攻メニ転ズル

 
・熱力アップ応援フェアその4
そろそろお花畑モード終了で攻めに転じたく思っているんですが、少なくとも2つの概念を提示しなければなりません。「手を伸ばすこと」と「快適感」です。
 
・目的達成のリフレーミング
努力を位置付けるには目的達成をリフレーミングしてやって「願いを叶える」ということを考える必要があります。理由は簡単で、努力では願いは叶わない、厳密には論理的に接続してないということを知るために必要なのです。
 
・オニギリを手に入れる
オニギリを手に入れることを考えることで、努力を位置付けて行きます。要するにコンビニか何処かで150円も出せばオニギリを入手することが出来るわけですが、これで「願いを叶える」というプロセスの大半の機能を説明できます。
これまで説明してきたように、成長すれば難易度が下がるわけで、オニギリを入手するのに努力はほぼ関係ありません。大半の人にとっては150円持っていればいいと思える。ここからがポイントです。
 
「目的を達する」というと「努力しないといけない」気分になり、
「願いを叶える」というと「対価を支払ってはいけない」気分になります。
 
安直な努力家をイメージすると彼らは「努力することが対価なのだ!」という結論に飛び付こうとします。しかしそれではオニギリを入手するために必要だった努力レスが説明できない。オニギリを入手するために必要だったのは150円であって、努力ではありません。コンビニまで歩いていくのが努力だったのか?というと、そんな息をするのも面倒臭いみたいなセリフに意味を見出しても仕方がありません。(家から30分掛かるとかならアレですけど(笑))
そうすると150円を手に入れる時に努力したのだ!とか反論されるでしょう。でもそれもほとんど詭弁です。コンビニでオニギリを買うことで150円分の努力を行使したと思うでしょうか?じゃあ給料なりお小遣いなりを手に入れた時点で努力し終わっていて、金額分の願いが前もって「叶っている」とか? この表現は案外正確かもわかりません。つまり努力が終わっているのにも関わらず「まだ手に入れていない」のは何故でしょう? 問題にしているのは努力は何の役に立つのか?ということだからです。
 
基本的に生きるということは「願い」を叶えることです。飯を食うとかトイレ行くとか、その全てが「願い」なんです。でもいくつかは非常に簡単なので、願うまでもなく叶うと知っていたりする。純粋に願うことによって願いを叶えているわけでは無くて、より多くの事柄は「手を伸ばすこと」によって叶えられているんです。
 
・手をのばし、つかみ取る。
つまり、たとえ努力しても、手を伸ばさなければ、叶わない、のです。
別の言い方をすれば、これは自己目的化的した努力となるでしょう。努力することが目的化し、願いを叶えなくてもいいと思ってしまう。むしろ手段を目的化することで別の何かを叶えているのかもしれない。ベンチプレス症候群では大胸筋が肥大していくという願いを叶えている。そもそもスポーツを始めた目的が男らしさの獲得だっかのかもしれない。だからスポーツで活躍するよりも大胸筋が肥大するほうが目的に適っていた可能性すらある、と。
 
努力しても叶わない(手を伸ばさなければならない)でも努力しなてくも良いわけでもない。例えば小さい子のはじめてのおつかいだったら、オニギリの入手でも大冒険でしょう。努力とは、努力を必要としなくなるための手段であり、願いを叶えるには、願わないでも手に入ると分かる状態になるのが望ましいと言えます。我々はオニギリは簡単に手に入ると「分かって」います。叶うと分かっていることは、叶う。
 
努力をしたら「願いを叶えること」にならない、という風に考えてしまい易いこともあるんですが、それは願いは何故だか無から生まれなければならないという信念・先入観によります。努力が対価に相当すると考えてしまうからですね。この場合は対価を支払うことによって願いが願い事ではなくなることによって叶っている、とすれば辻褄があうことになります。大抵の夢が叶わない遠いままの目標であるように、願いもまた、遠いままにすることが出来るわけです。
 
・願いはそこそこ叶う。
願いは「そこそこ」叶うもんです。人は手が届きそうな位置に来るまで、真剣に願うことが出来ません。もしかして行けるかも?と思うと真剣に願い始めたりします。多くの場合、努力を半分もやったらあっけなく叶ってしまう。それは大体叶うと分かる頃合に起こっている。一部の難易度の高い願いは「人事を尽くして天命を待つ」まで行きますが、それ以外は「このぐらいなら大丈夫だろう」と本音で思っている辺りが、なんとなく叶っている。強がりはNGです。私に向って嘘や強がりを言っても意味などありません。嘘を付く相手などいないのですから。
 
しかしまぁ、願いを叶えるというのは人類の国技みたいなものです。私じゃなくてもっと優秀なエキスパートを探してメンターになってもらうのがいいと思います。
 
 
・新しいインセンティブ
ウットリはダメ!(意訳)みたいな文章を書いたので、別のインセンティブを用意するのが礼儀というか義務というか、なのですが、無いッス(笑) 願いが叶う以上のインセンティブなんてありゃしません。ウットリ感はとても強烈なのでー、無理に止める必要はありません。単にウットリ感を求めると苦痛を欲しがるようになり、報酬を得られるので自己目的化するという循環の中核になっているだけです。
内的抵抗によるロスが減ることで「快適感」が生まれてきます。動き自体が快適になる。動いていたくなるのです。快感とは違って、快適感の方です。快感は脳内麻薬でヒャッハー!状態になるんですが、一時的なもので重複されません。快適感は地味で持続的ですが痛みやストレスで壊れ易いウブなシャイボーイです。これは快感と競合しません。よって快適感をベースに快感を感じると最強状態で「チョーキモチイイ!」とか言いたくなるみたいです。
 
努力感や内的抵抗の高い行為は辛くてシンドくなっていて、ロスの少ないハイパフォーマンスは快適でキモチイイという徴候として現れます。
 
・力感と出力
純化すると、力感と出力が別物であることに起因します。「ググッ」とかっていう擬音で表現されるのが「力感」で、いわゆる力を込めた「音」ですよね。力感があると、力を出した(=出力)と思うわけですが、力感と出力は別物です。目的的な出力と、自己満足的な力感の差です。出力は滑らかに連続・連携し内的なロスが小さい。故に出力が大きくなる。力感はそれ自体が内的な抵抗を生み出し、運動を自ら妨げるものです。これは「主観こそを問題としている」のです。大抵の場合、人間はその出力を値として確認していません。内観を通して力感の具合で判断します。結果、がんばった感が大きいと出力も大きいのではないか?と推論してしまうのです。
 
 
・具体論と抽象論
「具体論=ノータリンのせっかち」vs「抽象論=頭でっかちのグズ」ってイメージですかね。いや、性格傾向としてあっているかどうかなんて知りませんが、組み合わせて使う意味に関して触れておきたいと思います。
本当に問題になるのは「同じ行動を採っているのにレベル差がつくこと」にあります。具体論では行動そのものを別のものに変えようとします。抽象論では行動のやり方自体を高めようとします。
 
具体論は多くの答えを与えてくれます。具体的な指示をこそ人々は求めていて、自分の頭で考えるのを避ける傾向を作ってしまうこと、他ジャンルと共通するアイデアを抽出するのが難しい、といったことがありますね。
 
抽象論の最悪の使い方は根性論などの精神主義ですが、本当のメリットは運用性そのものにあります。大体の流れとしてはまず誰かが発見して名前が付くことによって全体から差異化され、概念や要素となります。その要素自体は具体的なものです。例えば筋肉は各部位にそれぞれ名前がついていて、大抵の人には聞いた事も無い状態になっています。問題なのは、具体的なそのものを運用・制御する方式そのものです。名前がついて具体化したところで、それを使う方法は従来式になってしまうのです。何か新しい情報を仕入れたとする。その情報を使う方法は、その情報にはセットされていない。本などはそのもののアイデアと一緒に運用方法の説明があるのはこのためです。運用方法を提示されて始めて、そのアイデアを活かすことが出来るようになるのです。そして具体論の具体的な何かを動かすためには抽象性を「使う」しかありません。熱力アップだなんて根性論みたいなものを組み立て直す作業をしているんですが、抽象性のオンパレードです。やんなっちゃうよ〜。
 
 
・Welcome!外的抵抗
「手を伸ばすこと」と「快適感」の2要素でもって、始めて攻めに転ずることが出来るようになります。すると外的抵抗との嬉しい出会いが待っています。いわゆる「敵」や「障害」ですね(笑) でもまぁ「最悪の敵」からすればなんてことありませんから。
 
外的抵抗は、もたもたしていたら叩き潰されるか、一歩も動けなくなるか、ですね。成長は気分の良いことですけど、外的抵抗は凄まじいものがあります。外的抵抗との戦いは世の中にいくらでも情報があるものなので、もう少し成長に関して触れつつ、段々と外側の世界に向っていきたいと思います。(やる気があれば)