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2010/11/30 更新停止
 
 
■オススメ図書

アニメルカ増刊号『背景から考える――聖地・郊外・ミクスドリアリティ』
 
 
 
<注意>
以下は裏付けの無いことが多く書かれています。信用すると痛い目を見るでしょう(笑)

 
 
●作者にとっての背景論
不必要です。ここで引き返してください。
素人の意見を参考にしようだとかの甘っちろい考えで明日の創作界が担えるとでも思ってんのくわぁー! ガーッ!!
 
●読者にとっての背景論
面白ければOK、つまらないのなら要りません。
物事は、文脈の中に配置しなければその意味を捉えることは出来ません。例えば、「バカ!」の一言であってもそれが言われた状況や言った人の態度、言われた側の反応によっても意味が違ってしまうものです。心配して言ったのかもしれないし、見下しての一言かもしれない。……我々は背景や、少なくともシチュエーションの理解・共有によって会話を成りたたせており、そこではじめて言葉や物語を受け取ることが出来るわけです。これは普段から当たり前の様にやっていることでもあります。 背景論では文脈や背後関係にスポットを当ててみよう!という試みです。
 
●背景論は必要か?
もし背景「論」などが必要なのだとしたら、それはちょっと困った状態なのかもしれません。
小難しいことが分からないと楽しめないのは想定する消費者層が狭すぎる気がします。背景論そのものは効能としては役に立つことを目的としていますが、同時に「必要性はない」(=あっても良い、あった方がより良い)を目指すものです。
 
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●背景によるグレードの決定
ある意味においては背景こそが作品のグレードを決定する効果を持っている、と考えることができる。仮に印象的な主人公を設定できたとしても舞台となる場所とマッチしていなければ高い効果は得られない。例えば「世界を救う物語」はスケールが大きいが、救われる世界がしっかりと描写されることでそのスケールの作品に相応しいグレードを得る。
例:アイマス動画の背景論的強化
ゲーム「アイドルマスター」のユーザーによる動画(MADムービー)は、登場キャラクターを残してそれ以外の全てを盛り込むことになった。(オリジナルキャラを使ってしまうとアイマス動画にならなくなってしまうが、線引きは曖昧)楽曲を別のものに差し替え、ダンスの組合せ・パターン・テンポ等を吟味し、衣装だけでなく表情にもこだわり、背景をCGで造り込み、ストーリー性を持たせ、演出に全体を統一するコンセプトを導入している。結果、元のゲームから切り出しただけの動画と比較して明らかにグレードアップしていることが分かる。
 
●使い捨てvs使いまわし
アニメならジブリ作品、ゲームならFFシリーズのような大ヒット作品に共通する特徴として「背景が豪華」というものがある。そんなのにあやかった成功法則になりつつある気がしないでもない。そしてどこぞの先達が「背景に力が入っている」と「体験性が高い」といった言葉を編み出した(素晴らしい!)……しかし、金の無い連中は真似が出来ない。どうしよう?と考えたところで使いまわすしか方法はない。もともと使い回しをアニメでは「バンク」と言って、主にロボットの合体シーンや必殺技、基地からの発進などで繰り返し使われる。
背景の使い回しは、(一言で書けるなら誰も苦労などしないのだが)大雑把に言って、「日常」の演出に向いていると思われる。
 
スターシステムと統一世界観構想
キャラクターとか役者を使いまわすのがスターシステム
背景世界を使い回すのが統一世界観構想*1
その表面の物語を消費するのが物語消費論*2。説明が大雑把なのは仕様。
 
●箱庭とキャラクター
人間は反射・反応で出来ている。キャラクターも然り。つまり、キャラクターは完全な単体では動き出すことがない。外部との関わりがキャラクターの動きとなる。独り言ですらそれを聞かせる相手がいる(もしくは、ある)。
閉じられた空間である箱庭ならばキャラクターの「動き」は予想し易くなる。たぶん、カップリングも同根であろう。
 
●記号的なキャラクター
ツンデレ」「委員長」「隣の家の幼馴染」といった萌え記号は、最初から一定の文脈を保持している。メリットは受け手から得られる「了解の早さ」であり、驚異的な導入速度を得られること。一方でデメリットは複数作品を跨いでの「代わり映えの無さ」であろう。仮説としては「記号としての強度」がそれぞれの作品の持つ背景世界・世界観・文脈から「侵食」されることを防ぎ、遅らせる効果にあると思われる。このような断絶感が記号的なキャラクターを記号的なものとして留めていると思われる。作者のもしくは作品の持つ世界観に染まることで、記号的なキャラクターは独自性を強めてゆく。
 
●表情の多彩さ
キャラクター(漫画)に要求されるものは?と考えてみると、少なくともその一部は「表情の変化」に求められる。無表情を含むキャラクターの表情とは「何らかの結果」であり、その背後に感情が動いた何かの理由・ストーリー・葛藤があったことを示す。よって表情に乏しいマンガはあまり高く評価してはいけないということになる。
 
●低次背景
単に後ろのレイヤーに配置されているだけの絵とかのこと。関係や影響を持たない状態のことと定義する。どんなに高度な作品であっても普通に低次背景はあるし、簡単に描けるわけでもない。
 
●中次背景
影響や相互影響がある状態のこと。
 
●高次背景
独自の工夫がなされた状態のこと。
何かそれらしい定義が書けたとしても、可能性の束縛を嫌って文句を言われる結果にしかならないのでブランクにしておく。
 
●低次背景未満
キャラ絵と背景とにメリハリが無く、別レイヤー化できていない状態のこと。明確な演出意図がなければ単に稚拙と判断される。
 
●レイヤー(前景・人物・背景)

 
●背景の変化(影響) →壊したがり
昔のアニメーションでは「壊れる背景」はセル画に描かれていた。この形式になれた視聴者はあらかじめその部分が壊れることを予測することが出来た。背景は(一度作られると)壊され易くなる。何らかの変化をさせようとしていて「一番大きな変化」が破壊だからと考えられる。心理的に極端に走りたがるものなのかもしれない。
 
●背景の変化(影響) →時間関係、その他
破壊ほどではないちょっとした変化。変化はほぼ時間成分を持つ。
多くの作品で雨すら降らない。雨などの変化を切欠としてシナリオやキャラの行動に変化があるかどうかが問題。
例:季節の変化(暑いと薄着になり汗をかき日陰に入りたがる、寒ければ厚着して息も白くなり暖かい場所を好む)天候の変化(雨が降れば服が濡れるし傘を取り出す。川は水かさを増す。風が吹けば桶屋が儲かる。くもりの日は案外明るかったり暖かかったりする。)時間経過(夕暮れのような1日での変化から、混雑する時間帯といった毎日の傾向、店舗が潰れたりといった長いスパンでの街並みの変化など)、その他にも地震等の天災による影響など。
 
●背景の変化(影響) →人の手によるもの
背景・世界に対して人間が積極的に働きかけを行う場合、逆説的だが、変化が人に知覚されるものでなければ変化したかどうかが分からない。メディアによって向き不向きの変化があり、知覚される形で表現できない場合がある(→嗅覚的変化など)その場合は登場人物の反応を通じた間接表現に頼ることになる。
 
視覚:見た目を変える。物を置く、植物を育てる、新しく作る、掃除する、捨てる、など。スイッチを入れて部屋を光らせたりも含まれる。
聴覚:音を操作する。静寂や反響も含める。場の雰囲気も変わる。
触覚:触れば動きもする。圧力や振動、硬さ・柔らかさ等の感触等。動かす、凹ます、震わせる、又は動かないように止める、なども含まれるが、視覚的に判断されることになり易い。ぬるぬるしている!等の間接的な反応もある。
嗅覚:「臭い」などに反応すれば人の動き方が変わる。屁をこくとか、いい匂いの料理を作ったり、血の臭いをさせたり、消臭剤ふりまいたり。
味覚:「美味い」「不味い」で人の反応が変化する。味覚は基本的に口に入れてのものなので背景的には使いにくいかもしれない。
 
以下は体性感覚。背景には使いにくいので分けておく。
温覚:熱い・寒いによる変化。クーラーやこたつなど。北風と太陽。
痛覚:痛み・くすぐったさ・かゆみ等。これも背景とは関係させにくい?
平衡覚:バランス感覚。グラつく時に使われる。
固有感覚:目を瞑ったまま空中で左右の人差し指をくっ付けたりするための感覚。たぶんパーソナルスペースと接続されるのだろう。
 
●光と影
明度・輝度等、陰影も加えた画面の明るさの制御と、その振り幅の話。画面が明るければ見通しが良くなりストレスが減るが、ノッペラボウにもなり易い。画面が暗いと光の価値が相対的に高まるが、「分からないこと」がストレスにもなり易い。映画「七人の侍」では通常の数倍の光量で撮影したなどの話もある。
 
●うごく背景(背景+動くsomething)

動植物や昆虫、モブキャラ、風船、乗り物、雲、その他あらゆる「動くもの」が背景に配置してあること。視線を置く場所があるという意味でも、あるだけで「面白い」。
逆に風景だけの景色では「どこを見ても良い」のだが、同時にどこを見ていいか分からなくなり易く、そのままどこも見る場所がなくなり、自分との関係付けが出来ないことでその場に留まる「居心地の悪さ」のような感覚が生まれてしまう。よって、対象物があることで安心する機能があると考えられる。
 
●舞台装置としての情景
情景とは「こころを動かされる景色」のことを意味している。背景レイヤーに情景を上手に配置できれば、キャラの感情表現などにとって効果的な舞台装置として機能すると考えられる。低次背景の上級運用だろうか。
 
●2Dから4Dへ
2Dは平面的な背景のことで、背景レイヤー的な思考。3Dは立体的な背景で、主に街などの奥行きのある空間を表現する技法やそもそもの思考形態の話。4Dだと立体造詣に加えて時間の要素が加味される*3。立体造詣で方向感覚を刺激する辺りがある種の壁になっていると思われ、単なる空間の整合性に加えて不整合、つまり(意図的?な)空間の歪みなどを駆使する領域での戦いがあるらしい。世界は広いねぇ(苦笑)
 
●街のつくり
自動車や飛行機のような移動手段が利用できず、テレビなどの映像メディアもない時代では単に「遠い」だけで異世界であった。このため物語の舞台は想像で補われていた。冒頭から舞台の景観がとうとうと描写され、遠き異国の地に想いを馳せることが悦びとされた。
現代では(未来SFなどの特殊な状況を除き)簡単な説明があればなんだか見たことがあるような気分になれる。このことにより「街」といったものに対する描写はその需要を急速に失いつつあるのだろう。描写や語りによる「視点の共有」がなされないことで街の在り様、文脈や文化、先人から受け継ぐ想い、見方、触れ方、感じ方などにおいて作者・読者共に共通する理解が失われつつあるのかもしれない。
心情の変化を他の人間との関わり合いにだけ求めるようになれば、街の描写は不要だと切り捨てられてしまう。どこかでみたような、どこにでもありそうな街で十分とされ、結果的にどこかで見たような物語ばかりが生み出されていく。どこにでもある場所と、どこにでもある物語と、それに感情移入する誰でもない人達。そして気が付けば尖った物語ばかりが持て囃されている。
本来、豊穣な精神が、豊穣な世界との関わり合いを生み出す。それは視点の問題でもあって、ただ「そこにある世界」から豊穣さを汲み出すには、人の側に豊穣な感性がなければならない。人間に豊穣さをもたらすのは「ありふれて豊穣なる世界」との関わりにおいて、だろう。人が街をつくり、街が人をつくる。
物語の背景としての街では、そのキャラクター達が「何処に立っているか」が分かればよいとされる。しかし実はこれが結構な難事だったりする。「其処が何処なのか?」とはいくらでも深く追求していくことが出来てしまうからだ。そのための方法として街の設定を細かく作ったり、ロケーションハンティングしたりすることがある。ドラマのある場所は何処か? もしくはどうすればそこがドラマになるのか?という問いが連続し、どこかの段階で物語と接続する。そしてキャラクターに動きをもたらす。
 
●自前シミュレート
ライトノベルで成功する要素の一つとして、世界の構築がお上手というものがあって、「その世界で生きていたらどう考えるのか?」というものを描写したりする(=世界観) 一端その世界を読者の脳内に構築すると、その世界で動いている姿をもっと見たくなるという循環が起るらしい。この手の自分の脳を使った自前シミュレート的な要素(箱庭)はエンタメでは結構大きいようだ。というのも、これが元祖・仮想現実的なるものだから、だと考えられる。
 
「世界設定から世界観へ!」
標語。
 
 
■キャラクターの背景
 
●視覚優位/聴覚優位/体感覚優位
それぞれの感覚での情報処理を好む傾向のこと。視覚>聴覚>体感覚の順で割合が多い。視覚系の情報は外部要因からの影響を受け易く、体感覚系がもっとも変化しにくい。これは消費者に対する傾向もそうだけれど、登場するキャラクターの特徴付け・分析にも使える。(作者の偏りが表れているかも?)
 
○視覚系
視覚情報を好む傾向で、最も多くの人間に見られる傾向。見た目の分かり易さ・美しさなどを好む。例えば服装などもこれに含まれるわけだが、服装の流行り廃れが激しいように美的感覚は抽象的な概念で確定させるのが難しい。(その他にも文字でごちゃごちゃ書かれていると読むのが面倒だ、とかね orz )
 
○聴覚系
ずばり音楽を好む系統と、思考のような「内なる声」を好む系統とに大別されるが、そういう区別はフィクションではあまり気にされない。声優の声を聞き分ける「ダメ絶対音感」などは聴覚優位の遊び。
 
○体感覚系
視聴覚を除いたもの。つまり味覚・嗅覚・触覚の系統。
(体感覚系を一番に好むような意味での)純粋な体感覚系優位の人間はあまり多くはないが、芸事では特に体感覚系の重要度は高くなっていく。フィクションでも「疲れ」や「痛み」といったものへの共感は持続的で根深いことなどがある。その他にも暖かさや重さ、柔らかさなど様々な質感がある。
例:汚さは視覚的だが、ニオイのキツさや手で触る時の不快感は体感覚的。また空間的な広がりは視覚系だが、そこから得られる解放感は体感覚系になっていて複合的、等。体感覚系はキャラクターの立体的な造形に便利。困ったらニオイや感触の描写というものがパターンとして使われがち。
 
●キャラの立体性・平面性
個性を最大限に描写した上での人間性(立体的な人格)と、個性を完全に剥ぎ取った後にも残る人間性(平面的な人格)とが考えられる。個人の心理を描写しようとすれば人格の立体性こそが問題となり、戦争や災害のような大きな悲劇を描こうとすれば、ひとりひとりの(人格の)価値の無さが浮き彫りとなる。そのどちらも人間性
 
○個性
個性の話としては、無個性を求めた結果として「それでも残る何か」がその人の個性……という意見も。平面性を求めた結果としての立体性かも。
 
○過去/現在/未来
「過去」タイプは経験を重視し新しいことを拒みがち。「未来」タイプは新しさを好むが過去の経験から学ぶことを面倒がる。「現在」タイプは「今」という時間単位の中で集中・埋没することを得意とするが、区切りをつけて次へ進むことを好まない。
 
○クリティック/リアリスト/ドリーマー
ディズニー・ストラテジーでの分類法といわれるもの。
 
・クリティック(批評家)
批評家。分析家でいろんなことに気が付く。「過去」に類似する
メリット:有能な批評家は建設的な意見を散発させる。過去の事例を有効に使う。
デメリット:無能な批評家は足をひっぱる。慣例に固執し、新しいことを嫌う。
 
・リアリスト(実際家)
現実的な人。目の前のことに即応できる。「現在」に類似する
メリット:作業者として有能。「それやってみよう」と言える。
デメリット:いつまでも同じ作業をし続ける傾向がある →プログラマー症候群*4
 
・ドリーマー(夢想家)
夢追い人。盲目に未知へと突き進む。「未来」に類似する
メリット:遠くの目標に突き進むパワーがある。障害を気にしない楽観さを持つ。
デメリット:危険を求めたり無茶する。過去の事例を無視して思い付きで行動する。
 
 
●イノベーター/コネクター/メイヴン/セールスマン/ラガード
ティッピングポイント」(マルコム・グラッドウェル著)より。
人との繋がりやそこにある役割などの話。
 
○イノベーター
トレンドセッター。流行の仕掛け人。導入者。
新しいこと、珍しいもの、自分独自のものを見出し、取り入れ、試す人々。クールなものに敏感でホットなスポットにいる。クールはホット。革新を先導するが、キャズムを越えるかどうか?は他の能力者に拠るところが大きい。
 
○コネクター
媒介者。人と人を繋ぐ人、弱い絆の達人、人脈主。
弱い絆で膨大な人数と友好な関係を結んでいる人物・性格傾向のこと。
遠方の知らない人物に知り合いを介して手紙を届ける実験では、平均して5、6人程度の知り合いを介すれば手紙が届くという結果が出た(関係の6段階分離) コネクターという極端に知り合いの多い人物を媒介することで約6人といった極端に少ない人数で関係を結ぶことが可能になっている。
その大半が顔見知りやちょっとした知り合い、たまに顔を合わせるといった関係に過ぎないというが、強い絆の間柄のよりも、弱い絆の人間の助力を借りる方が抵抗が少ないといった事情もある。ネットで言えばニュースサイトの管理人はこのタイプに相当すると考えられる。
 
○メイヴン
市場通。通人。情報コレクター。ナビゲーター。事情通。
最先端の情報を抜き出し、それを使ってコミュニケーションする人。
イノベーターが導入した流行を良いものとして伝達する。最新情報などを使って人と会話することを目的にしている。話し相手から新情報を仕入れることも大好き。
スペシャリスト(専門家)との違いはコミュニケーションの比重の高さにある。スペシャリストは自分のアイデアを発表する時にタイミングを計るが、メイヴンにタイミングはない。いつでも教えてくれる。メイヴンは「選ぶのは本人」だと考えているため、しつこく勧めることまではしない。多数の情報を広く集めて相手の役に立とうとする人。お得情報のドラえもん
 
○セールスマン
同調能力者。感染源。伝道師。
相手に自発的なコミットを促し、周囲に「熱心な信者」を生み出す人*5。日本でセールスマンと言うと、押し付けがましくてしつこく、時々は口の巧い商売人のイメージだが、ここでは熱意を感染させる人の意味で使われている。転移(自分の物語に相手を巻き込む)にも似ている。
アーリー・アドプター(初期採用者)とアーリー・マジョリティー(初期多数派)の間にある溝(キャズム)を越える時に活躍していると考えられる。
 
○ラガード
キャズム(Crossing the Chasm)」(ジェフリー・ムーア 著)より
新しい技術を嫌い、最後まで取り入れない人。頑固者。
 
●冷/熱/重/鋭/華/流/極
その人の大まかなイメージとしての質性と、説得され易いような意味で好む「質性」の傾向というものがある。(JAM Projectの「熱さ」が好き といった感じ)細かく分けると人の表現しうる質性は100近くに及ぶという話もある。ごく初歩的な質性でさえそれぞれのキャラクターの特性として表現するのは難しい。
 
●言語
名称や一人称(ボク・俺・私・自分を名前で呼ぶ・渾名を付ける)、語尾の変化(〜ですわ、〜にゃ、〜アル、〜ござる 等)、地域による訛り、TPOによる変化、ニュアンス、若者言葉、略語、スラング、流行言葉、死語、古語、専門用語、ジャーゴン、外国語、翻訳、暗号、挨拶、報告、伝達、確認、否定、推測、命令、疑問、警告(+アドバイス)、企画、感謝、要求、回想、独白、冗談、状態による変化(酔ったり眠かったり甘えたり)、使用単語などの転移(相手が真似し始める)、約束(契約)、記述、編集、嘘や演技、歌唱、祈祷、詩的表現……などの言語的な運用
目配せによるメッセージの伝達、ジェスチャーによる合図、行動・動作による間接的なメッセージの伝達、生き方を通じたメッセージの伝達、物など配置による誘導、矢印などの記号による表記、絵や音楽などの抽象表現(芸術)、キス等の接触型コミュニケーション、表情や距離感等を使うニュアンス、間接技などの肉体言語、暗黙知、場の雰囲気(空気)……などの非言語コミュニケーションの運用
 
イデオロギー・思想・哲学
主義や思想、哲学は、それを学ぶことで結論的には思考方法を確立することが期待されている。例えば、状況や問題に対処する時に「個別の解答」を一つ一つ記憶しているのではいかにも効率が悪い。羅列と記憶という方法では、いざという時にド忘れしていたり、想定していなかった「例外」があるだけで対応できなくなってしまう。だが「ナントカ主義」のような思考方法そのものを会得すれば、いちいち羅列されたものを記憶しなくてもその場で主義・主張に沿った解答を各々が考えることができるようになる。
形のない精神としての自己は、外部との接点(インターフェース)で顕在化するのみであり、ひとつには観測されるまでは結果が決まらないという量子論に似ている。もう一つが、接点は常に外部とのそれであり、自己は「周辺化」している。つまり自己の中心には形が無い(ポストモダン的な脱中心性のこと)これに対して「ナントカ主義」や「人型アーキタイプ」「中心軸 (非人格的自己)」などは「仮想の中心」として周辺化する自己を制御することが出来る。
 
 
■関係する様々な概念、他
 
●コンセプト
作品全体を統一する理念やイメージをコンセプトと呼ぶ。これも「仮想の中心」のことであり、周辺(=外部との接点・インターフェイス)で具現化する諸要素を 制御する方式 と その内実 のことを意味している。
全体コンセプトとしては神話(物語)が4つに分類されることから「喜劇・ラブロマンス・悲劇・アイロニー」の4つが根本的なコンセプトとして規定されていると思われる。悲劇的英雄譚、喜劇風ミステリ、といった運用になると考えられ、単色での運用ではなく割合(%)で処理されているのだろう。
部分コンセプトは「近未来風」「江戸時代風」「ドラクエ風」といったように「〜風」と付けて、他者と認識が共通できればどんなものでも可能だと思われる。一応「もきょぺニュ風」といった不可解なコンセプトも可能は可能なのだが、結果的に他者(共同作業者や観客)とイメージを共有することが困難になるのであまり意味がないと考えられる。
 
●風刺
世相〜時代を反映させる機能を強化するための概念。例としてはバクマンによるジャンプ批判など。
作品内の状況を利用するものと、時代的な状況を利用するものとに大別される。時間経過によって古い表現になり易い部分はあるかもしれない。
作品(物語)自体がそもそも「自己を投影する鏡」としての機能を持つことから、風刺は機能強化のための副次的ものと考えられる。
 
●置き換え表現
表象:何かの代理として記号表現が機能すること。記号表現が何かを代行すること
メタファー:物事のある側面をより具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する。
 
具体的・厳密な違いがどうなっているかはともかく、別のものを使って表現する辺りは同じものの違う言い方だと思われ。アレゴリーなんかも近い意味合いを持つ。オノマトペ(擬音語・擬声語・擬態語→「ドキドキ」とか「ゴゴゴゴ」「メメタァ」「ガカァ!」など)も抽象性の具現化として頻繁に使われている。
日本では「察するのが美徳」といった観念もあってか、隠喩や間接表現の類いは高い想像性・高度な表現として優遇される傾向にある。(「ほんとう」のことは秘められているといった観念のため)……置換表現と書いてしまうと論理集合だのの用語に引っ掛かってしまうので以下略。
 
●音の効果
映像作品の場合は特にサウンドエフェクトで臨場感を作る効果が大きい。ゲームではレベルアップの音やアイテムを手に入れた時の「抽象的な音」も有効に活用されている。
聞える音ばかりではなく音が聞えないことも音の効果として演出される。また、窓を閉めた時に音が聞えにくくなってマイク(もしくは耳)が締め出される演出などもある。
 
●音という時間
漫画の場合、とある1コマに時間は存在していない。しかし、セリフが連続する場合には「セリフの自然な速度」がそのコマにとどまる時間を決定し、読者は脳内でセリフの速度に修正しながら読むことになる。聴覚系。
(ただし、実際に発声されたものと聞き比べるとまったく同一というわけではなく、本来必要なセリフの「間」を省いて読んでいたりする。)
 
●音による動作
本来は無心による身体制御で「身をゆだねる」ことで生まれる高速の身体制御が「音によって動かされる」という動作系として認識され易い。演奏やダンスなど運動に音楽を介在させ「音に身をゆだね」て無心に近い状態となって動作を制御しているのが観察される。
 
●描写と語り<ミメーシス(模倣)・ディエゲーシス(叙述)><showing・telling>
「描写」は細部の再現や台詞など。リアルタイム的で時間は比較的ゆっくりと流れる。「語り」は要約や説明のことで、時間は素早く経過する。
例えばジブリ作品では最初に風景や景観をゆったりと描写することで、説明はせずに視聴者に語りを委ね、自分で自分に説明をさせることで説得力のある表現を行っている。いわゆる「百聞(語り)は一見(描写)にしかず」の方法論といえるだろう。
 
●ポーズとリセット
物語の時間管理法として広く一般的に観察されるもの。
まず描写されることによって対象キャラの時間は経過している。ここからポーズとは、逆に描写されないキャラの時間が停止してしまう(ポーズ状態)ことを指す概念。シーンの切り替えやポーズ状態中のキャラに対する工夫、マクロ時間との同期などの応用がある。
リセットは日本語では「中断」や「元に戻す」のニュアンスが強いが、再配置(リ・セット)の意味を持つ。物語の論理的な連続性を一端中断し、再配置を掛けること。例えば「朝チュン」なども途中の描写を中断(カット)し、事後(笑)の状態で再配置している。厳密にはカットだけしても論理的な連続性は継続するのでリセットにはならないが、状況として近似するので紹介した。
主に突発的なイベントの発生等、様々な状況で物語の連続性がリセットされる現象を捉えるための概念。目的が変更されるなどする。伏線は逆にリセットによる論理的な断絶を事前に予告したり、断絶する論理を再接続するための装置と見做すことができる。
 
●記憶と環境、索引性
高齢者が引越しをすると、過去の記憶に関するエピソードを思い出す機会の多くが失われてしまうと言う。記憶は外部化する。「思い出の場所」に行ったり、「思い出の曲」を聴くと、その時、そこでどんなことがあったかを思い出しやすくなる。これは検索性に相当している。つまり、住み慣れた我が家というものは、多くのエピソードを秘めた「検索の集合」ということが言える。記憶という時間は、場所に重なることで存在している。
特に本であれば、個性的な表紙はその本を読んだかどうか、その時の感情などを思い出し易くする。書店でもらう紙のカバーなどはさっさと外してしまおう。それだけで何度も中身を確認する手間を省くことができ、同じ本を2度・3度と購入する無駄を省くことにも繋がる。(汚れるのが嫌な場合、安価なビニール製カバーを入手する方法を強く推奨する。)
 
○反蔵書
通常であれば個人の蔵書というものはその人が何を読んだのか?を示すものだが、反蔵書の場合は「読んでいない本」がそこに並ぶ。道具としての知識は、必要になるまでは知る必要がないため。調査用。
 
●ハレとケ
ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」。ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表す。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。
一応、用語として押さえておきたい。
 
●割窓理論
犯罪を爆発的に感染させる臨界点は、ラクガキや窓が割れていること、無賃乗車、といった軽犯罪にあった。ゴミが散乱していたり、窓が割れているということはその場所が「誰にも管理されていない」ということを示しており、このシチュエーションに人間が反応し、一気に無秩序化する。ニューヨークの地下鉄の例では殺人などの重犯罪ではなく、軽犯罪を取り締まることで結果的に重犯罪も防ぐことに繋がった。(つまり効率論的に見て解決法が「逆転していること」に注意しなければならない。故にティッピングポイント。)
ハインリッヒの法則
労働災害における経験則の一つ。1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在するというもの。
 
聖地巡礼/文学散歩/好物
作品内で使われたロケーションを追体験することや、その場所の特定などを含めた遊び。もっと言えば、登場人物の好物(ラザニアやドラ焼きなど)を食べることも本質的に考えて聖地巡礼に等しい行為といえるだろう。
基本的に感情移入に分類される行為だと考えられるが、現実の持つ情報量の大きさが何らかのメタ性も刺激しているように思えてならない。史跡巡りなどは時間超越的なメタ的行為でもあって「未来という時制に立つ自分」を外観することになる。同様な要件がアニメ聖地巡礼でも成立していると考えられる。
 
 
●公私の空間(パブリック・プライベート)
公的(パブリック)な場所と私的な場所、その他にも聖域や立ち入り禁止の場所などがある。
家の中のようなもともとプライベートな空間であっても、「廊下」と「個室」の関係はパブリックとプライベートになっている。トイレのドアを開けっ放しだったり、風呂上りにハダカで冷蔵庫まで当たり前のように歩いたりする家もあれば、その逆もある。
それぞれの場所で行われる「行為」は、その場所の属性(文脈・コンテクスト)によって、一致/不一致が判断される。廊下で着替えるのはおかしな行為であるが、ドアを1歩隔てた室内であればその違和感は消える。プライベート空間で人は狂態を演じてしまう。「風呂上り」といった曖昧な時間の区切り方によっても空間的領域を広げる効果があることが言える。(どっちにしても委員長タイプの「ちゃんとしたい人」がいなければズルズルしても単に汚らしく・だらしないだけで、ちっとも面白くなどならないのだが)
ちなみに、
プライバシー権は、憲法13条 …………「すべての国民は,個人として尊重される。生命,自由及び幸福追求に対する国民の権利については,公共の福祉に反しない限り,立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする。」
近年のプライバシーに対する認識は行き過ぎの感がある。なんでもかんでもプライバシーがどうのと言いたがる風潮は「自由の確保」というよりも単なるヒステリーだろう。
個人情報保護に関しても同じで「個人が特定できない情報」に関してはそれを知っても違反とは言えないし、言わない。(「名前だけ」では個人の特定ができない。詳細な住所が入ると完全にNGだけど)
 
○越境
何がしかの境界(日常/非日常など)を越えることを越境と呼ぷ。基本的に誕生で越境し、死で再越境して帰って行く。物語とは生きながらにして死の世界へと旅立ち、生の世界へと戻っていく冒険として描かれるたりする。これら越境にはインパクトの有無があり、抵抗意識をどう考えるべきかが問題となる。経験者は慣れ・拡大した認識・哲学性などを持って楽々と越境し、これから越境しようとする者を導くことがある。そうでなければ、本人が無謀・無茶・好奇心・憧れなどで境界を飛び出すことになる。境界の捉え方の違いを描くことでもコントラストが生まれる。
例1:潜在的に禁止された場所(親に越えてはいけないと指示された「道路」や「歓楽街」のような大人の遊び場等)や、死を連想させる場所(三途の川をイメージさせるものや、絶景ポイント等)が越境先となる。空間は「畏れ」などによって線引きされ、境界がつくられる。
例2:恋人ができるとキスやセックスなどの非日常的な行為が突如として日常化する。セックスは日常だと考える相手との認識の違いなどは一種の哲学性をもって描き出される。しかし照れや恥じらいがなくなると行為に対する興味も失われがち。魔法使いや妖精はHに夢を与えるという究極の魔法を使っていることになりそうだ。
例3:ドアを隔てて「内と外」を「本音と建前」に見立てた場合、ドアの開け/閉めを通じて越境するための門として機能させることになる。招き入れる以外にも、腕を掴んで引っ張り込んだり、背中を押したり、蹴り破ったり、忍び込んだりなどの様々な方法で出入りすることになる。
 
●絶景
まさしく圧倒されるからこそ絶景なのだと思われる。一部の風景は生存環境としてみれば完全に「死の世界」でしかない。また、高い場所からの景色には覗き込まずにいられないような引き込まれる錯覚も存在しているだろう。 その他にも「何らかの物語性」がその場所を特別なものにしていることも。この意味の「絶景に秘められた物語とは何か?」は個々人の翻訳能力に左右される。
 
●文脈からの落差
どこかで何がしかの「落差」と出遭った時に、自らの同調圧力の反転によってその落差を埋めようとするところに物語が生まれることがある(例:彼女はなぜ、あんなに寂しそうなのだろう? →説明欲求や妄想による補間 →物語へ)
ただしこれらは単なる衝動で終わりやすく、物語るには深さも考えも足りないことがしばしば見受けられる。要妄想力、というか周辺との関連付けとかの話かも。
 
○ピンチはチャンス!
ピンチという文脈こそが、チャンスを輝かせる。絶望にあって始めて希望は輝く。臆病だからこそ勇気は気高くなる。自分が価値のない存在だと思っていれば愛は奇跡になる。何もかも信じられない時にこそ、信じる心に救われもする。闇の中で輝く光。文脈的な落差とふり幅の利用、メリハリ。
 
●不便さが作り出す動機
例えば欲しい本が見当たらない場合、大きな本屋のある他の街に出かけていくことがある。不便さは動機となって、人に動きを作り出す。
 
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●どこまでが背景なのか?
背景や背後関係と思ったもの全てと、そこに関係する全てが背景論で扱う領域となります。つまり、全て、ですね。
 
●背景論の不必要性 → 読者に対する秘匿性
背景論は、一見の客である読者に気が付かれない →気を疲れさせない、という点まで含めて構成されるべきものだと思われます。この「見えるもの/見えないもの」の線引き・秘匿性は、同時に世界を広げる効果をもつと考えられるためです。(見える世界+見えない世界=全体的な世界)
 
●背景はただの「引き立て役」なのか?
古典的な主従関係で言えば、主役を食ってしまう脇役としての背景は失敗に分類されるのは当然のことですが、それらの成否は演出意図(目的)によって評価されるべきものでしょう。また、背景が常に脇役とも限りません。時に主役として十分に役目を果たす必要があったり、相互に影響していることで存在をアピールすることもあるでしょう。
 
●作品は作者のモノではない(?)
コンテクスト理論の最初の方に書かれていることでもありますが、ひとたび発表されてしまえば、その作品はもはや作者のモノではなくなってしまうのだと言います。解釈を他者にゆだねた時から、それぞれの作品の奥行きを決定するのは読者の「読み」だからかもしれません。故に、作者は自分の作品だからという理由で好き勝手することは許されなくなります。著作権の話も含めて心情的には難しい部分だと個人的には思うのですが、一応、常識の範疇として。
 
●俺にとってはツマラナイ
この作品はツマラナイっていうセリフは、(自分の認識・世界・思想からすると)この作品はツマラナイという意味であって、「自分の世界観こそが正しい」という部分を無自覚な根拠としています。ここに背景論の目指すべき工夫が隠れているように思われます。
批評行為とは、自分の世界観と作品の世界観という「世界観同士の対話」のようなものでしょう。そもそも世界観とは絶対的な知識量(世界設定)のことなどではなく、世界を観、聴き、感じることを意味しており、完成度の違いはあれど、その価値の上下が問題とはなりにくいはずです。世界設定を共有することと、世界観を共有することは違うものだと考えられます。
 

*1:芝村裕吏

*2:大塚英志

*3:マイマイ新子」なんかで4Dレベルの運用が見られる

*4:改善できるプログラムはいつまでも改善しようとし、いくらでも時間を使おうとする。見切りをつけて次に進むことをしようとしない。

*5:真の教師は多くの(生徒ではなく、)教師を生み出す。真の伝道師はたくさんの伝道師を生み出すだろう。