雑記(かんなぎ終)

 
かんなぎ最終幕
来た、見た、書いたって感じで、ネット視聴の癖に感想書こうとかしている自分を発見するにつけ、以下略。
 
まず、13話目だけ論じると本当は不具合でるよなとか思うわけで。アニメ化を論じる歴史(といえるほど長くもないと思う)自体の問題もあるんだろうけど、一般視聴者の評価方法にバラ付きがあることが実際の問題なわけで。(プロは想定に入れてない)
 
1クール13話で全体を構成して、最終話を「ここ」にしたのは何故?とかいう話がサラッと出てこないとダメなハズなんです。それから原作での今後の話とのつなぎとか。……いや、思っているよりずっと原作通りに作っているので、なんとなく「愛よりもテク」って印象はあるんですけどね。
オリジナルエピソードも1回だけだし(押入れに篭城する話)、でもそのオリジナル部分が「喧嘩して、仲直りして」ってのを扱っていることは13話での構成からするとラストを意識してたりして。
 
……とりあえず、このぐらい触れればゆるされっかなぁ。ダメかなぁ。
 
で、靴をブン投げて、放課後までの冷却期間を入れつつ、オンナノコだって協力したいの!ってのを満足させつつ、鼻水でぐっちゃりの顔みせて、レイプ目で〆ですね。わかります。(……読んでいる方はわかんねぇって)
 
 
最初のシーンはナギがおばあちゃんの家にいるところからなんですけど、天気とかの時系列から考えると、実はこのときにはおばあちゃんは既に逝ってますね。「彼女」が出てきて、人生の締めくくりを受け持ってしまってんですよね。
 
次に下駄箱での会話ですけど、マンガの方はつぐみの「しつこさ」にキレません。ここでつい、うっとうしいからってキレてしまうと、その後のつぐみとの協力が巧く行かないからです。つーか、作者が女性ということもありますし、「オンナノコにも手伝わせて!」という欲求があるんじゃないかと思います。物語ってやつは、結構かんたんにオンナノコを締め出しちゃったりしますからね、イラネみたいに。
 
でも仁の方は中学で反抗期している系のキャラで、ホモカップル話の時につぐみちゃんに「謝っている」とは言っても、こう追い詰められているときに「フツー」でいることを押し付けてくるつぐみの態度に「キレてなーい」とやってしまうと、ちょっと物足りないスよね。
 
そこで、この下駄箱のシーンを朝イチに設定した、と。放課後までの時間を冷却時間にあてて仁のアタマが冷えて申し訳なさとかが出てきて、ちょっと協力させ易かったり……みたいな余地を作り出しています。ここは完全に「技アリ」でしょう。つーか、分かって、お願い!って部分ですよね。わかったぞ、うんうん(優等生ファンになる喜び?)
 
 
で、川べりでナギが黒い服を着ているのは喪服だからですね。(念のため)
 
まず振り向くシーンの表情が問題で、
「振り返ってから仁が来たと分かる」のと、
「仁だと分かっていて振り返る」のとでは意味が全然、違うんですよね。
 
原作マンガは前者で、アニメは後者なんです。後者にする意味ってのは、シンプルに考えると、仁が来てくれるのを期待していたから、となるでしょう。たぶん直前のつぐみのセリフを受けて構成の無駄を省いたのではないかと思われます。まぁ、私には違和感がありますが、原作マンガでは声をかけていないので(笑)、ファンがここの解釈をめぐって議論するぐらいがいいんじゃないかと思います。つーか、仁も声をかけてしまうのはいいのかどうか?(笑)
原作の方がキレイかなーとか。ここで仁に名前を呼ばせてしまうのっていろいろと難しいんですよね。女の子に声を掛ける時にタイミングで困ったことがあれば意味が通じる話ではないかと。だからこそ、敢えて名前を呼ばせているのかもしれず。短くて、何気ないシーンなんですけどね。
 
次に、涙を流して鼻水まで垂らさせているわけです。これってハルヒが文化祭の歌を歌うところで、顔のデフォルメを崩してグワッとさせちゃったのとも同じですよね。素顔が垣間見えるシーンだからこそ、アニメ表現で上っ面の美化をしないっていうか。ナギのぐちゃぐちゃの顔を可愛いと思わせたら勝ちですもんね。
 
で、若いシゲさんの声に島本須美さんっていう反則技をいれつつ、どんだけ卑怯なんだよ、ヤマカンめ!みたいな(笑)*1
 
最後はつぐみのレイプ目なんですけど、
オトナアニメに書いてあった感じで「ドアを開くことがドラマ」って感じなのかどうか……。話の流れとしては、ヤマカンがtrue tearsの評論(藤津さん、だったかな?)を高く評価してて、ふすまを開くところにドラマがある!っていうのが意識にあったのかな?、と。ここがどの程度に計画的なのか、まではわからないんですが。
 
原作マンガだと、1話はおもちゃのステッキを神社で振り回している2人をつぐみが見ちゃって終わります。つづけて2話ではピンポンを押したところを、ナギがドアを開くんですよね。そこで「あ、昨日の」みたいな話になる。このピンポンを押すところが幼馴染として「どの程度に近しい存在なのか?」を感じさせる行為で、読んでいても微妙に意識に残る感じだったりするんですよね。細かい判断材料になってしまう部分というか。
 
日本でも地域によっては勝手に人の家に入れるところもあったりして、実際には微妙で細かい目に見えない約束ごとが張り巡らされているんですよね。プレハブの仁の家(借家)の位置付けとかもあって難しいです。こういう部分は不動産関係者の方が思うことが多いのではないかと。コスプレ喫茶の話から首都圏ではなさそう……みたいな話もありますしね。
 
その後、14話で「鍵が開いてたから勝手に入る」シーンがあって、そこで股間のブツを見てしまうとか(笑)があったりする。そして18話で今回の最終話と同じく自然に入って来ちゃって、ナギを押し倒しているシーンを見るというお約束展開をしていたワケです。……ここで勝手に入って来ちゃうのは、ナギを探すという行為を一緒にやったっていう「一体感」がそうさせていると思われるのですが、そのことによって逆にカウンターパンチになっていたりだとか、まぁ、入って来てくれないとオチにならないって事情とかもあったりするわけで(笑)
 
ドアひとつ入るのでも、つぐみの精神的な距離感とかがあるんですよね。段々とずうずうしくなってる?みたいな(笑)
 
アニメの1話ではつぐみを出演させていなくて、電話だけでした。2人の生活みたいなものを演出で見せている。アニメの2話では、ピンポンを押す前にナギから扉を開いちゃってます。そこにナギのパンツを手にもった仁がやって来て、つぐみに驚くってシーンになっています。だから、ここではピンポンを押させてない、と。その後の流れは大体同じですけど。んー、なんでピンポンを押させなかったのだろう?みたいな(笑)たまたまってことなのかも知れませんし、解釈の余地があるのかも知れないし。
 
次にここの意味合いを考えてみるとすると、アニメの最終話では仁がデレて、ナギが一緒に居てくれることが嬉しいんだ!みたいに再認識しているわけですよね。原作マンガだと、このエピソードの「次の話」で今度はつぐみちゃんが「仁は私のだよ!」みたいなモノローグを入れる番になるわけです。
 
だから、ギャグにしか見えなくても、案外、ここのレイプ目のシーンとかって大事だったりするんですよね(笑)、このドアを開くという行為まで含めて。たしかにお約束的にドアを開けて入って来ちゃった!でも十分に読めるのですが、もう少し違った意味を見つけられるかもしれない。表現者たちの意図に関わらず、結果に現れたものと対峙するという態度であったり、目であったり、とかいう。……でもあまり突っ込み過ぎると深読みが不可読みになっちゃって、「バーッカじゃねぇの?」になるんで、難しいんですが。
 
 
というわけで、かんなぎ最終話でしたけど、ヤマカンが監督のところに名前が入ったまま終わってたりして、ちょっぴり感慨深い気分になったり。中古問題とか途中で色々あったけど、 面白かったですね、かんなぎ
 
うむ、今日こそは消さないで更新っと。
 

*1:らきすた」でこなたの母親役が島本須美さんなんですが、こっちも既に死んでて幽霊な状態だったりして、二作連続かよ!とかそういうアニメ見ている人には確実に分かるような意味ですね