H23/10/20
 
 
注:筆者の偏ってて誤った認識に基いて書かれております。特にニーチェについてはロクに読んでませんのであしからず。正しさに期待しないでくださいね。
 
 
●説明
竜殺しと神殺しについて書きます。そのために前提としてちょっと「神」について触れます。
 
 
●前提
人間というか、存在する全ては「神」です。仏陀もキリストもそうだって言ってたのです。というか、彼らの前にそうだと言ったいにしえの賢者がうなるほど居たはずなんです。2000年かもっと前に分かってたような事が、現代になってもまだ分かってないんですよね。これは宗教屋の怠慢が招いた恐るべき事態でもあります。
 
 
簡単なガイドラインをば。
・存在する全ては神なので、人間も神です。自分だけが神なら威張れるのかもしれませんが、全員なので威張れません。新世界の神になる!とかはメッチャ痛い発言です。
 
・大雑把には、「二重性のパラダイム」の問題です。これは同時に2つ(以上)の状態ぐらいの意味です。時間であり空間、物質でありエネルギー、粒子であり波、人間であり神です。正しくはどっちかではなく「どっちでもある」のですが、二重性のパラダイム下においては、我々は「どっちかだと思いたがってしまう」のです。物質とエネルギーの場合でも「氷(こおり)」は「水(みず)」じゃないとか言ってしまう始末です。
(物質はそう簡単にエネルギーにならないぐらい、めっちゃめちゃに安定してますけどね*1
 
・どうしても自分は違うと思いたがる性質があります。多くの人にとって「神のように生きること」は責任が重過ぎると感じるからです。神を神聖視している場合は特に逃げようとするでしょう。我々は神なので、今まで通りでOKです。頑張りたければどうぞご自由に。好き勝手に生きるのもいいかもしれません。他の神に迷惑をかけたら(人間扱いされて)罰されることになります。今まで通りですね。
ギリシャ神話のように擬人化された人間くさい神というのは、生き方を示す意味合いが強いのでしょうね。これをアーキタイプとか言います。
 
・「海」と「ひとしずく」の関係で言えば、同じ水だってことですね。スケールの問題です。この場合は、まだ海に合流していないから、私はまだ「ひとしずく」だとか思いたがります。残念ですけど、ここは海の中です。というか「海の外」みたいな場所はありません。
 
・この世界に「神の意識」以外に意識はありません。我々は神の意識に「間借り」しています。人間として生まれて、自分だという「物語」を生き、自分を「自分だと思って」いるのです。この自分だと思っている自分が「自我」と呼ばれるものです。
 
 
●竜殺しの物語
「怪物と戦う者は、みずからも怪物とならぬように心せよ。汝が久しく深淵を見入るとき、深淵もまた汝を見入るのである」『善悪の彼岸』(フリードリヒ・ニーチェ) 
 
怪物と戦うには、人間も怪物に成らなければ対抗できません。怪物とは言わば「強さ」という意味だからです。
 
善とか悪とか幾ら言ってたって、殺されちゃったらダメじゃん。じゃあ、俺は怪物になる!というのが現代のトレンドなのです。
 
しかし、竜というものは最強の幻獣でした。最強の怪物と戦う「怪物になった者」は、竜には勝てません。良くても引き分け止まりです。どんなにちゃんと怪物になれたとしても、竜は最強の怪物であるが故に勝てないのです。怪物の限界は「怪物であること」にあります。
 
竜殺しの物語とは、人間性の回復を謳うものになります。
最強の怪物である竜に勝つには、怪物であることを超克する必要があるからです。
 
この論理の背景には猿から人間になったという進化論の文脈が見え隠れしています。「獣から人へ」です。
 
強さに勝つには、弱さを手に入れる必要があります。両方を備えたものとしての人間をよしとするのです。
 
しかし、弱さはそのままでは「ただの弱さ」でしかありません。この問題の背後には「弱さ」を「強さ」に変える力をこそが求められています。実はメタ認識のことです。
 
垂直的・直列的な思考では、弱さは弱さでしかありません。
水平的・並列的な思考では、弱さは強さにリフレーミングできるのです。
 
F1マシンみたいな、最速のモンスターマシンを想像してください。軽くアクセルを踏んだらあっと言う間に時速100キロなんて超えてしまいます。これに勝つにはより速いスピードが必要に思えてきます。
 
ところが、下町のごちゃごちゃとした狭く曲がりくねった道路では、もっと小さいマシンの方が速いでしょう。いかなモンスターマシンといえど、スピードを持て余してしまいます。
 
状況が違えば、強さは弱さに、弱さは強さに変換されるのです。その時の、弱さを変換させられる「メタ認識」をもって、怪物性を超克し、人間となるのです。
 
竜に勝てるのは、人間だからです。

竜殺しの物語とは、人間に回帰する物語のことです。
 
 
●そして、神殺しへ
結論的には、人間は神であるため、神へと向かって行きます。
 
説明は回り道になりますが、フェミニズムの論理を使って説明していきます。フェミニズムとは大まかに「女性の社会的な不平等や差別をなくそうとする」思想や運動なんかのことですが、やっぱりというか男女間の対立を生みました。「差別する男性」と「差別を告発する女性」という対立構造です。
 
この対立構造によって、フェミニズム運動は目的を達することが出来なくなります。フェミニズム運動が「差別なくす」ためではなく、「差別している男性(社会)を攻撃する」ことに目的が摩り替わってしまうためです。対立することで、その立場が逆に固定されてしまって、差別が無くならないのです。
 
女性が「差別すんな!」と叫ぶ間は、ことあるごとに差別されていることにしようとして男性にウンザリされ、いつまでも差別されている自分に酔ってしまいます。差別されている自分というのは、男性を攻撃する正義を獲得した特権的な状態だったりします。
 
結果的に、フェミニズムとはフェミニズムが無くなった時に達成されるものでした。それは攻撃側(女性)の勝利によっては決して得られないものです。それを理解した女性達は戦う方法を変えて行きました。(まだ古い戦い方にこだわっている女性もいます。勝利の経験が忘れられないのでしょう)
 
 
ここで話を戻します。
我々は神なのですが、そうだとはなかなか信じられません。特にそのことに気付かれたら困る人々がいます。宗教団体で利益を得ている人達です。その内部構成員も多くは真実からは遠い場所にいます。どちらにしろメジャーな宗教団体ってのは規模が大きいので個人の武勇(?)ではどうにも出来ません。
 
我々は神なのに、神のことを崇めてしまっています。つまり崇めているいうことは「自分は神ではない」と認めている、ということです。
 
このためどうしようもなく「神」と「信者」という構図になります。信者は神には決してなろうとしません。恐れおおいのです。聖書で自分も神(の子)だよ?とか書いてあっても完全に無視しています。自分だけは違う(神ではない!)と最後まで粘ります。意図的な誤解釈を平然と素人に向かって吹聴します。
 
そこでニーチェはいいました。
 
「神は死んだ」
 
センセーショナルな言葉で、神の死を宣言し、「潜在的に対立する構図」を破壊するのです。信者達を攻撃せず、神を攻撃したことになります。
神を崇め奉っている間、人は自分が神だとは気が付きません。知ってか知らずかニーチェは人間に回帰しようとします。まるで竜殺しの戦士たちのように人間へと回帰しなければならなかったのです。
 
元々は神へ至る道こそが「宗教」の本質だったのですが、やがて「絶対に神に至らない方法」を編み出してしまったのです。神をどこか別の場所に追いやってしまい、信者にはそれを崇めさせて近付かせなかったのです。最大のルサンチマンとは神でいることを抑圧された人々のものでしょう。
 
神という(特に宗教的な)幻想を破壊することで、人は神へと至る道に回帰します。
 
 
神へ至るために神を殺すのが、神殺しの物語の基本構造です。
 
 

*1:これは実は嘘です。地球の環境下だと安定してみえますが、太陽の環境下だとそこまで安定しませんよね。実際問題として太陽は地球と同程度に安定していて、数万年単位でああやって燃え続けます。しかも星の数ほど光っている星はあるわけで、別に太陽は宇宙では珍しくありません