雑記(弱キャラ友崎くんと無意識にゆだねるべきかどうかの話)

弱キャラ友崎くんがなかなか面白くてね。
最新話のLv.11「たった一つの選択肢がすべてを変えてしまうこともある」がなかなかにタイムリーというべきか。
 
小説版は読んでいないのでアニメだけ。ネタバレゴメンだけど、本音で動くべきか、スキル(テクニック)で動くべきか?という対立項を設定してきている。主人公は揺れていて、ヒロインはスキル派ですれ違いが起こっている状態。
 
 
前提として比較してもらいたいのは、「はちま起稿」の記事だ。
 
【納得】勉強は得意だけどスポーツや人付き合いが苦手な人を観察してきた結果、その原因は「◯◯◯」なのかも → 共感の声が殺到
http://blog.esuteru.com/archives/9634995.html

学校の勉強はまあまあ得意(あるいはものすごく得意)だが、スポーツが苦手、人付き合いも苦手、というタイプの人が結構いる。マジメで不器用なタイプ。こうした人はなぜ不器用なのだろう?ずっと観察してきた結果、「意識ですべてを制御しようとし過ぎ」ではないか
ということに気がついた。


 
全てはコピペしないのだけど、運動は意識(自我)で制御するべきではない→会話などのコミュニケ―ションも同じではないか?という流れ。自我=本音、無意識=スキルということで内容がほとんど一致している。
 
つまりここでの問題は、スキルで動くことは「嘘」に近い内容であり、「本音ではない」っていう問題意識にあるわけだ。
 
 
別件だけど、同様の問題を声優の杉田智和がラジオで言っていた。ラジオなんかでは「何らかを演じているよ」って。30分だののラジオ番組を何年も続けようとしたら、自分自身では内容が持たないし、続かない。……といった内容だ。
 
私も同意で、ネットラジオ?だとかで他人に聞かせるような内容を作っていくのであれば、本音はそこまで価値が高くはないだろうなって思う。そもそも毎週、話を続けてもたせられるか?って段階を越えられないでしょ。
 
 
さて、何が正しいのだろう?
 
これを書いている私(俺)に言及すべきかもしれんのだけど、運動は無意識の制御に任せるのが得意だったし、友達を作ろうとする時も同様。従ってかどうかはアレだけど、本音を晒すのはあまり得意ではなくて、好きな子の前だと上手くいかない。自分にとって本当に価値があるもの(恋愛)に対しては上手くできないタイプだね。
 
 
このブログを継続的に読んでいる奇特な人がいると仮定して語るのだけど、覚者としてはどう考えるかって話が必要だろう。私が信用できるかどうかの話がどうしても前提にくるんだろうけども。社会的には負け組だわな。だから、参考になるかどうかは各自で判断していただきたいデス。
悟りでは自我を否定する。なぜならば、「自分だと思う自分」ってやつは「自分は神ではない」という否定に基づくからだ。普通に生きていたら、そうそう願望が達成されないのだから、自分は万能ではない、したがって、神ではないという見解に至るんじゃないかな。神なる概念は全体性のことでもあるから、自我の確立は、全体性から自己を切り離すといった意味を伴う。神との接続を断とうとするわけだ。不安や孤独のはじまりはじまり。
 
うん、ここだけを見ると、スキルで動く方が正しい風に見えるね。
 
 
次、身体意識やディレクトシステムで考えた場合ね。ディレクトシステムで動くってことは、スキルで動くのに近いのだから、やっぱりスキルで動く方が正しい風に見えるだろうね。でも、目的的に動くんだよね。誤字ではなく、「目的」的に動くわけ。半自動操縦なんだけど、目的は自分で設定しないとダメなんだよ。体が勝手に動く「極意状態」ってのは、習慣や癖とははっきり別物だから。癖とかだとパターン化されちゃって、細かな対応がまったく利かない。同じパターンを繰り返すだけになってしまう。それは極意と呼ぶ価値がない。
 
野球のバッティングで例えて見ればわかるかな。ストライクゾーンに球が来ました。打ちました。そんな単純な話じゃないよね。100球が100球ともブレずにど真ん中にくるんだったら、癖でも打てるかもしれないけど、球速も違う、コースも違う、球の回転速度も違うし、変化球にもいろいろある。そもそもボール球かもしれない。癖で生まれた動作や、パターン化した動きでは対処できないんだよ。あらゆるものがそう。そういう細かい情報群をまとめて総括的に処理する際に、スキル的なもの、無意識とかディレクトシステムは有効に働きうる。高度能力の開発ってそういうことだからね。
 
つまり、目的設定が本音とかけ離れていれば、嘘の能力に見えるんじゃないかな?
 
 
とりあえず、小説家になろうなんかでランキングを高めたり、ユーチューバーになろうと思ったら、演技することが必要だと思うね。それは目的の問題でもある。正しさは常に目的によって決まる。死にたいなら、毒を飲むことは正しい。生きていたいのであれば、毒を飲むのは致命的な間違いだ。同じ行動であれ、それは目的によって正しいかどうかが決定される。自己を表現することが目的なのか、自己表現を評価してもらうことが目的なのか、お金が目的なのか、それによって行動の正否は変化する。
 
個人的な話だけど、売れるような物語を書くことに抵抗があるんよ。人気の追求とか、売れ筋の物語を描くことも非常に難しいと実際、わかっている。やろうとしてできるとは限らないし、出来ている人は限られた一部の人だからね。人生負け組なのが表してしまっているように、俺は本音に割り振っちゃっているというかね。上手くやる気がないんだろうな。つまらないことをやりたいと思わないというか。いや、もしかすると「普通のことができてない」ってことなのかも。ああ、いかんな。
 
  
【真理】超有能で先輩からも尊敬される営業職の女性に仕事のコツを聞いてみた → 彼女の返答が「素晴らしい」と共感が殺到
http://blog.esuteru.com/archives/9668506.html
 
 
脱線したな、話を元に戻そう。
しかし、本音ってやつも難しいわけですよ。極論に走りがちというか。ペルソナ的にいえば、善意の自分も、悪意の自分も等価なわけだけど、「隠された本音」がまるで「本当の自分」であるかの風潮にさらされているわけでね。そんなこといったら、多くの人が殺人願望かなんかがあるサイコパスだってことになってしまうけど、んなわきゃねーだろって話ですよ。
今はやるべきことをやっているだけで、本音で行動していないとかは結構、難しいし、危険ですね。お金があれば、毎日、寝て暮らしたいとかね。それ、かなり暇ですよ? 暇つぶしがものすごく得意じゃないと耐えられません。ニートは?っていうと、ニートもなんだかんだ作業をやっていますね。ゲームとかの中で、でしょうけど。要するに、お金にならない作業をしているのがニートってことですね。それ家事手伝いも同じなんです。でも家事手伝いはニートとは違って、尊いです。そこは区別が必要ですね。さすがにね(苦笑)
 
 
更に別の視点で考えてみると、恋愛ものでよくあるパターンなのが、「自分を優先」するか、「他人を優先」するかですね。相手を傷つけないようにすることで、自分の心を蔑ろにしたりとかですね。自分のことを好きになってくれる相手よりも、自分が好きな相手に行きたい!とかって葛藤がよくあるパターンでしょうか。
 
ちょっと変化をつけてみるんですけど、セックスを考えると面白いんですよね。「自分を優先」させるか「他人を優先」するかって(笑)自分がイクのを優先するか、パートナーがイクのを優先するか。こうしてみると、何が正しいのかってとても難しいのがわかります。
 
理想をいえば、お互いが相手を優先しあう形でしょうか。互いが互いを補い合う。うーん、人類補完計画エヴァまだ見に行ってませーん。何月までやってるんだろう? 4月下旬に行こうかなって感じです。そういえば、もう春アニメの時期ですね。調べたりしなきゃなぁ。
 
正直、よくわかりませんけど「自分のやりたいこと」を「スキルでもって達成する」のがいいんではないかと。そんな風に思いました。