2014/04/01 文言修正
用語集というか、概念集というべきか。いわゆる体系化です。
<注意>
辞書的正しさを追求してませんので、そのつもりで!
[用語集] 認識装置(2)
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20070817
○視点が認識を創る
自分の視点が自分の認識を創っている。
●「人間は、自分が見たいと思う現実しか見ない」(ユリウス・カエサル)
視点が認識を創る、の応用。人間は自分に都合のいい現実を信じようとする……の意味で特に使われる。現実がいつも自分の有利に働くわけではない。けれども、常に不利に働くものでもない。我々は、自分に有利に働く現実を見つけるように心掛けるべきでもある。一石二鳥・三鳥を求めること。しかし、都合良く解釈しないこと。きっと、上手くいくと知っておくこと。
○ピンチはチャンス
機会は危機的状況にこそ現れる。それは視点の問題でもある。ピンチ的な状況で慌てるとチャンスを求めるどころではなくなってしまう。諦めない強い気持ちがチャンスを引き寄せる。耳にタコが出来るまで繰り返そう。タコが出来てもそこから更に反復するべし。「ピンチはチャンス」。
●メタ化<異化><俯瞰><覚醒?>
視線を一段高いところに置き、客観的に状況を見通すようにして使う。メタ化することで分析する情報を階層構造化し、一段上にのぼる働きをする。とりあえずメタ化しとけ!という風潮が支配的。
●感情移入<同化><投影><没頭?>
人の身になって考えること。ここではメタ化の対概念として。
いわゆるガラスの仮面方式で、役柄に成り切る練習方法のように、対象に成り切ることで深く情報を得るようにすることが可能になる。分析する情報を階層構造化し、一段下におりていく働きをする。
●階層構造<層(レイヤー)>
地層やら階層、建物のフロアのような積み重なりをもった構造のこと。
俯瞰視点等によって得られる全体像によって、層は層として個別の位置付けを得る。別の層に対する自覚的なアクセスを可能にする考え方。
○スタニスラフスキーの「没頭」と、ブレヒトの「異化」
演劇的用語。ここでは簡単な理解として。
スタニスラフスキー的な没頭は、演劇の役に成り切るようにするもの。役の人格、正確には意識システムを体現することに重きを置いている。
ブレヒトの異化は「なんちゃって〜」と言うようなものとされている。例えば、古畑任三郎がラストの謎解き前に突然 視聴者に語りかける。そこで観客は没頭を解かれ、田村正和が古畑任三郎を演じていたことを思い出す(つまりメタ化する) これは間接的に「それまで自分が没頭していたこと」を知る契機となる。没頭(同化)している時にはそのことに気が付きにくい。
例:ガラスの仮面
ライバルの姫川亜弓が主人公マヤの演技を見ながら「凄い!」と呟くシーンがあったとする。この時、凄いかどうかを客観的に判断しているのだから「凄い!」と言いながら姫川亜弓はブレヒト的な異化状態となって没頭が解かれている。(この際亜弓は「普段のマヤ」と「演技中のマヤ」の比較をしている → キャラの多重性が構造化する) この「凄い!」という亜弓の評価は、読者に対してマヤは凄いのだ!と方向付けをする機能があり、“亜弓の異化によって”読者の没頭感を促進させる効果が考えられる(読者自身の客観性を仮託している可能性もある)また一般客による評価を、亜弓が再評価するなどの多重・重層的な構造が魅力の一端として考えられる。
また劇中における観客の沈黙にも注意したい。
●評価方法論
とある能力の半分は、評価方法論によって作られている。「天才とは何か?」や「本当の頭の良さとは何か?」と論ずる時、その判断基準(評価方法論)こそがその能力を決める働きをする。判断基準によって人の行動は道しるべを得る。宇宙にはものさしが必要。評価方法論の持つ力は人を無上に引き上げもするし盲目にもする。
○価値
「●●にとって価値のあるものとは、苦労して獲得したものだけ」
労働組合だとか。何か正しいものを与えたければ、遠回しにアイデアを吹き込んで相手側から提案させ、散々嫌がってみせてからしぶしぶ受け入れなければならない様な場合もある。
●記号化
ある情報から「要素」「共通因子」を抜き出して「記号」として扱う処理方法。「ツンデレ」「クールビューティ」等。ここではソシュールなどの専門的な領域には踏みこまない。学問的な記号論とは別物であるという理解だけしておきたい。
○制御・運用
実は記号化した途端にその制御・運用をどうするか?が本質的な問題となる。その制御・運用はセンスや才能の問題としてごく曖昧に処理されがち。
例1:火事場のバカぢから
緊急時に、筋肉を普段以上の制御・運用力で扱うことを表す言葉。決して筋肉がパワーアップしていない点に注意。
筋肉(記号的要素)×火事場の〜(制御・運用の特殊さ)=バカぢから
例2:宝の持ち腐れ
強さ議論などでは一元論(キャラ性能と戦闘センスなどがごちゃまぜ)で考えがち。キャラ性能としてはカミーユやジュドーが秀でているが、戦闘センスではアムロやシーブックが優れている。最強は対G性能の問題が大きい。ちなみにコーディネイターも人類の上限の範囲での強化に限定される(じゃなきゃブラスレイターみたいな形状になる)ため、天然の天才であってもコーディネイターと同レベルの能力を保持しえる。(つーかコーディネイターによる天才の模倣だし)よってニュータイプで、高G環境下に強く、戦闘センスに秀でるキャラが有利。シーブック最強説
●基本3要素
ストラクチャー・クオリティ・モビリティを意識システムにおける基本3要素とみなす。
○構造(ストラクチャー)
記号の制御・運用方法の一つ。さまざまな要素が相互に関連し合って作り上げている総体や各要素の相互関係。家でいう屋台骨・大黒柱などのこと。物語の場合、起承転結だったり、対立軸だったり。「強度」なんかは特に便利な概念。
○質感(クオリティ)
記号の制御・運用方法の一つ。質、性質、特質などの、色や味(中味)に近い概念。
例:流れるような〜、暖かい〜、冷たい〜、静かな〜、鋭い〜、柔らかい〜、水のような〜、ズッシリと重い〜、ツルツルと滑る〜、ガッシリと確かな〜、神秘的〜、など。
○運動性(モビリティ)
記号の制御・運用方法の一つ。ダイナミック(力動的)、スタティック(静動的)、リズミカル(律動的)、スピーディ、といった運動性全般を捉える概念。時間変化を内包する。(ベクトルは運動性を方向・強さとして構造的に示したもの)
●物語の構造分析
物語の構造分析の場合には起承転結以外にも幾つかの分析・分類方法がある。ここでは一例として「越境・危機・成長・勝利」を示す。
越境:環境が変化する。物語が始まる。
危機:敵対者や障害に叩きのめされる。ピンチやどん底を経験する。
成長:協力者が現れたりすることで不足を補う。成長する。
勝利:敵対者(障害)を乗り越えて勝利する。報酬を得る。
○物語構造の対比
千の顔を持つ英雄 | ヒーローズジャーニー | プロップの31の機能 |
---|---|---|
日常の世界 | 不在 | |
冒険への召命 | 冒険への誘い | 禁止 |
召命の辞退 | 冒険への拒絶 | 違反 |
超自然的なるものの援助 | 賢者との出会い | 情報の要求 |
第一関門突破 | 情報入手 | |
最初の境界の越境 | 策略 | |
鯨の体内 | 幇助 | |
加害or欠如 | ||
派遣 | ||
任務の受諾 | ||
出発 | ||
先立つ働きかけ | ||
反応 | ||
獲得 | ||
試練への道 | 仲間、敵対者/テスト | 空間移動 |
女神との遭遇 | 最も危険な場所への接近 | 闘争 |
誘惑者としての女性 | 標付け | |
父親との一体化 | 複雑化 | 勝利 |
神格化 | 最大の試練 | |
終局の報酬 | 報酬 | 加害or欠如の回復 |
帰還の拒絶 | 帰路 | 帰路 |
呪的逃走 | 追跡 | |
外界からの救出 | 脱出 | |
帰路境界の越境 | 気づかれざる帰還 | |
二つの世界の導師 | 再生 | 偽りの主張 |
生きる自由 | 帰還 | 難題 |
解決 | ||
認知 | ||
露見 | ||
変身 | ||
処罰 | ||
結婚ないし即位 |
・クリストファーホグラー著『神話世界の法則 ライターズ・ジャーニー 夢を語る技術5』から(大塚英志のストーリーメーカーから再引用)
●リアル〜荒唐無稽
この辺りに言葉を配置しているのを見たことがないので、まぁ適当に。
リアル ← → 荒唐無稽
↑ ↑
↓ ↓
リアリティ←→御都合主義
○リアル<写実的>
より現実的であること。もしくは非現実的なことを許さないような、写実主義的態度のこと。
ただし物語に関しては「不幸で悲惨で悲劇的であればリアル」だと考える傾向が読者側にあるので注意が必要。ハッピーは全てファンタジー?……まぁ、そういうこともあるかもしれないが、頭は悪く見えるだろうね。
○リアリティ
現実らしくあること。とりあえず納得できる程度の整合性があれば、リアリティがあると判断される。
創作物はリアルである必要はなく、リアリティがあればいいなどと言われる(セガの鈴木裕さんとか)リアルを感じさせるための「ウソの巧みさ」もリアリティを構成する重要な要素。
→調べてみると、
リアリティとはそれが足りない状態から必要なものを加えていくことで「リアリティを増す」という発想ではなく、より全体的な現象の中から、不要な要素を注意深く取り除くことによって「(嘘の)形を整える」もののようだ。木彫りや石像のように、素材の中から「姿を取り出すこと」に近い概念。
○御都合主義<予定調和><ドラマチック>
異常なタイミングの良さ(もしくは間の悪さ)などの展開で、作者による操作や意図がみえみえで整合性を失っているように感じる状況を表す概念。「劇的な展開」には欠かすことが出来ない要素のハズなのだが、御都合主義=悪とみなす残念な風潮がある。せめて必要悪と思っておきたいところ。
○荒唐無稽
リアルの反対。非現実的・めちゃくちゃなもの。たまにファンタジーのこと。
魔法や超能力、超科学などの設定や、主人公が理不尽にモテまくったりするファンタジー展開などを荒唐無稽と言うことがある。因果にあまりこだわらない自由な作風、などなど。
●葛藤 <対立項(コンフリクト)>
物語の重要要素。彼女を取るか?仕事を取るか?といった「対立的な状況」が生む葛藤など。また別の例としては「それが出来ないから失敗する」もしくは逆に「それができれば勝利する」といった内容の場合もある。
例:主人公はチキン(臆病者)と言われるとアタマにキて喧嘩してしまい、それが原因で状況は悪い方向へ悪い方向へいってしまう。主人公にとってはチキンと言われた時にグッと堪えて我慢するのは「世界で一番難しいこと」(=ラスボス)だったりする。そして物語終盤の一番大事なところで「チキン野郎」と言われた主人公は……(バック・トゥ・ザ・フューチャー)
○問題解決
AかBか?という問題に対応する主人公達の選択するパターンの話。
・不可能を突破する
無理な難題を与えられ、やり遂げるか諦めるか?という場合に、不可能なのにやり遂げてしまうパターン。
・第三の答え「C」の発見
別項目にあるので詳細は省略。
目的のために目標を変更したり、戦うのではなく交渉する様な手段の変更などのケースも多い。
・全体最適への移行
ショートスパンな「部分的な成功」を捨て、よりロングスパンな「全体的な成功」を目指すパターン。経済学的に言えば、短期的な利益を諦め、長期的な利益を選択すること。例えば目の前の美少女とのムフフでエッチな行為を我慢し、相手の望みを叶える旅に出る、など。
●「非科学的だ!」
簡単にこの台詞を叫ぶ奴は科学的態度の何たるかを分かってないと思われ。
(とりあえず言うのを止めろ。話はそれからだ。)
●無自覚
当サイトで多用する単語の一つ。
いわゆる潜在意識とかの意味で言葉を使う場合に、「無意識」と言っていると無意識領域からは「(もう)脱しえない」というニュアンスが含まれてしまう。単に「(まだ)自覚できていないだけ」というニュアンスを出すために、無自覚という単語を使うようにしている。自覚できる領域を増やすための装置。
●ソウル−エンタメ 問題
ソウル的な作品に高い価値があると判断され、エンタメ的な作品を軽んじる傾向が生まれることが多々ある。
・ソウル系 <面白い>
なんとなく成長すると感じられるもの、勉強になると感じるもの、作品
・エンタメ系 <楽しい>
楽しいと感じる作風、気分が高揚するようなもの、作品
○グルメのおにぎり問題
ソウル−エンタメ問題をグルメに置き換える。グルメであることを自負すると、人は「おにぎり」や「パン」のような入手し易いものを軽んじる傾向が生まれる。値段が高く、味の濃いものが一番美味しいのだろうか? これは評価方法論や趣味の問題、恋愛とも関係する話題であろう。
●恋 vs 愛 問題
恋を<ドキドキ感>
愛を<気楽さ・満足感(居心地の良さ)>
……といった風に見立て、二項対立の定番シチュエーションにしたもの
恋は強迫観念的に相手を求めることから「必要性」と結びつき易く、落とし文句も「君が必要なんだ(+抱きしめ etc.)」になる傾向が強い。同様のシチュエーションに自分探しの一種としての「居場所探し」がある。誰かに必要とされたい欲求を突いたドラマが増殖し、途中のプロセスを疎かにしてでも「君が必要なんだ」とかいえば解決となるような惨状が展開されるようになった。(解決策の記号化)
一方で愛による関係を肯定するのも容易ではない。恋が短期的にしろ強い情動をもたらすことから、敢えて恋に抵抗しないケースも多く、失恋後のフォロー(救い)として愛を利用しがちになる。
長期的な利益を示唆するものや、自己愛の延長として「自分らしくいられる」といった別種の価値への取り組みが見られる。
○愛の反対語は?
それぞれ「憎悪」「無関心」「不安」などという風に考えるケースがある。
ギャルゲでヒロイン3人にこの要素をそれぞれ付与するとか……たぶん存在するんじゃないかと(笑)
○言い換えから考える愛の全体性
「愛とは親切心である」→「愛=親切」といった言い換えは適していない。親切さは愛の一部だが、愛は親切さではない。この場合、「愛>親切」や「愛>優しさ」と考える方が論理的に近しいと思われる。反対語が複数に跨ることも「愛がより全体的であること」を示している。
●憧れ vs 依存
恋愛のドロドロを描く時の主戦場であり、歪み。幾つかの少女マンガではこちらの方がより本質に近接しているようだ。
●犠牲の効能
犠牲を払うことによって行動が固定されることがある。払った犠牲を無駄にしないために、例え間違った選択をしている自覚があったとしても、別の行動を選べなくなることがある。尻軽な女の子が逃げられなくなったり。秘密を守るために嘘を吐き続ける、など。
●結晶化
純粋化や完成化のこと。その輝きは物語(運命)を完成させたいと願う美しさを発しているのかもしれない。
●不必要性
しがみ付かない事。相手を自由にすること。相手を要らない(拒否)と考えることではない。これは相手が飛んでいってしまうことを恐れずに手を放すことであり、自分もその場に居続けるという選択。自由を与え合うという高度な愛情の表現。
同時に相手の自立を促す態度でもあるけれど、相手が束縛される関係を望む場合もあるので注意が必要。必ずしも正しいことが正しいとはならない。正しさは目的や相手(の状態)によって変化するものでしかない。
相手を解放することは、自分を解放すること。
○約束の不要な関係
約束が必要な関係 → 不必要な関係 へと変化させることで信じる気持ちの「大きさの違い」を表現することが出来る。言葉が必要な関係 → 言葉が不要な関係 も同様のロジックだが、言葉の不要さとそれに甘えることとは別の問題でもある。
時価会計の導入以前、資産は(どれだけ実際の価値が下がっていても清算しないでいれば)帳簿上の値段を「取得時の価値」のままにしておくことができた。しかし清算して形にしようとすると評価損と直面してしまう。その様な仕組みが背景にあるため、言葉などで形にすることを恐れる意識が働くことがある。
●英雄の不必要性 問題
物語の最後でヒーローが居なくなる様式。去っていったり、死んだり、帰って来なかったりする。
オプションとしては、恋人や家族、親友など「何もかも失っていくこと」も珍しくない。
英雄への依存度が高まることで全体の問題処理能力の低下や、英雄本人の危険度が極めて高いなどの問題を回避する手段となる。結果、物語が語るべきことを失うのに合わせて去っていく。
英雄はシアワセになれないのだろうか? シアワセになってはいけないのだろうか?
●日常のルールと非日常のルール 問題
自由に行動して見える悪役に対し、正義の味方が自縄自縛であるのは何故か。その原因は従っているルール(秩序)の違いに求められる。日常を維持するために作られたルールを守っているだけでは、非日常に適したルールで動く悪役に対応できない。しかし、日常のルールを踏み越えて非日常のルールで行動すれば(法的・精神的に)ペナルティが科せられる。ここに葛藤が生まれる。
非日常のルールを設定してしまうと悪用や多用が避けられない。よって権力者による非日常ルールの使用許可といった形になりやすい(ロボットの出撃許可など)
●バトルのインフレーション<インフレ>
次々に最強の敵が現れる状況と、それに合わせて主人公も飛躍的に強くなる現象のこと。鳥山明のドラゴンボールなど。概念的にはA空間を含むB空間の最強が出てくるイメージ。(グラップラー牙刃やネギま!の場合には最強キャラが更新されていないので厳密にはインフレーションは起きていない)
例:千葉最強→関東最強→日本最強→世界最強→太陽系最強→銀河最強→宇宙最強→歴史上最強……
(それぞれに下のレイヤーのボスを楽に倒せる最強の敵が現れる)
垂直思考的な構造をしており、この形式の場合、ボスとのバトルが必然的に1対1になり易い。もっと水平思考(並列)的な構造をしている場合はインフレに成りにくく、必然的に多対多の集団バトルが発生し易くなる(ワンピースなど)
○おっぱいのインフレーション
女性キャラの美しさを「巨乳の記号性」に求めると、「より大きなバストを持つものが美しい」とするインフレーションを起こす場合がある。つまりこれは作者・絵師がおっぱいの暗黒面に堕ちてしまったということを意味している。いくら巨乳に需要があるとは言っても、情けない限りである。
バストの美しさは、少なくとも、ストラクチャー、クオリティ、モビリティ、バランス、独自性の5点で形成される。サイズの大小(構造)は勿論のこと、形状・質感(質性)にも最大限の尊重が必要である。それから「ゆれ」「たわみ」をふくめた姿勢の変化等による「運動性」に関しても論を待たない。その上で身長・等身・体重・(筋肉質などの)体質だけではなく肩から続く「二の腕」との関係において「バランス」は決定されるべきである。それでいて「小さいのに大きい」「着痩せ(隠れ巨乳)」といったギャップを含めたキャラクターごとの「独自性」が考慮されていなければならない。(「平均的」もしくは「普通」などという惰弱な概念は存在しない!)これらの最低条件をクリアした上で、更に「自らのバストに対する意見」+「他人のバストに対する意見」がキャラクター自身の性格に反映されているのが「当たり前」の状態なのである。これ以外にもブラジャーの付け方でこんもりと山を作ったり、なるべくぺったりさせたり、パッドで増量したり美容整形してたりがあった上で、やっとこさブラのデザインに対するこだわりなどの要素が出てくるようになる。暗黒面に堕ちている暇などあるものか。
…………まさかとは思うが、この程度で熱く語っているように感じてはいまいな? そうであればそれは間違いなく貴君の勉強不足である。この程度は初心者向けの初歩の話でしかない。考えてもみよ、デザインの話しかしてないじゃないか!
●デジタルの悲しみ
ワープの飯野賢治が無茶言ったのが始まり。デジタル機器の発達によって新しい悲劇が登場するのではないか?といった内容。例えば、監視カメラのような一方向的なもので遠くにいる恋人の姿を確認した時に、その後ろから来た敵に彼女が気付いていないような状況で、自分が助けに行くのは間に合わないし、助言することすら出来ず、ただ愛する人が殺されるのを見ているしかできない、といった時に感じるであろう新しい種類の悲しみのことと言われる。
しかし例えば広い野原で、再会の喜びで遠くから駆けてくる恋人がいたとして、彼女に気付かれずに後ろから矢を射掛ける敵がいても似たような状況になりそうなものではあるのだが ……まぁ、心意気だけは買いたい。
●「私は貴方を食べません」
食物連鎖上の異種族間の友情や愛情の表現に使われる問題や葛藤のひとつ。狼と羊の関係、吸血鬼と人間の関係など。
例えば、キスは口を近付けることで「食べられるかもしれない恐怖」を相手に与えるが、しかし食べないということを証明する手段となる。キスは一度では何かを証明することにはならない。何度もキスをすることで「食べられる危険は限りなく小さい」と相手に証明し続けることで安心を与えることができる(かもしれない)。これは人間同士よりもむしろ言葉や文化の通じない小動物との間にコミュニケーションの一形態として成立しやすい。
●オーバー・ザ・レインボウ
虹の彼方へ行けば素晴らしい何かがあるんだ的な話。歌詞を調べると「幸せをもたらす青い鳥」もが虹の彼方に飛んでいることになっている。メーテルリンクの『青い鳥』の結末は(ネタバレになってしまうが)戻ってみると家の中に青い鳥が居たことになっていて、故に「幸せを他所へ探しに行くべきか」or「今の場所で頑張るべきか?」という対立項となる。……自分が家の中に居たら、青い鳥は家の中に入ってこられない、のかも。
●悔恨に咲く花
過去の悔しさ、情けなさ、不甲斐なさを糧に咲かせる大輪の花。真っ当な復讐の形のひとつで「今度こそ!」と思う気持ちなど。
●予言者の悲しみ
ひとたび「約束の地」に辿り着き、予言者の言葉が現実のものとなれば、民衆は心を改め、清められて生まれ変わらなければならない。だが、彼らが変わることはない。予言者が背を向けた途端、神ではなく偶像を拝み始める。(中略)事の成された後の予言者は、力を、ビジョンを失う。(ドラッカーによる予言者のパラドックス。予言の成就は予言者から力を奪う。)
●「当たり障りの無い言葉」と「刺激的な言葉」
・「当たり障りの無い言葉」は実際のところ退屈で人を鈍化させるものだが、優しい言葉として響くこともある。相手が自分に都合よく解釈する場合もあるし、変化しなくてもよい→ありのままの貴方を肯定します、の意味になることも。
しかし相手を無難に持ち上げておくのは必要なことだし、自分の身を護る結果にもなる正しい配慮でもあるだろう。
・「刺激的な言葉」は変化を求めるため攻撃的で嫌われるが、面白い場合も多い。大幅な変化を要求する言葉は相手には負担でしかない。しかし少々の刺激は退屈を打ち破るために必要だ。ほんのちょっとの刺激的は相手との会話をよろこびに変える力がある。
しかし毒舌が面白いものだと勘違いする馬鹿も多い。相手をけなす事で自分の方が上位者だと認めさせようとする中味の無い口達者がいかにも幅を利かせてしまうのも事実だろう。そういう人間がモテるといった評価系が問題を複雑にしているのだが、これへの対処法なんかはないよ。馬鹿につける薬はないように、馬鹿を評価する人間に付けるクスリもまたない。そういう自分の人生に必要なドラマを演じている人達になんらかの理性的な行動を採る能力はないと思った方が近しい。無意識に選ぶ運命とかだから、たぶん避けることを選ばない。それぞれの人生の鮮やかさにいちゃもん付ける権利も暇も我々には無い。
●正義と悪
ごく基本的な段階の、善悪の理解について
○勧善懲悪 <善悪の絶対化>
一方が正義、一方が悪という構図で固定されていて、しかも正義が勝って終わる形式。シンプルで構造的にも強靭。良い意味で「子供向けアニメ」には使い易いとか。
勧善懲悪は情操教育(?)だとかの年齢的に様々な発達段階の子供に対してプラスの作用があるのではないかと言われる。善悪を相対化させてしまうと無闇に難しくなったり、答えを出さないことそのものが負担になる可能性などもある。
ちなみに、「子供向け=いいかげんで、低配慮なもの」っていう思い込みは勘違い。絵本なども全て同じで「子供向け作品=高配慮」でなければならない。(はにほ!*1が「真のヒーロー」を出現させる。自分=世界の望みを叶え、世界を再び孤独から救う。
○天才
主に知的・精神活動的な意味で巨大な実力や才能を持つ人間のこと。真の天才とは「活躍の場」がある状態のことで、準天才は「活躍の場」が無い者のことをいう。死後に認められる天才が多いのもこれら「場」の問題であると考えられる。
○竜
主に武力的な意味で巨大な実力を持つ者のことで、大きな意味で「目的を持たない」のが特徴。目的を持つと英雄や覇王、または魔王などと呼ばれることになる。
○最も人間らしい人間
人と人の間を取り持ち、結びつけ、仲良くし、集団を形成し、時には一つの目的に走らせたりする最悪の凶器。しかもカリスマ性のような分かり易い武器は使わない。笑顔や優しさなどの姑息な道具だけで全てを台無しにする魔性の存在。決戦存在とは異なりマクロ的に無軌道のため衆愚の温床。ただの意思無き/力無き「力」。(ちょこっと反転するとダークナイトのジョーカー)
○ホワイトナイト/ダークナイト
最も人間らしくない(高貴な)在り方を求めるが故の騎士。理念的正義と行動(結果)的正義とでどちらを優先するかによって色が変化する。ホワイトナイトは理念的正義の人物性を持ち、正義と悪を明確に区分しようとする。そして結果が伴わない時に反転し易い。ダークナイトは行動で正義を体現する者のことを指し、結果を重視するあまり理念を打ち捨ててしまうことで悪者と何も変わらない姿を周囲にさらけ出してしまう。
●「子供の魔法」と「呪術的喪失」
「子供の魔法」とは、魔法的な力を有している子供の黄金時代のこと。
「呪術的喪失」とは、魔女や巫女が処女性を失うことで魔法の力や神聖な力を失うこと。
子供の魔法は特に妖怪的なモノが見えたりする事によってその所有が表現されている。「純真な心」+「魔法の力」で、「妖怪的なモノが見えている」と考えられる。たとえ純真な心があっても魔法の力がなければ、結果は特別なものにならないはずだ。
この魔法は、子供時代の万能感にもヒントを見出すことが出来る。だが現実には子供達は万能でもなんでもなく、常に無力な存在でしかない。実に子供の万能感とは「幸せになる力」のことを意味する。それは黄金時代をもたらす「黄金の精神」であり、それらは喪われるが故に「魔法的な力」であると接続される。大きくなって振り返った時に「輝いていた子供時代」のような形で認識され、あたかも万能であったかのように錯覚させる。
児童向け作品では様々な出来事が起こる。それらに負けず、受け入れて、明るく前へと歩んで行く子供達の姿を、つまり子供の持つ「無闇に幸せになってしまうパワー」を描こうとする。これが結果的に「子供時代の魔法」を描写することになっているのだろう。
例:「涼宮ハルヒの憂鬱」では、ハルヒが小学生の時に野球を見に行ったことを切っ掛けに「呪術的喪失」を経験する。しかしハルヒは魔法の力自体は失ってはいない*2、にも関わらず、孤独にイライラし続けることになる。この時に失った“何か”が「黄金時代」的な概念の、「無闇に幸せになるパワー」なのだろう。
「青春」とやらは第二の黄金時代と言えるものかもしれない。そして、それは恋愛(呪術的喪失の原因)的な情熱を抜きに語ることは出来ないものだと思われる。
●奇跡
「分かり合うこと」もしくはその前段階の「分かりたいと願うこと」の事、かもしれない。
●こころの変化と触媒の働き
こころが変わる事は視点によって弱さにも強さにも成り得る。
例えば仇討ちを目的とした時、断念することは心の弱さのあらわれになる。と同時に、復讐しないという決意にも心の強さが必要になるだろう。
こころ が変化する際、「触媒になるものは何か?」が物語ではしばしば問題となる。葛藤が深いほど逆に細やかな要因で天秤が傾くことが考えられる。(小道具であったり、背景的なものなど)
●信用と信頼の違い
ニュアンスの違い。正直そんなのどっちでも良くなるんだけど、若いと結構こだわるのよね(私も例外に非ず)で、調べても複数パターンで認識されているので統一見解を求めるのは危険かもしれない。強いて言うならわたしゃ信用>信頼派になるけど、ブログ上では区別して使ってない。
信頼>信用 では、頼れる分だけ余計に信じている、となる
信用>信頼 だと、行動まで任せられる(信用)か、気持ちだけ(信頼)か
他者に対しては信用、他人から自分に対しては信頼と使うパターンも。
能力に対して信用、人柄に対して信頼 だとすれば、使う相手や状況によって色合いが変わってくるだろう。言葉遊びは色気かもねー。
●自在思考(←→自己中思考)
思考の中心を移動させる思考力。能力のこと。
上司A、部下にB君とCさんが居たとして、Aは仕事の改善をしようと考えました。「そうだ、Cさんがもう少しやり易いようにしてあげよう」その改善をB君に依頼しておきます。ところがB君は自己中なので、「Cさんがやり易い」ってことが分かりません。自分の依頼された改善作業がやりにくくてふてくされてしまいました。B君「ちぇっ、俺がやりやすいようにしろよ」
……これが自己中による弊害。自己中は思考が固定化され、他人の立場に立って考えることができない症状(もしくは精神病) 何かの改善を行う場合、多くのケースで「他者のためになるように」と考えることから、思考の中心を自由自在に移動させることが必要になる。(当たり前の能力)
●身体性
主知主義に対する反省で「頭でっかちはダメよん」と言って「身体性の回復」が謳われた時期があったが、ノド元過ぎればなんとやら、現実には何にも回復していないっていう。このため自称知識人は微妙にコンプレックスがある分野。唯脳論の科学的な焼き直し(脳科学)なんかが流行るのはメタとかの形而上的な認識が難しいという証左なのかもねぇ。「実感をともなった知識」「体験性」「快適感」がお便利な辺り。
○実感をともなった知識
皮膚感覚などと言われるもので、反復によって得られるセンスの一種。意識の拡大が隠れテーマなので「道具をカラダの一部にする」みたいなエピソードと親和する。もう少し知的な分野では「慣れ」だと勘違いされてしまいがちだが、慣れによって「意識が細部まで届く」「問題に対する意識が濃くなる(→明敏になる)」辺りが本質で、やはり「身体の延長」と言ってることは同じ。
○体験性
知識と体験の情報的な違いはそのまま身体性に差がある。主観で言語的に認識できる要素数と比較して、身体による感受・感得で得ている何かは数倍〜数百倍、場合によっては数万倍の差があったりする。想像力を補うには体験性を使うのがベスト。自分の想像力が大したことが無いってのを心に留めておくのは結構大事なことだと思われ。
○快適感
身体性をダイレクトに回復させるための概念が快適感である。身体性の劣化・崩壊は、運動不足による身体の硬直化に端を発する。分かりやすく言うと肩こりとか腰痛みたいな「不快感」が敵なわけだ。ハイパフォーマンスの前提にあるのが「快適な身体」(=柔らかい身体)となる。
快感(脳内麻薬やらの動物的快楽)と、快適感(いのちのよろこび)を区別したい。我々の細胞は生きていて意識もある(ただし非言語的)。我々の主体的意識が細胞による総体的な意識を代表できているかどうかは、かなりぁゃιぃ。
「主知主義」やら「動物的快楽を否定」なんかに偏ると心身二元論の固定になりやすい。「心技体」などの(ごくシンプルな)統合的運用も考慮した方がいいと思われ。
●イヤボーン → 心身一元論について
「サルでも描けるまんが教室」の用語。普通の少年少女が危機に陥った際、「いやーっ!!」と叫んだ時に秘められた超能力が発揮され、敵が「ボーン!!」と撃破される展開のこと。→潜在能力の活性化など
これは心身一元論的な考え方を背景としている現象。心身一元論とは、肉体と精神を明確に区別しない考え方。「肉体」「精神」を区別して考えるようになったのは一般にデカルト先生の責任と言われている(心身二元論)のだが、心身二元論であればイヤボーンは成立しない。単に「パワー」とそれを使う「心」とのバランスがとれていない状態で安定する。
イヤボーンとは「能力の抑圧」が原因。「能力」と「精神」の程度が一致し、高度な能力を持っていれば高度な精神を持つことになる。このため「普通の精神」を持っている女の子は「高度な能力」を所持することが出来ない。 彼女がフツウでいるためには、能力の方を抑圧(=封じて)しなければならなくてかなりの無理をすることになる。それが何かの切っ掛け(命の危険など)で解放されるのがイヤボーン現象。
潜在能力が解放された当人は(理屈の通りであれば)もはや今までのようなフツウの女の子の精神(性格や人格)ではいられなくなる。普段からビクビクと怯えていた場合は、ほのかな自信を感じさせる風に変化し、本来のキャラクターへ戻る(変化する)。
●変身
分かり易くパワーアップすること。能力と“何か”が対応関係になることで変身したことを示す方法など
・外装の変化
仮面ライダーやウルトラマンに代表される一般的な変身。「特殊で強大な能力」と「姿・形」が対応する関係になっている。大体は「変身用アイテム」を介在させている(そしておもちゃ化する)
・人格の変化
特殊で強大な能力を発揮する時に「人格・性格の変化」が対応するタイプ。二重人格的な変身。「姿・形」の変化がないため分かりにくい。Ζガンダム以降のアムロがほぼこれに相当し、モビルスーツに乗ったときにニュータイプ能力を発揮し、シャキっとする。その他にも3×3EYESのヒロインなど(ただし第三の眼が開く)
・暴走
いわゆる暴走でのパワーアップ。人格が暴走、野獣化する人格変化の定型パターン。暴力的な意味での英雄的行為を暴走中(の人格?)にやらせることで日常での人格を守る効果がある。暴走中の記憶が曖昧だったり、記憶が無いことも多い。
・〜モード
状況に特化した「専用スタイル」の意味で使われる用語
例1:戦闘シーンでまず仮面ライダーなどが「外装の変化」をした後で、シチュエーションに合わせた「なんとかモード」(飛行モードとか、深海モードだとか)にモードチェンジをするようにして使う。
例2:仕事モードや戦闘モードなど。いわゆる「本気を出す」に近しく、この場合には厳密には変身に分類できないハズなのだが、用法的にはほぼ人格変化と同じ文脈で使われている。
○獣化とその先にある世界(細胞活性化と人化)
人狼の変化、もしくは、コントロールを保持したままで暴走状態を制御することを「獣化」と言う。細胞を活性化し、獣性を解放することで爆発的なエネルギーを得る。リアルにおいては細胞の活性化は%で考えるべきなので、オン/オフで切り替えて常に100%の解放ができるわけではない。
例えば、三匹が斬る!と言ったドラマでは、中心軸のある正当剣術を使うキャラと、中心軸がなく頭を低く構えて戦う獣的な剣士(千石)を配置している。これは中心軸があっては獣性を表現できないという記号にもなっている。
細胞の活性化による獣化はベクトルがないためパワーやエネルギーが全方向化し、方向性を持たせても放射状に拡散するため無駄が大きい。それら爆散する力を纏め上げ制御下におくのが中心軸による人化である。獣の性質を統合した上位存在をこそ「人」と考えることになる。人間に生まれただけで無条件に人間、などと思い上がってはならない。我々は人として生まれ、立ち上がって人となり、統合して人に至る。人という枠組みは依然として固定されてなどいない。
これは性善説が不完全な理由そのものでもある。人は後天的に人に成るという最高のドラマ・経験・チャンスを残している。
●天使 と 御使い(みつかい)
ちなみに翼のある天使のイメージは後世の創作であるため、新旧聖書では登場しない。それと「天上位階論」では、上中下3階層×3段階で9つに分類されている。
ごく個人的に「天使」と「御使い」の2つに分類していて、稀に善人として現れる。
天使は柔らかな雰囲気(淡い光)をまとっていて、優しい。しかし自分に優しい女の子はみんな天使に見えてしまうものなので識別は困難かもしれない(笑) その上位クラスである御使い級の人物は優しさよりも強さが先行して感じられる。天使がメッセージを伝達する者であるならば、御使いは実行する強さをもった人のようだ。彼らは(特に御使いは)善人の中の善人であり、辛い現実にめげずに頑張っている。後天的に天使や御使いになれるものなのかは、よく分からない。
○善なる行いと犠牲
善人であることを証明するためには、あたかも他者よりも偉大な善を成さねばならない気分になるものだが、そのためには善を行うチャンスが必要で、誰かを救ったりするには、誰かが事件や事故に巻き込まれるといった「犠牲」が必要になってしまう。しかし善人は他者の犠牲を望まない。このため自分が善人であることを証明したり確認しにくい。これが「善人のパラドックス」である。
ではどうなっているのかというと、物凄いイケメンや美少女がいると聞けばひと目見ようと遠くからでも人が集まってくるように、物凄い善人がいると知ればその善を経験したいと考える人々が集まってくる。それら最高の善を経験したいと無意識で考える他者が、自らを犠牲として差し出すことになる(これはトラブルメイカーの仕組みでもある。)自分の善性の表現が、他者の犠牲の原因になってしまうことに気付けば、誰であれ善人で居続けることは一種の我欲であると知り、目立たないように気を配るようになる。(実際には常に助けられるとは限らないためでもある)結果、善人の善意・善性は「行為」からは測定しにくくなっていく。ただ善人として「存在」するようになる。同様に、他者に善を経験させるために悪を引き受ける者も現れる。
●集中と分散 (配分)
なんらかの資源(リソース)があった場合に、一箇所に集中させるか、複数に分散させるかという処理をすることになる。
集中の場合、各個撃破される危険を減らせる。
分散の場合、ミスで致命傷にならずに済ませられる。
リスクマネジメントでの例
・集中:主力商品に資金を注ぎ込んで確実に成功させるようにする
・分散:複数の商品を企画し、どれかが当たれば(売れれば)大丈夫なようにする
○選択と集中(及び破棄)
GEのジャック・ウェルチ方式として有名な、不採算部門を立て直すか破棄、もしくは売却し、採算のとれる部門に対して選択的・集中的にリソース(資金)を投入するやり方。不採算部門に対する攻撃的に感じる「切捨て」が印象的な方法論。
●王道 <ベタ>
王道といえば、正攻法の基本形のこと。ベタといえば使い古され、ありきたりなこと。要するに同じものの違う言い方。(集中的運用にも近い)
●お約束<パターン>
ベタだと認識されるほどに確立している定型。あるいは、関係者が共通して受け容れるべきものとされる架空の大前提。数千・数万のお約束をその身にストックし、必要に応じて自在に繰り出せるようになるのが理想かも。
●なんか新しいの<奇をてらう><斬新>
同じ刺激を受け続けると人間(脳)は飽きるように出来ている。このため「とりあえず目新しいもの」を望むようになる。これが実に大変なことで、「ありきたり」との熾烈な戦いに素手で立ち向かう勇者*3 が後を絶たない。結局のところ、数に触れることが近道になるだろう。
●第三の答え<止揚>(しよう:アウフヘーベン)<ハイブリッド>
ヘーゲルの弁証法的な、対立する二項を否定しつつも二項の要素を残した新しいもの(答え)を得る、といった考え方。統合化の方法のひとつ。
二項が対立する状況において第三の答えをだそうとするのは王道(ベタ)な解決法。安易に使って中途半端な解決策(折衷案)にならないように注意すること。
●マルチタスク(マルチタスキング)
分散的運用の基本的な間違いの一つ。色々なことを同時に処理しようとして、結果的に遅くなってしまうこと。どちらにせよ、人間が同時にこなせる作業の数はそう多くはない。
例:Aは4単位、Bは3単位、Cは5単位の時間が掛かる仕事とする。
ABCABCABCACC……という順番で処理した場合、
・Aの処理は10単位目に終了
・Bの処理は 8単位目に終了
・Cの処理は12単位目に終了している。
―ということになる。この状態をマルチタスキングと呼ぶ。
このやり方を少し変えて
AAAABBBCCCCC……という順番で処理してみると、
・Aの処理は 4単位目に終了
・Bの処理は 7単位目に終了
・Cの処理は12単位目に終了している。
ここで、例えば8単位目を見た時、上だとBが終わっている、下はAとBが終わっている。(7単位目なら、上は何も終わっていない)こんなものは理想的なモデルに過ぎないが、マルチタスクの数が10や15になった時に仕事の処理方法としてある程度「常識」になる。
この解決方法は言い方や見方を変えただけで、要するに「各個撃破」である。
○各個撃破 ←→ 一網打尽
分散させての個別撃破と、集合させてからまとめての撃破。
現実の戦いでの一網打尽は、包囲を縮めて敵陣のスペース(空間)を奪うところにコツがあるらしい。
●大量生産の成功方式
「生産すること」にお金を掛けるのではなく、
「設計・設備・検査・アフターサービス」にお金を掛け、生産にはお金を掛けないこと。
●MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustiveの略)
ミッシーとかミーシー。漏れなく、ダブりなく。網羅的な思考をすること。網羅性は大事なので。
●USIT
問題解決の体系的方法論のひとつ。目に付いたのでなんとなく入れてみた。問題解決の方法は、原因の無効化か回避の二択しかないってのに同意。これは網羅的だ。
●プロスペクト理論
行動経済学の考え方。意思決定にかかるバイアスについての理論。今後、物語への自覚的な応用が増加するかもしれない。(ゲーム理論は有名なので、敢えてこちらを入れてある)
自サイト内へのリンク:物語でのプロスペクト理論の登場
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20070828/p1
●全体最適
正確に説明するのは難しいので、専門書に触れることを推奨(「ザ・ゴール」エリヤフ・ゴールドラット著)
もともとはボトルネックに注目した生産管理の方法のこと。このサイトではそれを物語に応用したらどうなる?といった応用の話をしていたりする。
人間には得手・不得手があり、それぞれがトップとボトムを形成する。一般的に得意分野は上達も早く、結果も出し易いといふ。天職といった言葉の通りに、能力を発揮できる場所、いわゆる「適材適所」は善とする考えも大きい。能力主義や効率といったものが競争的に要求されれば、苦手分野で頑張るよりも得意分野で頑張ることに重点が置かれるのは自然な成り行きであろう。例えば、優秀な人材を集めてトップアップ方式で効率を高める方法だとエリート集団が形成される。これは中央集権型の組織形成にはとてもマッチする。
全体最適はこれらの考え方を部分的に覆している点で興味深い内容となっている。
本来、何かする時には全ての作業をひとりでこなすことが必要だった。しかし生産性を高めるためには人を増やして分業することが求められる。分業することによって業務には流れ(フロー)が発生し、フローがあれば当然に効率の良い(=流れの速い)部分と、効率の悪い(=流れの遅い)部分とが生まれる。
この時、もっとも効率の悪い部分(時間が掛かる部分や、手間のかかる部分など)を「ボトルネック」と呼ぶ。そして全体を「一連の流れ」と考えた時、ボトルネックにかかる速度が全体のスピードを決定していることが言えるのだ。つまり、ボトルネック以上の過剰な速さは効率論として「必要が無い」(→有能な人間は渋滞原因!)と言えるようになるのだ。ボトルネックより前の作業がどんなに頑張っても渋滞を作るだけの結果になり、ボトルネックより後ろの作業が頑張ろうにも仕事がないから全体の作業効率そのものにはほとんど貢献できない(人数ばかり多くて、仕事が少なくなり、暇そうにしていると怒られる)。
最適化や効率化をするとき、ボトルネック以外の場所に対して最適化することを部分最適と呼び、ボトルネックに対して(部分)最適化することを、全体最適と呼ぶ。ボトルネックを効率化することで全体のフローが改善されるので全体最適になるわけだ。
花形部署のエリート集団の効率の高さはボトルネックに対して過剰労働、つまり渋滞原因になりかねない。その状態で他部署の能率の悪さを見下すのは、部分最適にも気が付かない様な、メタ認識が足りない「おバカさん」だってことになる。有能な人間をボトルネックに配置するのが一つの解決策だが、そういう場所は花形部署と比べて寂れてたりするかもしれなくて……
→批判
「全体最適とは、個々の自由を制限し、全体の利益を優先させる考え方。全体(社会)主義ですよ」……といった批判も見られる。どこまでを全体と見做すか?といった認識の問題もあるだろうし、アウトソーシングなどが絡めば自社だけで達成できることでも無く、そう巧くいくものでもないという意見もみられる。
・まとめ(?)
まずはごちゃごちゃ言う前に、認識するところから始めて、身の回りのボトルネックに注力することで全体の効率が良くなる、といった認識を持つところからスタートするべき。「どんなに複雑そうでもボトルネックだけ見ておけば良い」といった管理法として使うこともできる。
●(部分)効率論
通常の効率論は個人的な経験から言えば「最大戦力の有効活用」と「手数のコントロール」によって成り立つ。
○最大戦力の有効活用
最大戦力を見極めて、そのサポート体制を整えるように動くこと。自分が最大戦力であれば主役パートを引き受け、他者が最大戦力であればそのサポートに回るように動いたり配置したりすること。
○手数のコントロール
元は居合い(剣術の一つ)の考え方と言われていて、行動の構成要素(工程)を減らすことによって、理(ことわり)として早さを追求する。シンプルであれば早くなるのが道理だ。
ここから工程数を工夫して、纏められる部分は統合して手数を減らし、逆に工程数を増やして確実性(確度)を高めたりする。また複数人で作業している時の接続が良くなるように手数を増やしたりといった様に工夫する。
◇メロディアス
常に全力を発揮しようとするとトップとボトムの差によりボトルネックで「目詰まり」が発生することになるので、ボトムに合わせて少し肩の力を抜きつつ、得意なパートでは滑らかにトップスピードに乗っていくとすれば、自然な動作の波形となって「メロディ的」というものになるだろう。
●無拍子
有名な武術の概念。いくつかの解釈があり、心法とする向きも。
一般的に拍子とはリズム(律動)やテンポに相当する概念であり、ここからゼロ拍子の攻撃のことを無拍子と考え、ノーモーションであるとか、気付けば攻撃されていたといった認知的な現象、呼吸や心拍の拍動の間に何らかの隙間があってそこを衝いたり…………といったように話を膨らませている。現実にゼロ拍子では攻撃していないことになるので、0.5〜0.8拍子のことを無拍子として扱ったりする。
別の解釈では、メロディ(旋律)のようなアナログ的な連続性はリズムの認識がしにくく、リズム・テンポ的なタイミングの認知や概念では本質的に捉えられないことから、この動きの要諦を踏まえて無拍子→リズム無し運動といった解釈もある。
このように、無拍子の下位概念として認知外攻撃をセットしているが、本来は逆に認知外攻撃の一種として無拍子をセットするべきである。こういう概念・用語によるマジックが武術の神秘性の一端を担っている。
●儲けは大きく、損は小さく
長期の生き残り戦略としてもごくシンプルな、信頼に値する判断基準。攻める時は捨て身でもいいが、攻められている時に捨て身になってはいけないという教え。大変なことが同時に襲い掛かって来ても、同時にやろうとして混乱せず、一つずつ対処するべし。
同様の意味を持つものに「攻めは大きく、守りは堅く」「逆マーティンゲール戦略」などいくつかのバリエーションがある。
●リスク
リスクとは「危険かもしれない」という状況のことで、「必ず危険な目にあう」という意味ではない。
◆川を渡るには?
とある目的のために、川の向こうに渡りたいとする。
この川は深く、流れも速い。渡るのにはリスクがある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
川
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この場合、リスクを避けていたら川を渡れなくなってしまう。
手段としては、
・そのまま川に挑戦する。
・渡り易い場所を探す(浅い場所を見つけるとか)
・橋をかける
・船で渡る(船を作ったり、見付たり)
・川上まで歩いて、川を渡らずに向こう側へ行く……などが考えられる
正解は、
目的によって選択され、結果によって判断される。
川の向こうへ渡りたいのは何故か?その目的によって選ぶべき手段が変化する
時間を優先するのであれば、川の浅い場所を探す時間すら無くなる。
時間を無限に使えるのであれば、アマゾン川だろうが黄河だろうが、川上へ向けてひたすら歩けば川を渡らずに済むかもしれない。
常に問題となるのは、
・どちらにせよリスクを避けて目的を達することはできないってこと。
・だから、可能な限りリスクをコントロールすることを覚えること。
・リスクをコントロールするためには、情報が大事だということ。
・(情報を得て満足しないこと。目的から己を逸らさないこと。)
・リスクを取る俺カッコイイ!みたいなアホな煽りは下品。
・何度もリスクを取りに行けば「必ず」失敗する。必ずだ。だから、一生の内にそう何度も一か八かの勝負をしてちゃダメってこと。リスクをコントロールして「痛くない範囲」で失敗したりしながら経験を積み、一か八かの勝負の時に失敗しないように準備すること。
◆ %リスク
リスクに晒す「損の値」のこと。
1%リスクの場合、1万円なら100円まで。1万の兵士で言えば100人まで。
競馬に行き、財布の中には10万円あるとする。1レースで10万円分の馬券を買ったら、当然、それは100%リスクとなる。(勝率とは関係ない) 1万円で遊ぶなら10%リスクということで、負けても1割損をするだけで済む。ここからローリスク・ハイリターンを目指す場合、儲けの大きい(=勝率の低い)馬に賭ける必要がある、ということ。
◆トレードシステム
賭け事で勝つための仕組みのこと。勝率、倍率(配当)、コスト、頻度(回数)、元手、%リスク、ドローダウン(損失)後の回復、などの諸条件の組み合わせで構成する。逆マーティンゲール戦略ぐらいは調べておくのが吉。
ここでは触りだけ。詳しくは専門書にあたられたし。
・3Rシステム(仮称)
1万円リスクでたまに3万円*4勝てるのであれば、勝率が4割あれば損をしないことになる。10戦して4勝6敗なら+2万円。
・ローリターンシステム(仮称)
競馬で単勝1.2倍とかに1万円賭けるということは、1回勝っても儲けは2000円なのに、負けたら1万円失うことを意味する。5勝1敗でイーブン、実質勝率9割ないと儲からない。果たして1000回戦って900勝できるだろうか?(無理)
・ハイリターンシステム(仮称)
配当が100倍以上になる万馬券にだけ賭けるとして、毎回1000円で、1回勝ったら10万円以上になるようにする。元手の10万円が全部無くなるまでに100回勝負して、1回以上勝てば儲かるシステム。99敗したからといって、次の1回で勝てる保証は何も無い。100回買うコストとして移動交通費とかを考える必要があるかも。上のローリターンシステムよりはずっとマシだと思うけど、60連敗とか70連敗に耐えられる精神力の有無は考慮していない。
●ドローダウンからの回復
「元の状態」から考えることと、「現在の状態」から考える時の、「感覚的な違い」の話。
・物語での応用 80%→100%の場合
幽遊白書で戸愚呂(弟)が、80%で戦っていた。これを100%にする場合、本人にとっては+20%に過ぎないが、戦っている相手(幽助)からみると+25%した状態になる。この+5%部分の誤差が、数字的正しさであり、感覚のつく嘘というものになるので、上手に演出されるべきであろう。
80:100=100:X 内内外外で 80X=10000 → X=125 つまり 80:100=100:125
ダウン | 回復 |
---|---|
5% | +5.3% |
10% | +11.1% |
15% | +17.5% |
20% | +25% |
25% | +33% |
30% | +42.9% |
40% | +66.7% |
50% | +100% |
60% | +150% |
75% | +300% |
90% | +900% |
*1:ふしぎ星の☆ふたご姫。見て無いけど(笑)))) 貴方が子供向け絵本を描くことになったとしたら、子供向けだから手抜きできるのかといえばそんなことはない。丁寧に作らないと様々なことが伝わらなくなるだけだ。結果的に子供に対して「高い配慮」のなされる作品は大人がみてもレベルが高いものであることが多い。内容が子供向けなので面白くは感じないかもしれないが、やたらデキが良かったり。 ○善悪の相対化 「味方が正義」で「敵が悪」だと考えること。善悪などは所詮「立場の違い」によるものでしかなく、正義などというものは無いんだよ!と考えるようになる。結局、大人でもどうしていいのか分からなくなってしまうし、わからないままで放置される。 ○悪<排他性> 大雑把な意味での悪とは「他者への攻撃性」、つまり「排他性」のことを言う。 漫画的な味付けとしては(主人公の側を)先に攻撃してきた相手だったり、攻撃やその手段が非人道的(残虐)といった曖昧な区別のことも多い。 ○正義 本来は義理人情のこと。ここでは漫画的正義の話として。 一つの極はいわゆる正義の味方的な正義で「排他性に対する排他性」のこと。つまり悪に対する悪。 もう一つの極は排他性の反対として「全てをひとつ」と考える方向。人類みな兄弟、とか。 このふたつの間で様々な形態をとる。 ○一元論的善悪について 一元論では、正義と悪には分かれない。でも分かり易く言うと、 最小の善=最大の悪 最大の善=最小の悪 ……こんな感じになる。なんぴとたりとも悪からは逃げられない。 これが二元論になると、善と悪は両極として分かれてしまうので、今度は「善悪の境界線をどこに置くのか?」といった問題が生じる(これは永遠に決着が付かない) 一元論のイメージ図 ←―――――――――――――――――→ 一元論ではアナログ的ななめらかさで変化していく。本当は濃淡で段々淡くなっていくグラデーションとかいう図にしたかったんだけど、面倒だから諦めた 全ての人間は金持ちである。←こーいうのが一元論 ここで「現実」を観察すると「金のある金持ち/金の無い金持ち」……がいることになる。この「/」(境界線)が二元論の萌芽となっていて、「金の無い金持ち」のことを「貧乏人」とか呼べば二元論的認識のできあがり。 この「金持ち/貧乏人」の構図を「善/悪」に入れ替えたら完了。 (金持ちを悪とか決め付けた方が気分的にすっきりするかもしれないけど、特にその辺りに意図はない) 一元論では全員が悪だったら、善はなくなる。後は悪としての「程度の問題」になる。 ○正しさ 正しさとは、基本的には「目的に対する適切さ」のこと。 死にたい時に毒を飲むことは正しい。生きていたいのに毒を飲むのは正しくない。ここからもっと大雑把に「生きる」ことに対してプラスに働くかどうか?といった観念で捉える場合もある。目的への無自覚さが正しさというものを狂わせてしまうことに注意。目的ありき。 もしくは「価値観の城」を築きあげた上での「正統性から発する正当性」の場合もある。軍隊とか。 ●清濁を併せ呑む 意識システムである「下丹田」を機能させるのに必要になる概念。 正義や悪というのは価値判断なのであって、実体としては存在していない。例えば、毒というのはそのままではただの毒として存在している。これが身体に多めに入ると生命を害するため「悪いもの」となる。接触面(インターフェイス)で価値が判断・決定される以前には、善悪として実在しない。 清濁を併せ呑むというのは、二元論的に「正義」「悪」と個別に価値判断が済んだものを受け入れることではなく、正義や悪になる前の「可能性の状態」でまとめてハラに収めることを言う。(悪を飲んだらハラを壊すだけだ)それら可能性をなるべく「悪」とならないようにすることこそが本来あるべき「器量の大きさ」というものであろう。 ○最前線に立つこと、正しくあろうとすること 「最前線に立つ」ということは、先人の残してきた道がそこで途切れていることを意味する。ガイドラインが失われ、突如、「自由」を突きつけられる。どうしていいのか分からなくなるかもしれない。最前線に立てば、自分は好きな方向に歩いていくことが出来るのだ、と気付く。しかし、もはや誰も正しさを保証してくれない。間違う度に修正しながら道を進むことになる。 このことは暗闇の中に独り立つことに似ている。振り向けば、貴方の後ろにはこれまで歩いて来た道が続いている。それまで遠くに見えていた灯りが「最前線に立つ者」のことを意味していたことを知るだろう。このことに気が付いた時、新たに「最前線に立つ者」は「灯りを掲げる者」になれるかもしれない。 過剰に正しくあろう思うならば一寸先の未来(闇)と向き合うことはできない。終ってからならば誰だって正しいことを言えるようにはなるが、それは人を時代遅れにさせる。 ○踏み止まること、最後の砦になること 果てしなく続く防衛戦で、引くことなく戦い続けることを選ぶべき時がある。 過大な要求のことが大半だし、自分の能力を超えていることもままある。しかも手助けを得られることなどは稀だ。みんな疲弊しきっているか、自分の都合を優先するか、または必要な水準を実現できない。そうやって全ての責任を押し付けられた気分になるかもしれない。 だが、「自分は見ている」のだ。誰が知らなくても、自分は知っている。 気高くあらんとするために、または正義のために、理想のために、他者からみれば意味のない矜持のために、本心からの思いやりを行うために、いつか戦う日が来る。 地獄を笑って引き受けて、地上を天国に変えるための戦いに参加する時が来る。 防衛戦の厳しさは「常に成果を求められる点」にある。安易な負けが許されない余裕の無さが成長性やリソースを奪っていく。現実を見つめて、出来ることと出来ないことを区別すること。出来ることに力を注ぐこと。出来ないことは切り捨てること。出来ることを増やしていくこと。この時いつまでも受身でいないこと。状況を変えることができるのは自分しかいないのだから。 (攻めるしかない。耐え抜いて勝算を見つけ、準備をし、打って出よう!罠に注意っ) ●テロの論理 最大多数の幸福を達成すべく、構造的な暴力を「特定の少数」に対して行う場合、権力者は「無自覚な大多数」を盾に使って迫害を行っていることになる。大多数を幸福にするからお前らは死ね、もしくは苦しめという理屈だ。 テロ側の理屈では、それら無自覚な大多数が盾にならないと証明する必要により無差別なテロ行為が正当化される。無関係な人々だから攻撃対象とするのは卑怯、なのではなく、無自覚であることが自分達に対しての攻撃手段として利用されていること、そもそも加害者として自己を認識していないことが構造的な暴力への(いわば積極的な)加担である、と知らしめるための手段がテロなのである。被害者づらしていること自体が憎悪の対象なのだ。 そもそもテロによって奪われた何らかの幸福そのものが、構造的な暴力による被害者の存在によって得られたものでしかないわけで、つまりもともと被害などない、何も失ってなどない、となる。 暴力に訴える前に対話すべきだと思うかもしれないが、大抵の場合、対話すべき時間は何年も何十年もあったにも関わらず、その機会は活かされないままであり、そしてこれからも活かされることは無いままであろう。 ●「高貴なる義務」の歪み 大まかな流れは以下の通り。 「自身を犠牲とする」→「自分の命よりも名声にこそ真の価値がある」→「歴史に悪名を残すことが考えられる最大の犠牲だろう」→「全体の為を想えば、悪役を演じて他者を犠牲とするのも仕方が無い」→「高貴なる義務を果す」 マクロの理屈ではミクロ的な個人には価値を見出すことは出来なくなる。しかし大抵は必死こいて「自分には例外的に価値がある」という理由を探し始める。この時「責任を果たす義務がある」などという醜く下らない言い訳を始めてしまう。責任を果たすことができるのが、まるで自分一人であるかのうように振舞い、責任を持つものがまるで自分一人であるかのように思い込む。結果的にやろうとしている事とは、他者を犠牲にすることで自分の無能さを確認しようとしているに過ぎない。 傲慢さが高貴なる義務とやらを中身の無い腐った色水に変える。所詮は擬似的に神になろうとしているに過ぎず、上辺を取り繕うための理屈でしかない。これら人の傲慢さの本質とは、神を個であると考える不見識に由来する。 ・ジュイスの決め台詞 「ノブレス・オブリージュ 今後も救世主たらんことを」 ●英雄<ヒーロー> 英雄とは、がんばって勝った後で、みんなに褒められる人のこと。その本質は憧れや畏怖の対象といった儀礼的価値にあって、いわば名誉職。民衆に成り代わり正義を代行する「誰でもない人」、そのイメージ、幻想。 ローマ的な定義では「凱旋した人」のことで、実際の戦果の有無や大小は関係なく、「凱旋すること=英雄」というダイレクトな関係で捉えられていた節がある。これは偽主人公を発生させうる「装置」としても有効。ちゃっかり代わりに凱旋式を先にやってしまえばいいわけだ。この何をもって英雄とするのか、どうやって英雄に「成る」のか?という部分で、明快かつ具体的。 ○救世主 世界を救うべく天に選ばれし勇者(聖者)。望むと望まざるとに関わらず、必要な能力を有し、必要な場所に、必要な時に現れる。救世の物語の中心人物。 ○人類決戦存在 分類としてはたぶん「世界を救う狂言回し」。もしくは人の姿をした「超自然的なるものの援助」。無自覚のまま世界の意思を体現し物語に介入する「世界の守護者」。彼または彼女は無力なただの人であることが多く、些細な、しかし決定的な影響をもって人類と世界に勝利をもたらす。 人が世界を選ぶ時、世界もその人を選び出す。その選択の同時性((同時性=時間超越性→神秘性 と繋がっている。シンクロニシティ。
*2:この時に「性に目覚めた」という解釈は可能だが、あまり品が良い読みとは思えないね
*4:リスクの3倍(1回の儲けは2万円)