日記 (オスティア物語・皇帝ティベリウス)

 
●オスティア物語
 ネギまのために読んだのだけど、あんまり関係は無さそう。驚いたのはシリーズものだったこと。ヴェスパシアヌス帝の時代を舞台としていて、ベスビオ火山噴火イベントがあるらしい。
感想だけども、謎解き部分は児童書なので微笑ましいレベルで特記事項なし。それよりもなんだか頼りなくて不安定な感覚が印象的だった。もしかすると登場キャラの人種の多彩さが読む時に私の注意深さを喚起しているのかもしれない。同じ民族の話であれば気にならないであろう部分でも、人種・民族・文化が違えば注意しなくてはならなかったりするわけで。ネタバレだけど、隣の家のジョナサンとかがローマの名前じゃないじゃん?と思ったらユダヤ人だったりする。それと当然、奴隷も出てくる。それどころか主人公の少女がたまたま手に入れた金で奴隷を買ったりする。そういったことを含めて価値感の頼り無さかも。でも読むべきとまでは思わないなぁ。金庸笑傲江湖の方がずっとオススメ。
 
 
ローマ人の物語・悪名高き皇帝たち(ティベリウス終了〜カリグラ途中)
今日は大分読めたけど、相変わらず遅々として進んでいない。
いわゆる自分探しというやつとキャラクタードラマの関係について考察してみたくなった。冷静に考えてそんなのどこかの誰かが立派なヤツを書いてるだろうとも思うので止めておくのだけど、普通はキャラクターの完成度の高さが物語の出来を左右するって話ではなかろうか。けれどそこからもう一歩進めると、自己の性格の指針としてのアーキタイプ(原型)を得られるかもしれないという話になっていくことで、自分探しとも関係していくように思う。
ローマ人の物語の場合、あっちもこっちも英雄なわけで、そいつらの性格の比較やら周囲からの評価、人生の結果というのがやはり強烈な面白さを作っている。
アウグストゥス編はパッとしなかったのだが、ティベリウス晩年からの塩野先生の筆の進みが心地好かった。近衛軍団長官セイアヌスの驕りなどは特にしびれてしまう。
 
認識の壁というヤツは、私のイメージでは「柔らかな外壁」であり、内側にいる本人が独力で突き破ることなどは決してかなわない……少なくともそう思っておいた方が間違えずに済むものだと思っている。どこかで知恵に触れた時に「少し認識が広がって感じる」のだが、しばらくすれば元に戻ってしまうようなものと言えるだろう。
 
セイアヌスは出世しようとし、ティベリウスの考える限界に触れてしまった。しかし、実力主義の適材適所で統治するティベリウスの下でちょっと過ぎた夢を見ても間違いと言い切ることは難しいことのように思える。確かにヤツはやり過ぎているのだが、それをどうやって知れば良かったというのだろう?本人の人生の正しさは終ってみるまで分からないだろうし、終ったからって分かるものだろうか?
ティベリウスからすれば皇帝の座は意地でもアウグストゥスの血族に譲るつもりだったのだろう。脳たりんのアグリッピーナにゴチャゴチャ言われんでも完璧にやったるわい!ぐらいに思っていたと思う。するとセイアヌスの野心は危険だった。形としてはアグリッピーナにセイアヌスをぶつけて両方とも排除したわけだ。(そうは書いてないけど、そういうことだろう)
 
それからカリグラの気持ちも分かる気はする。そりゃ愛されたいだろうし、好かれる人間性こそが正しいとか賢いとかって観念には根深いものがあるからだ。人気取り政策こそが正しいという「感覚の幼稚さ」は非難されるべきだが、引継ぎの失敗はどちらかと言えばティベリウスの責任だろう。カエサルからティベリウスまでがあまりにも完璧過ぎた。才覚だけで補うには皇帝という仕事は複雑過ぎただろ、などと思わずにいられない。後継者に無能なヤツを選ぶなってこともあるし。
 
血液型占いみたいなアホ臭いものの代わりに「ローマ英雄占い」みたいなのが流行ればいいのになぁ。
カミルスやティベリウス帝に共感を覚える。グラックス兄弟のような失敗をしてはいけないのがよく分かった。そして私が目指すならスッラしかいない。うん、読書もたまには悪くないね。
 
 
ネギま
前回の予想から展開考察してみたけど二次創作にしかならなかったので諦めることにした。しばらくの間は自分の予想と比較しながらにやけることにする。ここに出すのは無理