かぐや姫の物語

 
 
かぐや姫の物語ジブリ
最近はジブリの新作で映画館へは行かなくなりました。ネットを見ていると意外とつまらないという発言が多くて、なるほどなぁと思ったり。私は楽しんで最後まで見ましたので。バッドエンド風味のラストでもんもんとするのがデフォルトです(笑)
 
批評的な立場でモノを言おう・書こうとすると、「つまらない」とばっさり言えなくなる現象はありますがね(苦笑) 下手に詰まらなかった!と言うと、イコールで「良くわかってない」になってしまうかと。なんでもかんでも完璧に読み解けるものではないですし、見る時代や年齢、時期によっても感想は変わるもの。だから人の感想を読んだり聞いたりするのに楽しみがあったりもする。人によっては評論は創作である(もしくは二次創作)と言い切る場合もあります。
 
「作者の死」という意味では、私の感想は私がデコードし、創作した物語から生れたものになるのでしょう。そんな難しいことを考えていくと、感想の書き方自体が規定されていくのですけどね。どうデコードしたか?どう見えたか?を書いていかなきゃならないからです。
 
前置きはこのぐらいにして。
私にしても竹取物語を実際に読んでいる訳ではないんですが、有名なので物語の筋は分かっています。そうなると元は「まんが日本昔ばなし」なのかな?とか考えてしまいます。でもいろんな話があるから、しょっちゅうかぐや姫をやってるはずもないし、本当に見たのかな?とか疑い始めればキリがありません。そっちと比べてどうだった?という比較を言いにくい。そのぐらいメジャーな物語だと思います。
 
物語を成立させている基本は「いってこい」なので、かぐや姫が地球に「行って」、月に「戻る」までの物語になっています。
更に「視点が2つ」あって、竹から生れた赤ん坊時代は翁が主人公です。声優も地井さんで「ああ、この頃はまだ生きてたんだー」と懐かしく思ったりしました。ウィキペを見ると、三宅裕司とも書いてあるので、途中から交代したのかもしれませんが、そこは気が付きませんでした。1回認識すると固定されちゃうんですね。びっくり。
 
この物語が面白かったのは、正直、翁時代だけかな?という気分です(笑)
特に歳が若いと、生れてくるヨロコビなんて知ってるよ!となってしまうものなのかも。なので、成長していく過程だけが楽しかったですね。ぐんぐん成長していくのに、化け物として扱われず、仲間として受け入れてしまう。子供達も周囲も柔軟で、描画方法とも相まって、心地好い世界観でした。この部分だけで言えば、とてつもない価値を持っているでしょう。
 
そうしていくうちに、かぐや姫の内面を描くために、翁からじょじょに視点がズレていくんですが、その途中に捨丸があいだに入っています。中間を繋いでいるんですよね。ここが後で利いてきてしまい、捨丸兄ちゃんとだったら結婚してもいい!になってしまう辺りがリアリティでもありつつ、つまらなさの原因でもあるのでしょう。
 
翁のサクセスストーリーとして見ると、金持ちになっただけで家を成し、かぐやを「姫として成立」させるのに奔走しています。実際問題、かぐやの内面よか、そっちの方がずっと面白かったでしょうねぇ。ものすごい努力です。
 
美しいかは実際に確認できないのに、名付けの親の証言だけで翻弄される5人の公達(きんだち)。特に石作皇子なんてアンチスパイラル上川降也ですよ。綿密に調べて来たんでしょうねぇ。かぐやの求めるものを提示し、口説き落とす寸前まで辿り着く。アンチスパイラル良い仕事です。マトモな内面が設定できていないかぐやはコレに対抗できません。人間ってコエー。結局、北の方というオリキャラが陰謀を暴き、かぐやを救うことになるのですが、このぐらいから不安な感じが過ぎってきます。女性としての芯がなく、ただイヤイヤとか言ってるだけのバカガキ娘でしかない。
こうして5人の公達がかぐや姫の美しさを証明し、遂には御門の御出ましとなりました。
 
御門相手に「ひいっ!」とおぞましい顔。これ、やりたかったのでしょうねぇ。でも半ば以上ギャグにしかならなかった。そしてこれが決定打でもうどうにもならなくなりました。ダメだ。ただのガキじゃん。成長が早すぎたんだ。かぐや姫は中味が「ナウシカ巨神兵」でした。腐って落ちる運命だったのです。
 
そして現実逃避を開始。捨丸にいちゃんに助けを乞いつつ、どこまで夢なのか分からないことをやって(たぶん時間をやり直す能力かなんか)、あとは連れ去られて終わり。捨丸には家族がいることで、救いを奪ってあるんですよね。帰るしかない、という風に。
 
で、記憶を奪われることがかぐやの救いになっています。眩しいけれど穢れた地上での暮らしを忘れなければ、月では生きていけないでしょうね。それにしたって、どうにも説得力がない。かぐやはそこまでして地上の何にこがれたのか? 月ってつまらないんだろうな、と想像で補完するしかないのですよね。
 
一番の方法であり、一番安易でもある補完方法は、恋人を作ってしまうことでしょう。それをやると物語「かぐや姫」としての正統性は失われるのです。ですが、どうしても帰りたくない気分は表現できるし、御門などからかぐやを護るために奔走する姿を描くことができた。「好き」という動機で走る「少年の不在」が、かぐやの内面に穴を作ってしまっている。少年の輝きがないため、鏡として映し出されるはずのかぐやの内面が存在しなくなっている。その結果が、どこもかしこも中途半端な、「早すぎたかぐや」という偶像なのでしょう。
 
身体だけ大きくなった10歳、と考えればリアリティはあるかもですが、要らないリアリティでつまらないことをしましたね、と思います。
内面を描いてしまったことで、何を考えているのか分からないような神秘性もなくなってしまったし、美しさも高貴さも外見によるものでしかない。アンチスパイラルが勝ってしまったので女性としての魅力も頭打ちでしょ。見抜かれる程度、という。
 
逆に速く終わってくれて良かったというか。映画を見終わった時点では切ないような、悲劇をただ繰り返した気分でしたが、考察するほどに速く帰ってくれたことで、悲惨さを回避できたようなホッとする気分に。
 
美しいものを美しいままで返す、という物語なのかもですね。