雑記(クラナド「態」「鏡像」)

 
クラナドAS
“ちゃんと”泣きつつ、いや5歳児にそんなセリフを言わせるのには無理がねーか?(笑)みたいな突っ込みを行うのは奇妙な感覚だ。……いわゆる「泣き」はテクでしかないというのは事実だと思える。だからといって「泣いたら負け」みたいな勝負をしてしまうのは、結局のところ、泣き現象に振り回されているだけであろう。
 
出来の良い物語というものを享受しようとした場合、泣きで泣けないと詰まらないことになる。安直な、「泣けないからツマラン」という判断はレベルが低すぎてどうにもならないが、泣けるであろう作品に対しても泣くかどうかの勝負に打ち勝ち、見事に泣かなかったから俺の勝ち!とやっておいて、評価しようというのは勘違いだろう。結局、ちゃんと泣いてみせて、その時の自分の動きを表現しようとしたり分析していくしかないではないか。
 
話としては単純で、汐という娘ができること、祖母が出てきて、自分の父との関係を全体の経験の中で位置付けることが出来るようになって、欠損を埋めようというわけだ。粗筋のレベルではよくあるし、どうでもよいものだろう。では粗筋でどうでもいいものには価値はないのだろうか。価値があるとすれば、それは何処なのか。前者は落語のような例があるのだから粗筋が分かっていても関係がないと実証されている。後者は落語についてどうか?という話もあるのだろうけれど、クラナドではどうなのか?と考えていくべきだろう。
 
クラナドにしても主人公(朋也)が自分が親になるまで本当には理解されなかった。
こういうのを日本語でどう表現するか?と考えると、「態」という言葉になるように思う。ウィキペディアで「態」について調べると、
言語学の用語で、動詞に表現されている出来事をどの視点に立って見るかを区別する形式を指す。一般に能動態・受動態と呼ばれるものがこれにあたる。
……と書かれている。視点によって区別されるのであるから、その状態は「見る角度によって変化」しなくてはならないだろう。つまり、朋也の場合で考えれば「親/子」となる。自分のダメ父から見れば自分は「子」であり、こおろぎさとみな汐から見れば「親」となる。こういうのが「態」なわけだ。
 
いや、当たり前のことしか書いていないのだけど、どうしてこんなに難しくしてしまうのか?というと、簡単な概念なのだけど、説明するとめんどっちくなってしまうからだ。例えば、朝の通勤で混雑していると前の人を押してやる必要というのがある。自分の前に立っている人(A)が、その前の人(前の前の人、B)を押すことに対して言い訳を作ってやる必要があるからね。そして他者を上手に押すということは、自分も「後ろにいる他者(Z)」から上手に押されなければならないことを意味している。(B←A←自分←Z、といった風に連鎖的に「押す/押される」の関係になる)この手の自己言及的な態度を当たり前(常態)とすることが必要*1になる。
 
態が分かると、後は鏡像の関係と、転移っぽいもので説明できる。こういうのは哲学的用語を正しく使えているかあまり自信が無いので、適宜読みかえるなどしていただきたい。…………で、フィクションでよく使われる方法では、秘密を持っている甲が「何か隠しているでしょう?」ともう一人の登場人物である乙に問いかけると、乙が「誰にだって言わないでいることはある」と言葉を返したりするわけだ。(←「ありふれた奇跡」のワンシーンから)
写像だとか鏡像だとか色々あってよくワカランのだけども、たぶんラカン鏡像段階論の応用になると思う。ラカンを説明するジジェクがかなり影響がある感じなのだけど、私は不勉強を開き直って盾に使うワルモノなので軽くスルーしてしまう(笑)。またまたウィキペディアから引用しておこう。
>そこで幼児は鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とはまぎれもなく他者のことでもある。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す
まぁ、他人の中に自分と同じものを見ると理解しやすい、というわけだ。
 
あの粗筋でクラナドが実際にやったことは何か?といえば、ごく単純な感情移入だろう。主人公・朋也の「立場の入れ替わり」は、態を前提として鏡像関係を結ぶ。これら立場の入れ替わりは、結局、自分の脳内での運動でしかなく、半歩の飛躍で視聴者という自分とも入れ替わりを発生させるのだと思う。半ば転移にも似たこの認識の運動によって、物語を「自分のものとする」ことが出来るというわけだ。めでたしめでたし。
 
しかしまぁ、物語で泣いたりするのに理由なんぞいるか!っていうのが当サイトにおける基本的な態度であることは明記しておかねばなるまい。(そこが本格性を削ってしまう悪しき要因である気がしないでもないが)
 
 
花畑で汐を抱きしめる朋也。しかし心象風景*2でトイレという日常の場を重ねて描写したのは特筆に価するね。態・鏡像という入れ替わりとの関係においても韻を踏んでいるかのような美しい配置でもある。美しいのだが、まさにその「美しいこと」によって現実感を喪失する薄っぺらな花畑*3と、トイレという俗な現実感をもった日常の場。トイレの前で抱きしめる絵のイメージがぴったりと綺麗に収まっている。原作でのここの描写はどうなってやがるのだろう。チクショウさすが京アニ!とかテキトーなことを書いておこう。

 
朋也は渚のことを語り始め、そのことによって彼女の死と向き合い、涙する。電車という背景は時間を表象し、未来へと人を運んでいく(同時に過去から少し遠ざかるといった寂しさをも伴う)といったイメージを重ねてみることが出来る。

 
 
 
少し、長く語りすぎたようだ…………ぱたり。
 

 

*1:空気を読むの一環として。ここでは省略

*2:この言葉も安易に使われ過ぎて寿命の気もしないでもない

*3:ここでの「薄っぺら」は理解のための強調表現として。むしろ両方取りこそが望ましいだろう