雑記

 
楊さんに拠れば、赤松健先生の新連載が始まるそうです。夏の終わりっていつ頃?(夏の終わり頃です)いそがしくなりそうですね。まぁ、こっちにそんな体力があるとは思えませんが。
 
 
チェインバー問題について
この話に答えとかはありません。すみません。
えっと、404のダンコーガイによるガルガンティアの、愛がありそうな論評を読み、それはそれで納得しつつ、でも「まどマギ」を誉めそやす部分に見るどうしようもない「そりの合わなさ」からの反発心が沸々と。
というか、普通に考えたらダンコーガイ氏の論評で必要にして十分、あんなの俺、書けないし、みたいなことを思うわけです。
 
なんというか、チェインバー問題の答えの出なさ具合が切ない訳ですよ。
結論なのかどうか不明ですが、チェインバーとは何か? アレは、ファンタジー作品に出てくる「インテリジェンス・ソード」です。少なくとも私にはそう見えている。「まどマギ」じゃない。どっちかと言えば「なのは」でしょ。魔法の喋る武器は、巨大化して使用者(持ち主)を包み込むことで宇宙に適応して見せた。そういうものだと思われます。
 
ロボットは、映像作品の黎明期にアトムがあるので、最初っからどう考察していいのか分かりません。系統的発展なんぞはクソ喰らえです。答えが最初にあるようなモンです。天才って嫌よねー。アメリカのスーパーマンか何かに相当するのは、たぶんアトムでしょう。チェインバーだろうが雪風だろうが、アトムに比べたらAIのレベルが低すぎる訳で。
 
ロボットの物語が成立するのは、なにがしかの過渡期で、その最後らへんまでの間なのだと思われます。
 
例えば宇宙世紀ガンダムですと、「ロボットが人の意思に応えるかどうか?」みたいなモノをえんえんと描いていきます。ポイントは「人間が勝手にそう見做す」という部分です。ロボットには意思が無い。だから、人間が勝手にそういう風に見做すだけ、というのを貫いていく訳です。ウッソなんかだと、「ガンダム!」とか叫ぶ。するとガンダムがウッソに応えるかのように頑張ります。嘘です。ロボットは頑張りません。この辺りの「(頭の)可哀想な子」具合を引き継いだのは刹那ですよね。終いには「俺がガンダムだ!」ですからね(涙)。F91の場合は、ラストでシーブックが「セシリー!」と叫ぶと、V-MAX発動しての覚醒タイムに入ります。隠し設定であるミノフスキードライブが発動して、スラスター描写なしで全方向加速を可能に。MS戦闘だと無敵じゃね?みたいな能力ですけども、あれは単にパイロットのテンションだかを読み取って、リミッター解除しているだけなんですね。あたかも、マシンが人の意思に呼応したかのように振舞っているだけという。そこにマシンの意思を見た「つもり」になる訳ですね。逆シャアのニューガンダムまで来れば、サイコフレームですよ。「ニューガンダムは伊達じゃない!」とかのどう考えても無茶言い過ぎなセリフからの、アクシズ隕石落とし・返し! ガンダムが人の意思に応えたかのようです。いいえ、サイコフレームに人の意識が共振した結果、擬似的なサイキックパワーか何かだとかなんとか。ともかく、まともな宇宙世紀作品ではロボットは人の意思に応えたりはしません。
 
しかしですよ、AIがあれば、人の意思になんかあっさり応えてくれるんですよ。レイズナーなんか、レイとか名前の付いてる制御システムに頼んだら、V-MAX発動してくれるじゃありませんか。ガンダムで必死こいてんのはなんだったのか、そこにはなんのドラマ性もありません。
 
雪風がどれだけか素晴らしかろうと、アトムから見たらどうでしょう? 最初っからパイロットなんか必要としていませんよ。小型化されちゃってて、乗り込む場所すらない。しかし、そのアトムですら過渡期なわけです。いちいち悩まなくていいはずのことで悩んだりする。ロボット系のドラマ作りは、どうにもこう、不完全ありきといいますか。
 
再びガンダムに戻って来て、V2ABに思いを馳せるとします。あの後の世界では、全てのMSがIフィールドバリアを使えるようになるわけですよ。もはやビーム兵器はお蔵入りになります。実弾兵器の世界に戻ってしまう。そんなのガンダムじゃない!となります。18mだかのロボットが小さく見える位置から射撃する時の距離だの弾速だのを考えると、レールガンで当たり前って世界なのが分かるかと思います。1キロ先に到達するのに1秒とか掛かってたら、宇宙だと遅すぎて当たりようがないという。つまり、あのビームってヤツは、戦闘が成立する速度の武器っていう記号なのです。だから、絶対的に実弾兵器の世界になんか戻りませんし、Vぐらいでガンダムは終わりになってしまう訳です。
 
チェインバークラスの科学技術はほぼ魔法と同じに成っていて、科学のフリをして見えるだけのファンタジーものに堕しています。人機一体、マン・マシンインターフェイスの境地は、人の対G性能によって否定されます。結論的には、人間が不必要な程度に、戦闘が「単純」なのでしょうね。戦闘が複雑極まりなくないから、作者だのが複雑すぎる戦闘を描くことを放棄した結果、そんな想像力が欠如した結果として、マシンパワーだけで敵機を殲滅することが選ばれる。筋肉主義とイコールのものです。同時に、読者もそれを望んでいるからそうなる。それなら核ミサイルでいいのかもしれない。しかし、十分に発達したAIは、人間と同じように考えられるようになる可能性もあります。むしろ、人間は達人性を求められ過ぎているような気がしてくる。その方向だと機械が解析できてしまうような気がする。究極的に、機械が決定的に人間ではない方向性を人間に求めえるのかどうか、なのでしょうか。その問いそのものが、人間と機械の関係を決定的にいびつなものにしてしまいそうでもあって。こうえんえんと考えていくのも神林的な気がしてしまうほどです。
 
  

・マガジンのラストマン
おもしろそげなバスケ漫画なんですが、残念。あれ、逆だったりします。上じゃなくて前ですね。上に飛ぼうとすると、モモ前の筋肉を使いやすくなってしまうのです。体力測定の垂直跳びとかと同じものですが、実戦では使えない筋肉です。特にダッシュ力が高い設定の生徒を使っているので、モモ裏のハムストリングを使わせるべきです。だから、前が正解。
この場合、背の低い生徒だから、上に飛ぼうとしてしまう。そうじゃなくて、前に飛べ!と教える展開にできたら、最高でした。しかも、前方力を上方向に転換しようとして、ブレーキを掛けてジャンプする描写まで入れてしまっている。ノーマルなジャンプショットのイメージですよね。あそこはむしろレイアップ的なジャンプモーションを延長する方が良い訳です。エアジョーダンって、前に飛ぶから結果的にああなっているんです。
残念ながら、漫画による間違った運動教育になってしまっています。こういうのを少しずつでも無くして行くことができれば、日本の運動水準が上がっていく可能性も、あればいいんですけどね。無いですけどね。