ウットリ感

 
・熱力アップ応援フェアその3
えーっと、前回の「熱血」をまとめると、体力が余らないと意味ねぇよ?って話だったわけですが(……そうか?)ここいらで面倒くさい方向に突入です。普通に熱力アップで記事を書く場合、ウットリ感を煽るのが基本なんですよね。しかしウットリ感とは何か?みたいな話です(たぶん)。
 
 
・苦痛のゲーム
通常の、というか現代の努力の文脈では頑張れば頑張るほど、つらく苦しくなるように出来ているわけだけど、単につらいことだったら誰だってやりたくない。そこで報酬としてウットリ感のような自己陶酔を持ってくることにしている、と。
努力自慢大会というゲームがあって、俺はこんだけ頑張ったぜ?みたいな勝負をする。一番つらい目にあったヤツが優勝。会話としては盛り上がるのだが、この苦痛ゲームならば一番つらい目にあったヤツが一番ウットリ出来るということになっている。(不幸自慢なんかもあるよね)
 
だけどここまで説明してきたように、成長すると難易度は下がる。別の言い方をすると刺激が足りなくなると飽きてくるし、体も慣れてくる。よって努力的な行動によって苦痛そのものは感じにくくなる。習熟という過程では必ず通る道のりなんだけど、そのことによってウットリ感が足りなくなる。結果、報酬が目減りすることになるのだから、内的抵抗感を減少させることを拒む意識が働くようになる。
 
……というか嫌でも逃げることが出来ないのだけどね。世間的には、慣れてくると辛くなくなる → もっと辛いことが出来るはずだ、といった押し付けがましい理屈があるからだ。「私は物凄く辛いことをやっているのです!」みたいな自己主張というか自己防衛が始まると、苦痛ゲームの上位者が現れて「俺はもっと辛いことができるぞ!」「俺に出来るのにお前にできないハズがない」などと説教をかましてくる。何様だろう。何かが違っているハズだとみんな感じている。しかし反論は出来ないままだ。(そうだろう?)そうやって辛ければ勝ち!っていう価値観で生きているわけだ。ごくろうさん。
 
まぁ、学生であれば勉強したくなきゃしないでも済ませられるかもだけど、社会人はやらなきゃならないことは、やらなきゃいけないから。
 
 
・我慢は文化!
この辺は簡単にしか説明できないんだけど(笑)、「今すぐちょっとの報酬を得る」か、「我慢してたくさんの報酬を得る」か?という問題(葛藤)があって、我慢すれば高い報酬が得られるとする反応を人間的・文化的として強化するように人類は努めて来たわけだ。我慢=苦痛であることから、努力すれば、つまり苦痛があればそこには高い報酬があるはずだという論理で繋がってきていて、苦痛が少なくなると、報酬も減ってしまうと考えることになる。結果、内的抵抗、つまりロスを減らすことを恐れるのが「熱血バカ」の作法となる。
 
例えばマンガやアニメを見ること(消費行動)ってのは「今すぐちょっとの報酬を得ること」に近しいわけだな。勉強するのは「我慢してたくさんの報酬を得る」に分類される。
 
極論すると、報酬を得るまでのサイクルが長ければ、それは文化にできる。文化化(カルチャライズ)するには、リテラシーみたいなクッションを挟み込むのが基本だと思う。「マンガを読む→楽しい」が、「マンガを読む→リテラシーを学ぶ→もっと楽しい」という感じ。マンガ・リテラシーに文句はないんだけど、でもリテラシーが無いとマンガを読んでもつまらないゾ!と不安を煽ったり脅したりするのは、正直、かなり品の悪い態度なので気をつけないといけない。でも他人を巻き込む方法が分からない場合って、つい脅しちゃうんだよね(苦笑)
 
 
成果主義か、プロセス重視か?
問題はさらに複雑になっていく。要するに、ウットリすることの何がいけないんだ!?ってことだ。まずウットリには二種類あって、成果主義的ウットリと、自己目的化的ウットリとに分かれる。自己目的化ってのは、手段を目的化するってヤツのことを言う。何かの目的のための努力だったのに、その手段自体を目的化するっていうよくある話だ。アリガチなのがベンチプレス症候群で、スポーツのための筋トレだったのに、ベンチプレス狂いになってしまって大胸筋ラブ、みたいな。つまり、努力したことそのものに対してウットリしてしまうわけだな。これに対して成果主義的ウットリ感は、結果を出したことに対してナルシストするので、自己目的化に対しては厳しい。一緒にすんじゃねぇ!みたいに攻撃する。そうじゃないと成果主義的ウットリを正当化できないからだ。
 
苦痛は努力の証であり、苦痛があれば大きな報酬が得られると刷り込まれていて、内的抵抗が減ってしまうと報酬は小さくなってしまう。しかも結果に対してではなく、努力していることに対してウットリ感という「報酬を感じて」しまうと、精神論や根性論を間違った方法で他人に押し付けるところまで行く。これが「詰み」状態だ。
 
で、ややこしや〜なのが、成果主義ってのは、短期的戦略に分類されるってことにある。逆にプロセス重視というのは「成長を目的にしている」ことから、長期的な戦略に相当する。実は成果主義ってのは「今すぐちょっとの報酬を得る」側の発想になってしまうのだ。 逆に成長を目的にした場合「我慢してたくさんの報酬を得る」ということを通じてプロセス重視の考え方に分類されるようになる。
 
論理の上では「成長(レベルアップ)した結果」として「成果(勝利)を得られる」わけではないからだ。逆に「成長するため」には、必ずしも「成果」は必要ではない、と言えてしまう。成長すれば、内外の抵抗に対処し易くなくから結果は出やすくなる。しかし成果をいつまでも出さない態度では成長なんぞ期待できない。でも成果を求める態度が成長に繋がらないことがしばしばある。言われたことだけやれば良いって態度でフォローは別の人がやってて、でも手柄は自分のものにしていたりとかね。
 
じゃあどっちが正しいの?というと、それは分からない(笑)
全ては目的によって正しいかどうかが判断されるからだ。しかし、これはすぐさま起源への問いに変質してしまう。海王記よろしくスタァボート!とかいいながらメタ方向に切り上がっていくわけ。目的の目的はなにか?ってね。成果を求められている理由は何か?そもそも会社に入ったのは何のためか?人生の目的とは何か?そもそも、なぜ生まれてきたのだろうか? ………… つまり、正しさを追求する場合、生命の目的から演繹的に人間はどうあるべきなのか?という問いに戻らざるを得ないんだ。
 
「知らなかったのか? 神(ラスボス)からは逃げられない。」
 
何を考えてても、神は顔を出してくる。顔を出してこないんならたいして考えてないんだよ。
自己目的化的ウットリを批判する文脈でいるからには、会社に入ることも自己目的化してしまうし、仕事に対する態度も自己目的化してしまうことに気がついてしまう。あらゆる段階の目的が自己目的化しうる。それを忘れて、短期的なサイクルの物事を批判してしまっていては意味がない。……勉強しないでマンガを読むのはどうしてダメなのだろう? もっといえば、オナニーはなぜいけないのか。それは成果主義を自己目的化することと、どの程度に違うことだろう? 神の尺度でものを見れば、オナニーも会社で成果主義するのも対して違いが無い。我々は蟻んこ以下の微生物なんだから。
 
 
神が何を望んでいるのか?ということを推論しながら生きるのか、神に従うのは絶対に嫌だから自由きままに生きてしまうのか?みたいな問題があるし、仮に神が自由きままに生きることを望んでいる場合、自由に生きることは神に従ってしまうことになるけど、どうする?(笑) みたいな話だとかが色々とあるわけでしょ。
……で、神の栄光を取り戻すことを目的とする場合、この瞬間に栄光を取り戻すべきなのか、今は我慢して大きく取り返すべきなのか?みたいな所で快楽主義とかが出てくる。つまり、自己目的化的ウットリ感は神の理屈では間違っていないかもしれないわけだな。神の栄光を取り戻すために、なぜ、次の瞬間まで待つ必要があるんだろう? それは神に背く行為かもしれない、ってね。(これは時間についてメタ視できれば脱出できる)
 
神が何を望んでいるかはわからないけれど、人間として生まれた自分達は、何で喜ぶかがあらかじめ身体的に決定されている。つまり、快感や快楽を感じるような何事かをすることが、神の望みなのではないか?みたいな論理があるわけだな。んでこれの困った点は、殺人だとかレイプみたいな犯罪行為でも快楽を感じてしまいうる、ということにもある。なぜならば、何が犯罪かを決めたのは人間自身だからだ。だからって慌ててその全てを否定する必要はないのだけど。結果的に、人間ってヤツは自分に従って生きるもので、その衝動を抑えられるかどうかはその人の人生次第だ。自己への信頼で飛べ!みたいな部分はどうしてもあるし、基本中の基本を書けば、その人の認識で「絶対にしてはいけないこと」はしないようになっているものだし、この世界は無自覚の善意で成り立っている。それを為政者達は自分の手柄みたいにいいたがるけど、本当はどうかな?
 
 
だけど、こんなことを考える必要があるのだろうか? 自分はしあわせになりたいだけだ!ってのもあるよね。でも駆動系のロスに気が付かないでアクセルを吹かすのが「熱血の態度」だったはずだ。そういう分かり易い盲目は攻撃しても、分かりにくい盲目は「仕方が無い」って諦めるのでいいのだろうか。その結果、根性論や精神論で分からないことに目を瞑って他人を攻撃してきたんだぜ。ともかく、やれ、できなきゃお前のせいだ。適応しろ、できなきゃ死ね。苦しければ現実だ。苦しいことを知ってないヤツは「偽者だ」ってね。たいがいにしとけや。そうやって苦しいことを肯定して何をしているのか。ウットリしているんだよ。ウットリするのが報酬だからだ。ウットリすることで苦痛を和らげて来たからだ。ウットリしないと、厳しい世界に適応できないからだ。他人に対してもそうやってウットリできないと死んじゃうぞ!って脅して従わせて、良い事をしたつもりでいるんだ。
 
…………正直、俺も、嫌いじゃない。けれど、ウットリワールドで下の世代をいじめるつもりは無いんだ。(気が付かないでやっちゃうことは多々あるけど)そういう決意が必要なんだよ。体育会系みたいなイジメの構図は止めなきゃならない。賢い人間から順に止めていくものなんだ。バカだから無知だから止められないんだよ。正しいことを神様が教えてくれないから止められないんだ。
 
みみっちぃ話だが、苦痛で他人を選抜できると勝負する相手が丁度よく減るんだわ。骨のあるのはそうそう居ないからね。でも努力の苦しさを減じることが出来るとなると、自分の耐性が途端に役に立たなくなる。自分が勝負に巻き込まれちゃうんだよね(苦笑) いわゆる、既得権益、乙ってヤツだよ。
 
 
さて、成果主義と成長路線なんだけど、割合の問題で処理するのがベターだと思う。どの辺りの配分が正しいのか、なんてのは自分で考えて欲しい。たぶん成果が多めの方がいいけど、成長が足りないとアップアップするよ。成果を順調に出すには、成長があった方が良いからだ。成長成分を多めにすると結果を出すのをズルズルと引き伸ばしちゃうからズルズルしがちな そこの貴方 にはあまりオススメできないかもね。