分最適だからマクロに対して不合理になってしまう、とか考えればいいんじゃないかと思っているんだけど、たぶん大勢には通用しない。
 
合成の誤謬がある限り、マクロの問題を処理するにはマクロの役割を持たせなければならなくなる。この意味で王道的な物語への回帰は、王に成ったり英雄だの勇者だのになる意味での成長物語になり易い。現実の社会で王になれないのであれば、仮想現実で王を目指す話(ex:アクセルワールド)になっていくのかも。でもそんなのバリエーションの話でしかない。
 
だけど一極の王を目指す話って0083みたいに負け組に対する感情移入が超高速で行われる。感情移入できない層が逃げていってしまう。
 
 
個人的な予想は(というか友人の主張まじってんだけどw)、人類決戦存在のような、名も無き英雄、小さな英雄がポコポコ生まれるような話かなぁ。感情移入の装置としても身近な英雄になるって話は納得感が作れるっていうか。ああ、この意味では、破壊的イノベーションとして弟子が活躍する魔王と勇者の話は正しい気もするなぁ。
 
すると次は、小さな英雄達がどうやって合成の誤謬を超えるのか?だとか、何故勝てるのか?みたいな話に戻っていくのかな。いや、小さな英雄である時点で、合成の誤謬も超えてて勝てる理由はクリアしてそうだ。じゃあ、どうやって小さな英雄になるのか?が問題か。
 
魔王と勇者の場合、大きな英雄の縮小版として継承されてるんだな。相似性によって勝つことを保証されるのか。これは師匠と弟子のことだから父と子みたいな世代ループでは使い易い。新しい手法とも思えない理由は、1対1で継承されることは良くあるからだろうなぁ。
 
(やっと諦めた)
 
小さな英雄であることによって、万能感から解放され、同時に万能感を失う。役割的には「自分じゃなきゃダメ」なのは嫌だけど、「誰でもいい」ことによって自分でもイイって話にもっていく下地が出来るわけだ。匿名的英雄の発生で、押し付けがましさだとか、継続的な責任、もっと言えばプリペイドな責任の回避がなされるのかな(笑)
 
もうちょい詰めたいけど、今は無理っ。
 
 
 
以下も未完成だけど捨ててしまえーなもの。過去にこだわっちゃいられねーぜっ。
 
●フィルタリング・リアリティ(造語)
もしくはコンセプチュアル・リアリティ。よりコンセプトに忠実に、必要な要素が強調される方向性を追求するための戦略語。
 
「リアリティ」という語句は非常に曖昧で、「現実らしさ」という方向に歪められて使われてしまう。そこに現れるリアリティとは、作者が「現実だと考えるもの」を基準に、作中の現実感覚として許容される(と予想される)ものが描かれることになる。(→バインディング・リアリティ)
 
しかし、古典的なリアリティでは、より抑揚のあるドラマチックな演劇性にその本質がある。そこでは作者・読者に共通する現実らしさ・現実感覚から受ける制約などは限定的であった。
 
物語にした時に、とてもじゃないが信憑性など無いような出来事であっても現実では平気で遭遇するものだし、逆にどこにでもありそうな悲惨な出来事でも意外と起こらなかったりする。
それでも現代的なリアリティは「信憑性の範囲内」でしか表現され得ない。結果、作品を「ありそうな出来事」にするための工夫が重要な要素として認識されることになってしまう。
 
信憑性という曖昧なフレームから脱却し、より物語性を志向するリアリティとは「フィルタリングされている」と強調されるべきだろう。
 
例えば、2ヶ月の期間を題材として2時間の映画にまとめるとした場合、単純化すると1440時間の内から使える2時間を選別することになる。それは1440時間の「要約」からは程遠いものになるだろう。1440時間の大半は退屈で特に意味を見出せない日常だったり、単に寝ているだけの時間のはずだからだ。
これを見る価値のある、より魅力的な作品にするためには、不必要な要素を排除し、ドラマに出来そうな部分を選択する必要がある。必然的に使えるシーンは限られ、選べるコンセプトは絞られることになるだろう。コンセプトを決定すれば、より題材やコンセプトに「適したシーン」を選り分けて構成することになるだろう。
 
この時、存在しないシーンを捏造して付け加えることが必要になるかもしれない。細部に至る正確さや 嘘を付かない誠実さよりも、作品の中核となるメッセージをより明確に、誰の目にも明らかになるように伝達することの優先順位は高くなるからだ。
より正確には、表現とは「(善意によって)意図した通りに誤解させること」がその本質だと考えられる。リアリティに対して写実的な正確さは、そもそも期待できないものだろう(何故ならば1440時間の「要約」をしているわけではないのだから)
 
結果として、作品はそのエッセンスが濾過・凝縮されることが求めれられる。これはまるでデフォルメと同じことをしていることにはなるが、しかしデフォルメ的な意匠・装飾性を「意識させること」はしない。デフォルメはデフォルメであることを表現することによって、相手に与える誤解に対して許可や免罪符を得ようとする行為でもあるからだ。それは異化を誘発し、感情移入を解いてしまう。フィクションであることは、物語が終わってから示しても十分に間に合うのであって、異化への誘導はリアリティの流儀に反する行為でもあるだろう。
 
 
バインディング・リアリティ(造語)
拘束的なリアリティ。作者の考える現実らしさor作者が考える「読者にとっての現実っぽさ」に限定・拘束された表現を行うこと。
 
「拘束的なリアリティ」という対義語にすることで、フィルタリング・リアリティに対し「自由」なイメージを加えるための戦術語。
 
現実感覚に拘束されるからこそ、「奇跡の扱い」が問題になるんだろうなー。
 
 
○シングル・エモーション(造語)<単一感情>
一切の夾雑物を排除し、純化させることによって表現される感情などのこと。
悲劇・喜劇といったコンセプトに対して、選択的に、より純粋に、表現される要素が吟味されることを目的とした戦術語
 
○プルーラル・エモーション(造語)<多元感情>
より現実観察的な、無くても構わない要素まで含めて表す感情などのこと。
悲劇・喜劇といったコンセプトに対してあまり純粋な作風とはならないが、多元論的な感情描写を通じて、作品はより現実らしさを帯びることになる。ドラマへの迫真性に欠けたとしても、それだけで直接的につまらなくなるとは限らない。視差などの運用も含めて、工夫する必要があると考えられる。
 
(説明)
シングル/プルーラルは、従来的には一人称・三人称の話だったりする。これもブログ論壇(苦笑) 的には一定期間ごとに何度も繰り返されている話だったりして、表面の意匠だけ変えて言っていることは大体おんなじ。結論は「感情移入」か、「メタ視点」かってことになる。物語論(ナラトロジー)だと焦点化の問題として扱われていて、内的焦点化、非焦点化なんて単語が並ぶことになる。これはこれで「視点の話」になってしまっている。
 
じゃあ何で今更エモーションだとかのカタカナを使うの?というと、リアリティとしてフィルター操作した結果「抽出されるもの」は、焦点化みたいな「手段」ではなく、果実としての「感情」であるべきだと思っているから。視点の話でもいいんだけど、焦点化された結果として表現されるものは、結局のところ人間の感情(感情の動き→感動)なわけで。
 
リアリティが物質再現性と捉えられているのならば、悲劇や喜劇といったコンセプトは「モデルの再現性」によって構築されてしまう。その結果、一人称や三人称、(内的/外的)焦点化・非焦点化などでは、コンセプトのクオリティを高めることには直接的には繋がらない。作者側が感覚的もしくは学問的に理解していたとしても、消費者サイドの評価や評価軸を作る批評言語そのものが曖昧で漠然としたものになってしまう。能力を高めるべき方向としての評価、ものさしが狂っていたら、そのものさしに沿って努力しても無駄になる。ここの問題は一部の人間のみに特権的に理解される高慢ちきな専門知識となってしまう。たぶんとっくにそうなっている。それら貴族的・高等学問的な理解では全体のレベル低下を生み出してしまう。
 
「葛藤を深くしろ」なんてことが言われる理由は、感情表現のふり幅をロクに作れないことに起因するのだろう。その原因は批評側におけるインプレッションという軸の不在と、リアリティに対する固定観念、かな。
 
 
●インプレッション<印象>
写真的な「写実性」の対概念。人間の不正確な視覚は、写実的な存在を相手に誤差を作る。この誤差を逆用することで「印象そのものを操作する」ことを潜在的な目的とする。金田パースなどのデフォルメは、ある種のリアリティを想起させることが可能になっている。そのリアリティの在り方は、写実性ではなく、人間の「見え方」に由来する。
また、音楽の効果などを駆使することで、その場の雰囲気(印象)を変えたり、強調することが可能になる。
 
インプレッションは強調する方法以外にも、弱めにアクセントをつけることによって、視聴者側に自動的に脳内で補正させる使い方も観察される。
 
 
●捏造主義の是非
たぶん個別に問題にした方がいいであろう部分
表現(=意図的な誤解を与える行為)を行うに際しての手段として、捏造することは「正当な手段」となるだろう。フィルタリング・リアリティは、名称を選択した結果、その限界として捏造を内包していない。
 
フィクションであれば捏造と捏造では無いモノの区別は難しいが、何らかのモデルが存在する場合には、メッセージの効率的な伝達のために細部に手を加えることが捏造になる可能性が高い。現実そのままを伝達できないのだから、多かれ少なかれ捏造ではあるのだが、主観的には何処かから先は捏造だと認識されるだろう。それらアナログ的な境界を越えていくことを許容すべきかどうかは、わからない。ただし、表現をするという目的に対しては、効果的に機能すると思われる。
 
 
間違ってても気にしない。