ローマ人の物語・唯一者の驕り&帝国政の理解

 
ポンペイウスの死〜カエサルの死まで)
ポンペイウスは昔日の面影を残していなかった。それは何故だったのか?がずっと疑問だった。
その答えはカエサルの態度の(微妙な)変化から考えると「世界の王」となったことによる悪影響ではないかと思う。カエサルもまた三頭政治によって身近に接してきたポンペイウスに、世界の王として知らず知らずのうちに倣っていた部分があったのではないかと思う。
 
ローマには敵がいなくなってしまった。少し前であればギリシアなどが文化的にも飛び抜けていたことから謙虚に学ぶこともしたと思うが、ポンペイウス辺りでは完全に事情が異なっていたように思う。ギリシア文化も過去の栄光に過ぎず、軍事的にも覇権を握ってしまっている。敵か居なくなってしまうことによって(世界を征服することで)、ポンペイウスはまさしく世界の王となってしまう。
このことは野心が成されたということを意味する。ゴールしてしまったわけだ。そして野心による「攻め」の後にくるのは、幸せな維持(守り)なのだ。ここに至ってポンペイウスに満たすべき野心があるはずもない。それなのに虚栄心の方が強かったなどと評されては心外というものではないだろうか。
 
これらのことを理解することによって、カエサルガリアでの戦いを半ば強行したことが納得できるようになった。ローマ世界はポンペイウスクリエンテスとなっている。カエサルは功を「外」に求めるしか無かったのだろう。
「内」で上手くいっていない人間は「外」に目を向ける性質がある。この点は塩野先生の通り。人は世界を広げることによって心の安定を得ようとする。いじめられっこが学校以外の「別の世界」に救いを見出すのと基本は同じだろう。
 
スッラの遺産とでも呼ぶべきポンペイウスは、カエサルの手に掛かることなく果てた。これでカエサルは拍子抜けしてしまったのかもしれない。生きてさえいればカエサルには丁度良い重石になっていたと思うのだが。
(予想するに、カエサル暗殺の遠因は唯一者の驕りではないかと思う。)
 
個別に兆しを見てみると、
まずシリアの味方をほっといてエジプトでの2ヶ月の休暇。
そりゃあ、凄まじく忙しかったんだろうから、少しは休ませろという言い分はあったと思う。(私も最初はそう思った。)しかしその結果は?というと味方の6ヶ月もの放置、となった。3個軍団の内の2個軍団を援軍として派遣させておいて平気でそういうことをしてしまうのだ。ここでは想像力が必要だ。この6ヶ月を放置したことで誰か損をしたのか? 無論、小アジアの人々である。ミトリダテス王の息子ファルケナスによって小アジアの半分は攻略されてしまっていた。当然、カエサルからすれば大した問題ではないだろう。被害者の身になって考えるなどということはただの人間には土台出来ないことなのだ。「可哀想」とかって余計なことを言って、「お前に俺達の何がわかる!」などと相手を怒らせるのが関の山だ。何人死のうがいまさら大した問題でもない。
 
常に一挙両得を狙うカエサルゆえに、途中での寄り道がてらの「お仕事」は必要なこと。当時の交通事情を思えば行って戻るような二度手間は出来なかったこともあるだろう。2ヶ月遊んだ後の4ヶ月は必要経費みたいなものだった。
そして「来た、見た、勝った」となる。これは当然で、カエサルに もはや敵はいない。
 
 
次に第十軍団のストライキがある。
たしかに「退役を許す」というセリフ、たったそれだけで解決してしまったように見える。これがアントニウスの政治的才能の欠如だけとしか見えないならまったくの盲目だろう。
これは中央集権型の「天才による統治」のデメリットそのものだ。カエサルには一瞬で解決出来ることであっても、他の誰かには難しかったと思う。それが権力というものであり、ローマ人がただ独りによる統治を嫌い、執政官2人をおいて共和国政にした理由ではなかっただろうか。
 
第十軍団はその信頼の深さ故に、甘えた。一年ぶりの再会だったのだ。仕事に没頭する夫に、妻がいじわるしようとするのと同じだった。そして当の夫は?というと逆にそっけなくしたのだ。愛人が沢山いたカエサルにはこれが難しくない。本質も糞もなく、これは「そういったこと」だ。ルビコン前のスペイン帰りでの第9軍団のストライキとは処理の仕方が若干違うのがなんとも楽しい。

人間は、自らが認めた分だけ相手に権力を与える。第十軍団はカエサルの直属の部下だったのだから、その「主」はカエサル以外にはありえない。ここでアントニウスが無理に押さえ込まなかったことも、押さえ込めなかったことも間違いとは言えなかっただろう。
彼には人心掌握の才は確かに無かったかもしれない。しかし相手の身になって心を察知することはできたのだと思う。キケロへの一件がそれを示している。逆にここで第十軍団を懐柔する才を見せたとすると、それはカエサルへの対抗馬としての素質ということになる。この問題はドゥラキウムの包囲戦でも起っている。スッラの甥が追撃しなかったのがそれだ。強大なカエサルの傍には無能な武将達が影となって描写される。中央集権型、且つ、有能で秘密主義めいたところのあるカエサルが部下の思考力を奪っていたのではないか?*1と思えてならない。
 
ここでもカエサルは「見た、来た、勝った」方式で処理できてしまった。すると「何でこんな簡単なことができないのだ?」と考えるようにもなる。もはや真の貴族的精神どころか驕った王者がそこには垣間見えるようになる。
 
 
最後に、北アフリカへの出発。
もはや部下はさっぱりワケが分からない状況で放っておかれている。それでも上手く行くのだから大したものだった。勝利者の持つ慣性の法則は事実よりも「結果」をその後に続かせるだけの威力があるのだろう。
その後カエサルは軍事訓練を行うことになる。ここで少し初心に戻ったのかもしれない。象を突付いて遊んでいる間に本来のカエサルが少し戻って来たのか、快勝する。
 
 
四度の凱旋式はそんなに無駄な虚栄心を満たす必要があったのか?と思ってしまうのだが、全ての凱旋を平等に行うことで不公平な感覚を無くす政治的配慮がその背後にあったように思える。ここは必要な無駄なのだろう。ましてや凱旋式であるのだから、やらないで恨まれるより、やって恨まれるべきなのだ。統治者のセンスとしてこの点は見習いたいと思う。(凱旋する予定はないけど)
 
 
○共和政から帝国政へ
カエサルの帝国政という政治的な思考はかなり分かりにくいものだったが、「世界の王」というキーワードによってここも理解できるようになる。「ローマによる他国の統治」の状態から、「ローマ=世界」という段階に飛躍したのだ。

ローマの共和国政は、ローマ一国を統治する手法に過ぎない。ローマを「主」とし、属州や同盟国を「従」とする考え方だった。この場合、当然「主」であるローマ自体が強大でなければならない。とすれば当然の帰結として元老院制などによる統治システムが必要になる。いってみれば「内」の充実だ。
 
カエサルの構想は、属州も同盟国もすべてローマと見做している。だからこそ地方分権を基調とした「外」の充実となって帰ってくるわけだ。
この因をどこに求めるか?というと、ギリシアなどの同盟国が攻められた時にローマが助けに行かなければならない、という一事にあったわけだ。何も突然に閃いたものではなかったのだろう。結局、ローマが覇権国として周辺を全て管理していて軍隊も派遣するのだから、「全てをローマ」として考えることが正しいと言える。「国境という観念が無かった」のもそりゃ当然なのだ。
まったく、一体どうしてこんな誤解が発生したのだろうか?と思う。勿論、それは土地を奪って国を大きくする路線を採らなかったことによる壮大なミスリードによるものだろう。
 
要するに、全部をローマと国名変更しなかったから理解されなかったわけだ。ローマによる他国の統治という部分を乗り越えなければ理解できなかったのだろう。そして現実に即して考えればそんなことは無駄でしかない。周辺国のローマ化などは、ローマ人に都合のよい不平等による既得権益の消失も受け入れられなかったであろうし、明日からローマを名乗れと言われても反発されるだけだ。
 形式上のことと実質の違いを認識することは、確かに難しかったろうと思う。愛国心の源を、他国を支配しているという点に求めるている人には理解したくない話でもある。しかし、ローマは度々「境界線を無くす」ことによって大きく成長している国家だった。貴族が平民に権利を分け与えたかの様に見えてしまうが、本当は何もかもを飲み込んでいたのだろう。
そこで思わずにはいられない。カエサルの寛容は一体「何」をその源にしていたのだろうか?……と。
 
この文章を綺麗にまとめようと思うのなら、カエサルはもっと理解させる努力をすべきだった。それをしなかったのは「唯一者の驕り」ではなかったかと思う……となるのだが、実情はそうではないように思う。
 
現実には言葉を尽くしてもたぶんダメだったのだと思う。人間は案外、表面しか見ない。故に、政治は形式を重んじる必要があるのだ。カエサルは態度で示すしか無かったのだと思う。でもそれは他者からは「驕り」に見えてしまったのではないか?と思うと残念でもある。
 

*1:部下を育て過ぎないことさえも彼にとっては統治の手法だったかも