雑記

 
早起きが得になるかならないかは、貴方次第っ。二度寝したい。
 
●シミュレート:パターンとランダム
シミュレーションをやって、同じ結果が出る(パターン)のと、同じ結果が出ない(ランダム)ことを考えてみる。ここでいきなり「物語」が人生をシミュレートしたものだとした場合に、「特別だと感じる作品」を望むとしたら、それはどっちの結果によるものだろうか?
 
普通に考えて、スゲェとかパネェとか千雨ェとか思うような話ってのは、特別で、一期一会的で、だからランダム的で、唯一絶対な超絶美形主人公的な方だと思うのではないだろうか。
 
でも、残念ながら我々人間が「特別に感じる」良く出来た物語ってのは構造的には近しいことになっている。たぶん「特別に感じる」ということ自体にバリエーション(多様性)が無い。それが人間の器質的なレベルの話なのか、文化的な鎖やら根底的なパラダイムに縛られた結果なのかは、私の所ではわからない。
 
すると望んでいるのは、人々の意識の上辺を浚う「新しい意匠」に過ぎないということになる。それって時代に適した感情移入の装置ってことなのだろうか?
 
 
●蝶の羽ばたき
物語が大衆化していく背景にある要素の一つは、マクロという観念自体の変化なのかも。良く耳にする「複雑系」ってヤツは、全体論というかマクロのことなのね。
 
ニュートン力学的な大雑把なマクロ理論では、より大きな要素のうねりによってより多くが描写されるけれど、複雑系のマクロ理論では、バタフライ・エフェクトの話が出てくる。
 
通常であれば、主人公こそがバタフライ・エフェクトになっている。個が全体に対して影響するってことだ。でもそのことによって主人公は成長物語に巻き込まれて、「大きな要素」に育ってしまう。
そして大きな要素の挙動は、たぶん予測し易い。このため、例えば敵が対抗し易くなるんだろうね。その結果、複雑系に対して予想外の挙動を生まなくなっていく。それは、なんというか、怖くないんだな。
 
蝶の羽ばたきが、蝶の羽ばたきのままで、世界に対して影響を与えることが望ましいんだろうね。
 
「選ばれる」ということは、流れに従っていることになる。だから多くの小さな要素は変化を生み出さない。「選ぶ」ということが、違う流れを生み出す遠因として描かれる必要が生まれてくるんだろう。問題は、自分は選んだつもりだったけど、実際には流れに従っていただけってケースかな(笑)
 
 
●時代は紙のノート(&万年筆)
ipadどころか、A4のA掛ノートに進化しました。進化の反対は停滞 byからくりサーカス。寝っころがって読めるとかの楽チンさは分かるんだけど、自分に対する情報のインプット機器って消費行動を加速させるぐらいの話でしかないんで、どっちかといえば出力機器の洗練化を望んでいたらしいのだ。
 
いいよぉ、A4のノート。100円ショップでも売ってるし。でもネギま!用にコクヨの380円のヤツも購入(安いっ)知的生産とかって胡乱な話だと思ってたけど、単に連想を連鎖させるための物だとしたら話は違ってくる。今でもちょっと面倒くさいことを考える場合はチラシの裏とか使ってたんだよね。思考法自体にコツとか慣れとか居るんだろうけど、まぁ、その辺は色々あるから蓄積もあるんで。
 
ただ、アインシュタインはノートだのメモ帳なんて持っていなかったと聞く。つまりノートに書き付けなきゃならないような閃きなんてのは、誰にでも閃くようなものであり、世界に衝撃を与えたりしないってことなんだよね。(これ大事)
 
本当のところ、ノートを汚す作業って、気持ちいいんだわ。それだけの話なんだよね。そして書き味のいいペンって幸せ。シャーペン派だったんだけど、ジェットストリームっていう書き味の軽いボールペンを使うようになってから世界が変わって、今では安い万年筆に移動することに。けいおん!のりっちゃんがラミーのサファリ(シャーペン・黄色)を使っているんで、青の万年筆にしよっかなー?とか思ったんたげど、初心者向けでオススメなのはペリカンのジュニアだとかの話を仕入れて、使ってみることに。パイロットの200円のヤツからしたら、かなりの成長でしょ(笑) その内に調子こいてラミーのサファリに乗り換えてやる!っていう大望を抱いたり(ちっちゃ)
 
使い方としては書きなぐる時にフェザータッチでインクがスルスルと出てくれればいいわけで、カッコイイ文房具としての万年筆とかまったく望んでない。用途的に極細とかも要らない。ペリカンジュニアって1500円だしね。まぁコンバーターってのとインクまで合わせて3000円弱かな。
 
 
●この頃のハンタ
「少年漫画とは何か?」みたないレベルの話になっている気がしなくもないんだけど(苦笑)
 
最初は「大人の責任の不在」だと思ったんだわ。犠牲を払わない範囲での冒険を保証してるのって大人なんだよね。同時にDQ的な、スライムしか出てこない戦場ってのが批判されてたりするわけだけど、ゴンが犠牲を払っていることで、逆に告発されちゃってる。例えば「早く大人になりたい!」の末路を見せてたり、腕を失ってたり。これでいいの?って。
犠牲を払うってのは特別であることを捨ててんだよね。才能で取り放題!みたいな意味で「黄金時代」とかって少年漫画のそれのような気もするんだけど、じゃあ今やっていることって何?って話になるんじゃないかな。
 
「魔法」みたいなギミックってセーフティネットだったり、物語の整合性を作ってたはずなのに、もはや代替的な現実でしかないってのが強調されちゃってる。死みたいな大きな犠牲(ネテロ会長やカイト)から、腕を失ったりするような小さな犠牲→身近な感覚で共感し易い→つまり余計に痛々しいってことだもの。快感原則から外れて、冒険の対価を見せている今の行為って、なんなんだろう。
 
犠牲を払わない範囲で上手に成長してみせているキルアからするとゴンはどう見えるんだろう。ピトーにかまけ過ぎてて可哀想でもあるけど、それは嫉妬になっちゃうかな(笑)
 
 
けいおん!!
地デジやブルーレイの高画質を背景に、ハイエンド化していて、それが破壊的イノベーション的に、ローエンドな作品の需要を生み出して二極化させてる気がしないでもない。(→プリンセスラバーやいちばんうしろの大魔王。ただし、相対的なものなので実際にダメ作画とかが許容されるわけではないのに注意。むしろ作風に近い)
 
文化人類学エドワード・ホールによると、モノクロニックタイム文化圏とポリクロニックタイム文化圏というものがあるらしく、モノ〜が直線的な時間感覚、ポリ〜が螺旋型の時間間隔なのだそうな。直線的な時間を「進歩」だとした場合、螺旋型時間は「停滞」とまでは言わないまでも、ゆっくりとした進み方ってことになるわけだ。螺旋時間間隔の方は、パーティに2時間以上遅れて家を出るんだそうな。直線を量的な向上だとしたら、螺旋は質的向上の側面をもっていると思う。日本人は効率の向上を志向する部分もあるし。
 
モノ〜・直線的・進歩・量的向上・時間を守る・非日常→ 唯・りつ
ポリ〜・螺旋的・停滞・質的向上・時間にルーズ・日常→ 澪・梓
 
これとけいおん!!の関係はというと、進歩的なハイエンド作品なのに、日常描写と言う矛盾。そして音楽は多分「非日常」的なイベントだってことだ。その結果、「音楽>その他」の時だけ音楽をやるってことになってしまっている。唯やりっちゃんは、音楽から逃げて行っちゃうんだ(笑) 澪や梓は音楽にしがみ付いていることになっている!
 
だから頑張って「音楽の方が楽しい!」(ex 番外編ライブハウス)って状態にもっていかないと、音楽の話にならないっていう(笑)
 
これで均衡がとれるのは、ハイエンド化の影響でアートに振れていることで、エンタメとしての枠から外れて認識されているから、かもしれない。毎回戦闘シーンがあるって意味でのエンタメを望んでいる層は、毎回終了間際の5分ぐらいでカラータイマーとか巨大ロボとかの意味で「音楽シーン」がないことに対して違和感を感じる仕組みがあるってことだと思う。
 
マクロ的には、螺旋型時間感覚を導入するためのものなんだろうねぇ。じゃあ原作はどうなってんのよ?みたいな話もあるんだろうけど、それはまた別の話(笑)