雑記

 
●ぐるぐる
今さっき、スマッシュをなんとなく読んでいて、目の上の光のところに渦巻きが書いてあって、「ああ、そこが目の中心だと思ってるんだ?」と思ってクスッと笑ってしまった。たしかにマンガを読んでいて、いわゆるゲシュタルト崩壊って奴をするときがあって、結構、悩む部分だったりするんだよねぇ。
  
●今週のバキ
無音はどこ行った?(笑) でも砂煙の謎は解けたという。
だいたいの元ネタも分かっているので愉快愉快で拍手喝采。深傾倒度運動! ロマンだよなぁ、超スピード。
 
かっはぁ(喀血)
 
 
●肝の部分を削る?
エッチシーンは、蛇足だって話を聞くけどねぇ。普通に作品を作っても売れるラインがないとかで、無理矢理えっちぃシーンを付け加えるとエロ作品として成立する、みたいな話だとかで。えっちぃシーンさえ入れておけば、どれだけ凝った作風でもOK エッチ目的だから、話が重かろうと暗かろうとウザかろうと気にならなくなるものらしい。萌えってのはそうやって使うものだそうな。
 
 
●「考える」ということ
書くのが少々恥ずかしいのだけど、「何を求めて」考えるべきなのか?という話。
 
つまり、「まだ無いもの」「まだ意識されていないもの」を探す戦いなんだってばさ。
今、何かの分野で行き詰まりを感じているとしたら、「まだ無いもの」を見つけていないことに起因しているわけだ。閉塞感は、その何かが登場してくる前触れだと言える。
 
それが登場すると、みんなで「何で気が付かなかったんだ?」と思うようなモノを見つける戦いをしているわけだよ。
 
(まぁ、人数が足りないとズルズルと衰退していくんだろうけど)
 
ほとんどの人はそれを見つける戦いに、結果的に参加しているわけで。意識的、意図的に参加している人もいるだろうし、そんなことを考えないで単に無駄話をしている場合もあるだろうし、仕事でそういうことをしていたりするけど、家ではネットやっている時はそんなことは考えない、みたいな。でもブログを書くってのはちょっとでも目新しいアイデアを盛り込んだりしようとするわけじゃん。そういうのが、結果的にアイデアを生む土壌を作っているわけでしょ。
 
例えば、海洋貿易が答えだ!って場合はそれが勝ちパターンであると気が付く前には、単に危険極まりないだけの方法論だったろうと思われるわけで。
 
電車だの自動車だの飛行機だのだって、それが始まる前は馬鹿げていると思ったんじゃないの?
あの辺はインフラとセットになってたりするし。だから、こういうインフラがあれば、こういうのが作れるのにねー?でもいいわけじゃん。そういうのを見て、「あっ!これ、面白そう!」ってみんなが思ったら、現実になるわけだよ。
 
ウォーリーならぬ、氷山の本体を探せ!
現実っていう氷山の一角だけを見て、そこから氷山の本体を妄想して、可能なら名前をつけて概念化できるといいんだろうけどねぇ。
 
 
●小市民による「正義の怒り」
不満があってもなーんにも言わないでおいて、我慢して我慢して我慢して、もひとつ我慢したら、「怒ってもいいハズ!」みたいな理由になっていない理由でその怒りを正当化して、怒るわけですね。これが小市民的「正義の怒り」。
 
これで「私の不満に気が付かない貴方の鈍感がいけないのよ!」ってやると、ちょっと昔の女性の典型的なヒステリー(のイメージ、テレビ的な)みたいなことになるわけだけど、今でもそこいらで見かけることができる。
 
ぶち切れパワーで一気に文句を言う前に、嫌なら嫌だって言えばいいのに、それは相手が怖くて出来ない。抑圧と解放のカタルシス。やられる方はたまったもんじゃない。結局、デジタルなんだよね。「我慢」と「怒り」しかないという。中間にあるはずの、様々なクッションを全部捨てちゃって、怒って気持ち良くなりたいんでしょ?という。
 
で、自分は頭いいんだぞ、と。 幸せなこって。
 
 
●仮想中心と擬人化対応
ハルヒ超監督システムは、仮想の中心にハルヒ超監督を配置し、周辺として制作スタッフがあたかも超監督に動かされるかのようにして作品を作ったとした場合、作者を越える作者として、メタな中心を頂いたことになるわけだよね。
翻って、この現象ってイデオロギーを中心に据える思考法に似ているように思ったり。
 
すると、マルクス主義とかをルイズ的なツンデレで擬人化して、「階級主義なんだから!」とか言わせとくと幸せになれるってことかもしれないね。
 
エヴァ2ってゲームで庵野AIってのもあったなぁ。