サヨナライツカ

 
西島と中山美穂のラブシーン映画
いま確認したら日本の原作を韓国の監督が映画にしてんのね。
 
 
前半の内容はクソみたいなもので、中味はまるでなし。セックスシーンが見たい層を映画館に呼び寄せるのか?とか思いつつみるハメになった。
 
結論から言えば、悪くなかった。それでも見えてしまうと「記号の権化」だなぁという気分に。原作は読んでないんでどうか知らないけど、論理的な納得感を超える部分があっても良かったんじゃないの?という気がした。
 
25年後の老いらくの恋みたいなのもを描くために準備してある。
若い頃の恋愛は、肉欲と愛情との見分けが付かないってことを中心に持ってきてて、前半のセックスシーンは後半の純粋な愛を見せかけるための下拵えだった。25年後の状態ではエッチは必要がなくなっているわけだ。
 
中山美穂の演じている役が、放蕩というのか、性に対して奔放に設定してある。つまり肉欲ばかりで「本当の愛」に餓えた状態として納得し易くしてあるわけだ。女性が25年も一人の男性のことを思い続けるという美しい嘘をどうやって納得させるか?という点がこの映画の全てだろう。
 
こうやって純粋な愛ってヤツから肉体的な欲求を剥ぎ取らないと真実へ到達できないって展開は…………小利口なんだよなぁ。スケール的に精一杯っていうの?
 
西島の演じた役は、矮小で珍妙に見えてしまう。
真実の愛が目の前にあっても掴もうとせず、人生が終わった後で惜しくなって取り戻そうとする。最終的に死ぬことも出来ず、愛してるの台詞を言えないまま、窓に向かって独り言をいうわけだ。
いや、現実ならもっと悲惨だろう。奥さんのことを本当に愛していたと思うんだよ。単に一時的な感傷に浸っただけ。それに付き合ってくれた25年前の情婦が一途に僕のことを思ってくれていた! 感動だ! 人生をやり直すんだ!だって、バッカじゃねーの?って話だよ。
 
客観的に見ちゃダメなんだろうけどさー。惨めな男。
人生を捨てられず、命も捨てられず、得たものに価値を感じられずに、手に入らないものを惜しむ。その中味の無さが外側への充足を求める源泉だとしたら、それこそが辺境人なのかもね。手を変え、品を変え、目先を変えて新鮮さを取り繕ってもなー。
 
別作品だけど、中国の皇子が「我々は西洋のものを何も望んでいない。」と言い切る描写が上手い対比をなしているように思えてならない。
 
石田ゆり子の演じた奥さんの役が複雑さを増している。ただ、最初と最後を絞めてしまうことで、夫の西島の役が彼女の思惑の範囲内であるかのように見える部分(スケールの小ささ)が強化されてしまう。小さな欲で満足する完成した女性というか。女の戦いを演じさせておいて自分の居場所を守ったりもしている。
逆に彼女の欲が小さいことが原因でもあって、本当に愛されたいと望んでも、それはイツカ終わってしまうという達観によって阻まれてしまう。まぁ、物語の都合か。
 
(セックス+老いらくの恋=真実の愛)×サヨナライツカ
 
……って感じ。この先に対してどう感じるべきか?って部分は感想を読む読者に対して指定するわけにはいかないので、まぁまぁなんじゃないの?という風になるわけだ。
 
 
じゃあどういう日本人像なら許せるのか?みたいな疑念がわいてくる。