ウンザリだ

 
 
「穏やかな人間が勝ち」というゲームというか、人生ゲームがあって、一方ではバカであるべき、というゲーム、というか人生ゲームがある。人間はさまざま、多様性ありきとはいうけれど、勝ち負け判定だったりはする。勝ち負け判定なら、多様性なんてゴミ箱行きだ。
 
だから、結局はバカを相手に穏やかに振舞うことになるのだが、正直に言えば蹴飛ばして踏みつけてグリグリしたいわけ。でも理由がないとそれも無理、ということになる。反社会的な悪人にでもなってくれない限り、そういう反撃は夢のまた夢ね。殺人犯なんかはその意味では祝福だよ。制裁できるようになるんだから(直接は無理だけど)
 
じゃあどうするのか。
まず、穏やかに振舞うということは、実際には半ギレとか見下し、評価を下げる、悪口などの、みみっちい復讐を「他人の手に委ねる」というか、バカの評価を下げる役割を「他人に割り振る」ってことなわけさ。これは陰険野郎ほど得意なことなわけ。イジメっ子とか、イジメを操る人間の領域だ。ジャイアンを操っているつもりのスネオとかだね。
「相手の足を引っ張る」という名前のゲームの大半は、自分が悪人だと思われないように、バカの評価を下げる役を、周囲の人間に押し付ける、ということにある。
 
↑これを「頭が良い」と判断するゲームがあって、そのメタゲームに気が付いていると、いや、最初の何秒かで気が付かなきゃ低脳でしかないんだけど、その「程度の低さ」がどうにもならないというか。ヘドがでる。バカはバカのままなんだろって分かっちゃうんだよね。それで嫌悪が出ないってことは、精神性がもの凄く低いだけだ。実際に低いんだろうと思う。
 
ある程度マトモであろうとするということは、バカがつまづかないように仕組みを構築することを意味していて、(それこそ常識だろうと思うのだが)バカがバカにならないように気を付けているんだよ。でも、それは無駄な労力だと嗤われたりしている。
 
結果、バカはバカなままだ。穏やかな人間は許すしかない。でもひとたび許容範囲を越えると穏やかなフリをした復讐屋や陰口陰険たむしがビリビリし始める。
 
 
それでも、大半の人間は自分が善良だと思っている(大事)。
 
 
 
はっきりしていることは、だ。 ウンザリだ、ってことだよ。 ウンザリだ。
 
 
 
●復讐型の社会構造との相似
 
他者 > バカ > 穏やか
 
穏やかな人間は、他人に復讐・報復を押し付けた場合にだけ、バカに勝利しうる。こうなると、復讐型の社会構造と相似をとることになる。
 
復讐型の社会構造では、自分で反撃しないように設定されている。警察やらの「他人」が代わりに復讐を遂行する。このことによって穏やかさを維持することが(一見)可能になってみえる。
 
……ということは、復讐を他者に委ねることはむしろ正しいのか。凄いな。バカばっかりだ。
ということは? 他者が迷惑している時、自分が被害者でない場合はむしろバカイジメに参加すべきってことになるだろ。自分か復讐して欲しかったら、他人の復讐に参加するべきだよなぁ。都合が良すぎるだろ、自分だけ性格の良いヤツぶって、他人に攻撃させるように仕向けるだなんて。まぁ、そんなヤツばっかだけど。
 
もしも問題がイジメだった場合はどうなるのだろう。バカを攻撃する多数としての他者が、イジメの主体、もしくは助けない前提の傍観者の場合は解決しなくなる。だから世界を拡大して、より無関係な他者を探して保護を頼むべきなのだろうけど。
じゃあ、イスラム国的な問題の場合は? 最大級の他者が経済的な理由などで手を引いたら終わりになってしまう。
 
 
バカに対抗するためにバカになる、の処方もあるな。キチガイになることで役割の転倒もたぶん見たことがある。
 
ドラえもんの立ち位置って考えてみると絶妙だな。そんで秘密道具で失敗エンドって展開。秀逸な気がしつつも、イジメられっこが妄想でやってることを代弁してみせた可能性があるのか。
 
直接の復讐を禁止しているのだから、チクリ魔になるのがベストって結論のままだとつまらないな。