雑記(劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン)

ネタバレを含みます。
 
ツイッター見たら宣伝が飛んでて、なんか偶然タイミング良く観ることかかないました。
 
 
■ 劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン
劇場版というか、本編の続きとかエンディングを含む最後のパートですね。京アニの放火事件があって、止まった時が動き出すような、そんな文脈をもつ作品でした。静寂にも意味があり、グッと引き込まれる作り。
 
親鳥たるギルベルト少佐は生きているのか?二人の物語の結末は……? というのが主題なので、生きてることが分かった時点でほとんど終わっていたわけですが。ここで泣くタイミングをひとつ逃しました。生きていたんなら、どうして戻ってこないのか? が主題として切り替わり、ギルベルト少佐の物語にナチュラルに変化。
 
結局、愛してるのひとことも出てこないヴァイオレットちゃん。そうした不器用なラストは、逆にその言葉の重みそのままな、美しいラストになりました。がんばれ!そこだ!いっけー!とか思って観てたので、泣くタイミングをここでも逃しました。
 
いやぁ、まんぞくまんぞく。…………となって、翌朝。
 
 
「あれ? これ、NTRじゃね?」ってなりもうした。だから考察記事書いてんだけどさー。マジかよー。
 
 
寝取られっていっても、ヴァイオレットちゃんが非処女!とかそういうエログロの話ではなくて、物語の構造が、ね。
 
奴隷っぽい境遇の女の子を自分好みに育てる光源氏計画したタイプの文脈でしょ。これに戦争成分が加わるにしても、どこか違和感が残る。なんとか島でも教師をやっていたのも違和感。
 
処女の子を自分の色に染めたけど、満足できなくて、寝取らせた構図とぴったりハマっちゃうんだよね。ヴァイオレットと距離を置くことで、他者から教育を施されて、ある種の人間性を取り戻した状態になって戻ってきた。自分で拒否った癖に、捨てられそうになって、やっぱり愛してる!ってヘタレ夫が愛を乞う姿は、まんまNTRものっていう……。感動する物語なのに、もしくは「だから」、なのか? 不思議。
 
ある種の作品、ヱヴァンゲリオンとかは分かりやすく、パクリとかオマージュの集積物になります。人間も同じく、他者影響の集積物なわけですよ。個性とかオリジナリティとかも元を正せば、誰かに影響を受けて、与えて、の積み重ねの果てにあるものでしかないわけで。教育を寝取りと考えたくはないんですけどね。ヴァイオレットちゃんの奴隷設定からの、ギルベルト少佐!っていう繰り返される親鳥への求愛みたいなのを受けて、こうした類推に至りました。だから、「良い」とか「悪い」とかは特にありません。
 
たいへんに美しい映像美だったことは間違いないですので。