H27/07/26
 
 
○体験を求めなさい、のこと。
「引き寄せ」たいのなら、体験を求めなさいと言おう。「宇宙は、(体験を)与え続ける」
 
 
・輪廻からの解脱とは?
 悟ると何故輪廻から解脱するのか。元は人生は辛いことが多すぎるため、これを修行だと説明したことに始まる。輪廻を重ねるのは魂の修行であり、悟りに到達すれば修行は終わって神と合一し、輪廻しなくなると言われた。
 しかし、人生はただの「お楽しみ会」なので、転生を止めたりはしないのですよ。現在の地球に7億人。7億回を軽く越える回数の輪廻転生をやっていて、止めてるわけないやん(苦笑)
 
 何度か書いたように、私/俺の肉体は時間的・空間的に完璧な形で保存されます。生れてから死ぬまでがそのままリアルタイムに在り続けるのです。でもこの主観としては肉体が死ねば次へと向かいます。その時、私/俺のエッセンスは残り続けるのか?という話になるでしょう。
 
 誤魔化しても仕方がないので書きますが、残りません。いや、完璧な形で保存されてますよ。時間的にはいつでもそこに戻れる程度に完璧に。
 より精確には、私/俺というのは、みんなが思っているよりもずっと神だということなのです。自由自在です。来世は現世かもしれませんし、自分の体に戻ってやり直すことも可能です。
 
 
悟りに至る過程で、私は俺という自我から離れる経験をします。自我から離れることで、私というのが自分自身だと思うエッセンス「そのもの」だと理解できるからです。人は自我を自分だと思っているのですが、それが勘違いだったと知ることができます。死ぬのが怖いのは自我の作用ですね。この私/俺も死ぬのは怖いですよ。でもそれは自我の作用であり、半ば当然のことなのです。
 
我思う、ゆえに我あり」は自我を成立させる意味で正しい。
 
 
自我から離れ、悟りに達すると、「願えば何でも叶うだろう」みたいな状態になります。
ただし、願うことは出来ませんでしたが(苦笑) お金が欲しいとか、そういったことを願うには自我が必要だったのです。自我から離れたから悟ったのに、願うには自我が必要という矛盾ですね。
そういうことは認識できましたが、「全てが叶った」状態なので願いは無くなりました。
 悟りというのは究極の体験のひとつです。残りの人生で何度も繰り返し語るべきエピソードというヤツでしょう。反芻を楽しみ、知とその体験、(個人的な)真実を伝える義務みたいなものでもあるかもしれません。自慢話くさいのはご愛嬌ですが(笑)、滔々と語られれば「自分も!」と望む人が現れ、後に続いてくれるかもしれません。なにせ究極ですからね。
 
 
さて。今回の目的は、体験を求めよ!と伝えることです。
私がお金持ちになりたい的な、俗世的な意味で有利になる願いを願うことができなかったのは何故かと考えると、それは究極の目的である「究極の体験」を叶えていたからです。神/人は、体験を求めています。この世界はあらゆる意味で体験を提供するようにできている。モノは幻想に過ぎません。お金を引き寄せるのはかなり難しいはずです。
 
 
だから言いましょう。悟った者として語りましょう。
 
「体験を求めなさい」、と。
 
例えば、お金持ちになったらどういう体験をするか。何を不安に想うか、何で満足するかを考えて引き寄せなさい。宇宙は体験を与えます。時間は体験を与えるためにあるのです。それら全ての仕組みは「体験を邪魔しない」ためにあります。
 
人生が苦しくて神が助けないのは、苦しみや悲しみといった体験の邪魔をしないためです。高次の視点では、我々はエネルギーであり、低速の光です。物質は幻想に過ぎず、究極的な現実においてはことの始めから我々は救われているのです。というか、我々が神なのです。
 
 
宇宙は与え続けます。宇宙は与え続けます。宇宙は、与え続けるのです。
 
 
貴方が実はどんな体験をしたいか?が問題です。
今、苦しかったらガラリと変えてしまいなさい。違う夢を見なさい。
 
宇宙はただ、与え続けるでしょう。