●竜殺し・神殺しの物語について(ある意味で人間殺し?)
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20111001
○ゾーンと、宗教の悟り・武道武術の悟り
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20111001/p2
○究極のセックスとは?(リア充の閲覧を禁ずる)
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20111001/p3
○質の高いオナニーについて
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20111001/p4
○解脱の話と、引き寄せのやり方。体験を求めよ!
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20111001/p5
 
 
ガンダムのバストライン問題
ファーストガンダムの胸の形がやたらカッコイイ。大胸筋の理想形をロボットの形状に見ているらしい。ガンダムで画像を調べると、ちょっと弄っているファーストのデザインは胸のラインがカッコ悪くなってるものが多くて分かり易い。青い胸の装甲に光が当たって、ちょっと白くなってる感じのが猛烈にカッコイイね。この点に関しては、F91派の私ですらファーストの方がカッコイイと認めずにはいられない。
現代的でありつつ、Bラインはキチンと継承していかないとガンダムガンダム的格好良さは失われてしまうだろうね。
 
●キレイ・カワイイの基本的な話
女の子のキレイ・カワイイの話。絵でも子供の顔は寸詰まりに描かれ、大人の顔は面長に描かれます。ここからまずカワイイ属性で始まり、年齢と共に大人になって行くことからキレイ属性が混じっていきます。高校等のカワイイ+キレイ属性の時期が終わると、カワイイ属性が減って行き、キレイ属性が大きく残ることになります。これは傾向の話なので個人差があります。
 
カワイイ属性→(カワイイ属性+キレイ属性)→キレイ属性
 
高校ぐらいの女子は試練の時で、キレイ属性が混じってくる時に顔のラインが崩れることがよくあります。真の美少女ではキレイ・カワイイの奇跡的なブレンドが神がかった状態になることがあるのです。ガッキーこと新垣結衣がその典型例かと。ポッキーなベイベーの頃はキレイ+カワイイの割合が凄まじいことになっていたのでしょう。ダンスダンス編で見られたJK制服風ガッキーは究極クラスでした(それももはや2006年の話ですが)
キレイ+カワイイが上手く混じらなかった子たちも大学ぐらいでキレイ属性による反撃が始まるのですが、この頃に化粧をするようになるため、外見での判断は難しくなってしまいます。
 
○肉食の影響
菜食によって生理の時期が平均的に遅れることが言われているのですが、戦後は肉食によってかなり早くお赤飯を炊くことになっています。また肉食+高カロリーによって戦後の日本では背の高い子が増えたこともあります。別件のように見えますが、ロシア美少女の大幅な劣化が問題視されるのなんかも肉食などの文脈で見ていかなければいけないと思われます。アメリカ人も太った人がとても多いです。しかし、賢い子を育てるのに早い時期の肉食は脳に栄養が回るために効果があるとかいう話(ユダヤとか)もあったりしますね。何歳かまでに脂肪細胞の量が決まるだのの話もあるため難しいところです。
 
ジェンダーレス
まず大きな流れとして「男女の平等化」が背景にある話で、女性の社会的性別や役割、「女性らしさ」と従来言われていたものなどを選べるようにしようという話を大まかにジェンダーフリーと呼びます。ところが現実には単に女性らしさを失っただけの「女の成り損ない」みたいな女性が増えてしまいました。この現象を適当にジェンダーレスと呼ぶことにします。
女性らしく振舞うことは出来ず、かといって男というわけでもない。結果的に都合の良い時だけ女扱いを要求する化物みたいなのが増えてしまっています。ここで必要になるのが、肉食系男子と呼ばれる「男らしい男」の存在でした。男性側が男らしさを示すことにより、道化機能(下記)によってジェンダーレスの女性が女らしく振舞うことになります。この際に女らしく振舞った経験が無い場合はわたわたと慌てることになり、男性側が優位に立つことが出来るようにもなっています。女性が女性らしく振舞うには、強い男のせいという言い訳が必要です。この意味では女性らしく振舞いたいのに男が弱い場合にはいらいらすることになると思われます。
萌え文脈においても、恋愛経験に疎い女性キャラが「女の子(メス)化」してわたわたするシーンが良く発生しています。少女マンガであればこのメス化を「成長」と捉えることも。しかし、もしかすると時代(というかリアル)が追いついてきてしまっているため、もはや時代遅れ気味かな、とか思うところも。王道的古典になるといいですね。
なお、男側のジェンダーレスは草食系男子に始まり、さまざまなバリエーションが発生しているかもしれず。こっちは女性化が進行している気配もありつつーの、オタク世界ではフィギュアからドールに移行中?(苦笑) 女性よりよっぽど救い難いと思われます。
 
●役割に対する道化機能
ここで説明する「道化(どうけ)」や「道化化(どうけか)」ってのは、個人的な命名かもしれないんだけど、どうだったろうか。正確な辞書的名称は知らない。大まかな意味は空いている役割を見つけると、それを誰かが演じようとしてしまうこと。トランプでジョーカーはオールマイティーだったりしてペアを成立させるってイメージなど。
「……これでは道化だよ」
 
 
●ランキングと体系化
オススメマンガやラノベなどを知るための方法としては、大きくランキングか体系化に分類されると思う。ランキングは多人数による人気投票。体系化とは哲学に対する哲学史といった具合に価値付けを行うことを意味する。
中間的なものとしては口コミやブログでの紹介記事(個人ランキング)、データベース化やマッピングなどがある。データベース化は情報の羅列である。マッピングは位置情報はあるが上流・下流といった価値付けが弱い体系化と羅列の中間的なものになる。
 
結論的に一極化する傾向が強まっていることから、最高度のもの以外には興味がない人達が増幅しやすい。アマゾン型のロングテールではニッチ需要も喚起されると言われているが結論は分からない。とりあえずはジャンルの細分化を進めて頂点を複数化して対応することになる。
 
●豪快な脱臼
もう国技でもなんでもなくなってしまった相撲の基本的な見方に関して。
基本は重心操作にある。体育の授業なんかではマワシを取って、脇をさして、頭を肩口に付けるような3点を押さえてから押す方法を教えているんだけど、そうしないと本当はぐにゃぐにゃで押せなかったのだよね。これは重心をズラせていたからなのだ。現在ではそんなことが出来る人はいなくなってしまっているし、何故そんなことを教える必要があるのか教える側も全然分かってなかったりする。意味のない技術論になってしまってんだよね。
投げを打つ場合も、小さく投げるのが巧い投げ技になる。しかし「豪快な上手投げ!」みたいなテレビの実況でも判る通り、評価言語のレベル低下のせいもあって、もうどうにもならない。あの豪快な〜ってのを始めに言ったヤツは犯罪レベルのド低脳だった。大きく豪快に投げようとすると肩がロックされ、遠心力が掛かって脱臼しやすくなる。千代の富士は下手だったので肩を脱臼しまくっていたのだ。それを防ぐために、筋トレで鎧のように肩を鍛えて耐えようとしていたわけだ。
この時代背景には外国人力士の台頭がある。小錦みたいな巨漢力士の登場と、アメリカ的なスポーツ科学によるスピード×パワー至上主義という時代の流れだ。120キロ〜150キロ相手に通用した技でも、200キロ〜250キロ相手には通用しなかったりする。それは技の強度問題であり、本来は更に技を磨くための負荷となるべきところだったのに、重さにパワーで対抗しようとしてしまった。それが「豪快な上手投げ!!」→肩脱臼の正体なのだ。
巧い投げ技は、小さく投げる必要がある。小さく投げるには自分が邪魔になる。自分に向かって投げる。しかし、自分がそこに立っていて邪魔だ。そこで足捌きが重要になってくる。自分に向かって投げるが、自分が立っていたのにいつの間にか「居なくなる」ことによって支えを失って、相手が倒れるというのが巧い投げ技なのだろう。
認識論として見ると、相撲好きを自称するド素人どもが「表面的なものの見方」しかしないことに原因がある。豪快な上手投げだとか、筋肉だとか、巨漢力士のツッパリぷっしゅぷっしゅ、みたいなものが大好き。そんなことぐらいしか見てても分からないから。
しかし、本来の相撲の技術論は、深い技術・深い認識に裏付けされていなければならなかった。重心操作みたいな外からじゃ分かりにくいものがその中心にあり、投げ技も小さくてどうして転ぶのか分からないようなものが巧さだったのだ。
運動の世界ではパフォーマンスレベルが歴史・時間と共に向上しているものばかりではないのです。どんどん廃れていってる分野もまた多かったりします。
 
●ゼロ加速
コーナーリングのドライビングテクニックの話で「減速・加速」の2区分じゃなくて「減速・ゼロ加速・加速」の3区分になるのだそうな。だけどゲームのコントローラーだとアクセルをボタンでやっている場合このゼロ加速を再現するのは難しいかもしれないね。
ゼロ加速とは、大雑把にはコーナーリング時に速度を維持すること。加速しないのでゼロ加速。コーナーごとに必要となるタイヤのグリップ力は変化する。コーナーへの侵入速度に始まり、天候条件やタイヤの消耗、車体の重量バランスなどによってもコーナーを回りきることの出来るグリップ力は変化する。最速でコーナーリングしたい場合、減速は最小限に抑える必要から、なるべく高い速度を維持しておきたい。そのための概念としてのゼロ加速。
 
●花粉症対策(HSP入浴法)
HSP(Heat Shock Protein)を刺激する入浴法は、厳密にやらないと効果が出ないっぽいのよね。

42℃のお湯に途中で休んでもいいので合計10分入浴。(フタを閉めると更に効果的)また、41℃で15分、40℃で20分でもOKです。さらに入浴後は布団・サウナスーツなどで15〜20分保温すると効果的です。
HSP入浴法は週に2日がベストです。4〜5週間続けると慣れが出てHPSが下がってしまいます。
世界一受けたい授業 のHPより)

 
前提条件がいくつか有るんだけども、入浴法だけなら上記の通り。
お風呂に温度計がない場合、私は肌が痛いぐらいにして入っている。蒸す工程は特に重要。肩までしっかり毛布などでくるむこと。寝てしまい易いので、何か面白いものを用意しておくとよい。(ゲームとかマンガとか)
 
前提条件として、まず部屋の温度管理から始まる。
コップの水にたとえると、コップに穴があいててちょろちょろと水が漏れている。普通に考えれば穴を塞げばいいとなるのだけども、「室温の話」になった途端に、コップの穴を塞がずに、水を継ぎ足せばいいや!となってしまうものだったりする。
部屋を温めるということは、まず部屋の温度を逃がさないようにすることが大事。どうして寒くなるのか?を考えて、対策を取ること。窓が寒い場合、プチプチを貼ったりするだけでも効果がある。冬であれば、日中の日差しを取り込み、夜になったらその熱を逃がさないようにするってのが基本。 
これは自然に節電の話にもなってしまうのだ。夏は本当に難しいのだけど、冷房の冷気を逃がさないようにする部分では同じ。ただし、断熱材は火事になった時に部屋の温度を一気に上げてしまうだとかの話があるので、そこいら辺は注意が必要。たばことかタバコとか煙草が問題やね。
それから、ホットカーペットや電気毛布なんかを日常的に使っている場合、からだの体温調整機能が死んでる可能性がある。からだを発熱させるのはカロリー以前に筋肉が必要なんだけど、筋肉があったとしても体温調整機能を殺してたら意味がない。ちょっとショックを与えてやらなきゃならないのだが、症状の度合いってものがあるので、一律にどうすればいいかとかは書けない。簡単なのは水風呂とかね。
 
うまくやれば、二日後になぜか自分の周囲だけ花粉が飛ばなくなる。自分が上手く行っても言い触らさないこと。最低でも口止めを推奨。
 
 
脳トレ
足裏を手揉みするのが基本。理由とかはいちいち書かないけど、一発で納得できなかった人は単純に勉強不足。青竹踏みとか、フットマッサージよりも自分で揉むのが効果的。爪を切ろう。
按摩とかフットマッサージの利用法を注意事項として書いておくけど、まず贅沢だと知ること。次にお金を払うからって患者やお客さんで居てはダメ。生徒になったつもりで勉強させてもらうのが一番効果がある。手技を一手づつ堪能するべし。これは自分で足裏を揉んでいないと勉強にしたって身が入らないので、普段から自分で揉んでおくこと。
普通に生きてたら、あんまり脳トレが必要になんかならないけどね。
  
 
●「人数」を選ぶか「人権」を選ぶべきか。
サンデルの哲学とか触りだけで興味を失っているんで中途半端だけど、これを物語に落とし込んだら悲劇にしかならないのでどうでもいいよなぁ、と。清く正しい一人を選ぶか、人間のクズ10人を救うか?いいや、10人じゃ足りないだろ。冤罪の可能性のあるヤツも含めて100人単位ぐらいからやっと葛藤になるんじゃない? いやいや、そうすると今度は単に清く正しいだけじゃダメかも。彼だけが全員を救おうとしているのに、それを敢えて犠牲者に選んでしまうようなパターンとかね。人間って美しい犠牲とかの話が好きだもんね。それとか醜さを本性とかなんか暴いたつもりになって勝ち誇るのとか大好きだし。
まぁ、映画『ダークナイト』の場合は、クズの側に決戦存在が現れたんだがな。
 
●敵は何処にいるのか?
最後の敵はマスコミになるのかな?とか思ってたりする。偏向報道で一部分だけを切り取って悪意ある形で大衆を敵にさせられる展開とかね。これに対抗するには自分を録画し続け、全体的な映像記録を残しておくことにある。……この順番で説明すれば別に普通のことしか書いてないのだけど、マスコミの標的にされる前から自分を録画してたら余程のナルシーとか言われるし、自分を録画しておくべきだ!みたいなことを説明してもプライバシーの侵害だのなんだのと意味の通らない文句をつけ始めるだろうね。かように人類に足りないものは叡智なんだけども、それはともかく。
 
「頑張り過ぎる事」が敵になりそうな気配。マジメはこじらせると自治厨になって誰かを攻撃したりすることになったりする。一生懸命に働くことはそりゃ正しいのだろうけど、「一生懸命に働かない人は悪人」みたいな決め付けをする動機にもなってしまう。
団塊の世代的な根性論の持ち主を敵役に配置して、新世代の頑張り過ぎないことの結果的な正しさを物語に落とし込み、社会に余力を持たせる方向とかね。
いや、今だと人口比の高い老人の喜びそうな展開にしか作れないだろうから、新世代の正しさが通用しない事態を持ってきて、根性論の方が正しい!とかやる方が老人には受けそうではある。だからってそっちにあわせてたらドン詰まりのハズなのだけど。
 
「モンスター」の件もここに書いておきたい。モンスターペアレント、〜ペイシェント、〜チルドレンなどでおなじみとなった「怪物」としてくくられる似たような傾向のこと。自己中心的、空気を読まず、自分の都合を優先し、自分は悪くないと思っている。文明人に対する野蛮人でもある。苛烈な攻撃衝動を持ち、手加減しないで徹底的に叩き潰しに行く非人間。
対話不能性がその根拠なので、対話(や交渉)が可能ならモンスターではないのだと思われる。
 
 
●Why→What→How マイルストーン1,2,3
なぜそれをするのか、何をするのか、どうやるのか?の順に考えるやり方のことで、タイプ分類にも使える。マイルストーン1,2,3ってのは、目的達成までの行動やらを3段階に分割すること。なるべく大きく考えて、それを小さく分割すること。
 Why型は行動よりも「それは何故か?」を考えてしまうタイプで動き出しが鈍くなりがち。これまでのところ大きく世界を変えている(と思われている)のは、「根本的な問いかけ」なわけで、科学者や哲学者はWhy型の戦略を使って世界に名を残そうとしている。 何故?という疑問の仕方は 行動からみると前提部分に相当している。考えるのが面倒になると「返事がない、ただの屍のようだ」ってことになりがち。
 What型は「何をやるか?」で行動内容そのものを変更したがるタイプ。新しい手法を追い求める思考法など。古いやり方はそれだけでダメだ!とか考えたりしがちなのが弱点。Whyから連続しないとあまり意味がないのだけど、What型の強迫観念は便利っちゃあ便利。たぶん別の戦略(チワワ)の一部だけど、その辺りは別の機会に。
 How型は行動そのものは同じで、やり方に対するコダワリ(質的なもの)を追い求める思考法。How to本はその意味ではWhat型の意味合いが強い。深く追求していくと制御方法だとかの話になるので、システムとは何か?みたいな問いかけに戻ったり。どうしようもなく深い断絶を生み出してしまう領域。
 
●断絶と延長と変化
70になったやり方を「延長」しても、100には成れない。
100になるには、70のやり方を捨てて、100になるやり方をしなければならない。(安田佳生さんの著作だったと思う)創造的破壊?
 
●熟練を阻むもの……完成
努力による成長よりも早く答えそのものが分かってしまうと、努力を持続することが難しくなる。熟練者とは答えに辿り着かない人々であり、答えに満足しない人々でもある。(3.0の意訳)
 
 
●自分がやりがちな批判についての覚書き
例:Angel Beats! のユイが消える部分に関して
本質的な問題はユイ自身の価値観(結婚は女の究極の幸せ)にある。ところが物語であることから、キャラの価値観(や人権)を無視したり、脚本に問題があると決め付けたりすることができてしまう。
ユイ自身の価値観を否定できないとした場合でも、日向の口説き方であったり「障害者に対する配慮」や「フェミニズムを盾に」する様な形で嘴を突っ込むことができたりする。(→月光条例のサクシャに物語を変えさせようとする展開と比較すべき)
物語は(常に)理想を描かなければならないのか?という部分や、結局は現実に対する不満でしかないものを物語の批判にかこつけて愚痴ってしまう考え方は、あまり良くない様に思う。正解とは、決して理想的ではなくても、その人物の価値観で決定されるものの様に思える。ただポイントになるのは既存の価値観そのものが「あまり面白くない」と言う事の扱いなのかも…………。
 
疲労回復
疲労度に対応して、水分→糖分→クエン酸(すっぱいもの)→塩分→寝る の順で補給するのが有効。ただし、いきなり寝るのはアリだけど、いきなり塩分とってもそんなに回復が実感されないので念のため。
 
●隠蔽論のメソッド
Aの代わりにBを行った場合、それが単に代替案だったとしても、B案を使うことでAを隠蔽したのだ! な、なんだ(ry とか看破する方法がある。とてもカッチョイイことを言っている気分に。ついでに隠蔽されることによって、なんだか本質っぽく見えるようになる。これからは隠蔽論の時代ですよ!
例:A「ストーリーの定型性」を打破するための方法として B「キャラが立つ」ことを目指した。しかしたちまちの内に定型に回収され、派手なキャラはストーリーの古臭さを隠蔽する目的に摩り替えられてしまっている、等。
 
陰謀論のメソッド
全てはゼーレのシナリオ通り。突然に人が死んだら暗殺されたのだと疑わなければならない。歴史は全て都合よく書き換えられていて我々には真実を知ることはできない…………!
 
 
●涙と“空っぽ”の解釈
怒りや悲しみのような負の感情は溜め込んでしまうとこじらせてしまう。そのため、酷くなる前に吐き出してしまうやり方がある。ガーっと怒りを表現したり、一気にうわっと泣いてしまうと「からっぽ」になり、とても気持ち良くなれる。からっぽのあったかさ、等もある。言ってしまえばマイナスがゼロに戻る時の落差でスッキリするものなのだが「この時の解釈」はまた別の問題だったりもする。
例えば、恋人のことで悩んでいる(悲しみを溜め込んでいる)女の子をワザと泣かせたりすると「まだ好きだからこんなに泣けるんだ」的な解釈になったりして、泣いたことによる「気持ち良さ」を別の何かと取り違えることも……。相手が悲しみに溺れないようにと手を回したつもりでも、否、だからこそ相手に利する行為が自分に利するとは限らないという自覚の上で、それでも動けなきゃならないのだろう。
 
●本性をさらせ、裸になるのを怖れるな!の件
難しい人とそうじゃない人とがいるよなぁ(苦笑) ベッドでぐらい裸になれというか。
他者による自己理解にはアピールが必要になるけれど、以下次号。
 
●自発性
「人から評価されるまで待て、自分からアピールするな」の件。自分から言い出したのでは格好がつかないことも多く、真実の共有はプライドの問題を抜きにしても色々と難しい。
「人に発見させる」ように誘導するには、陽否陰述の記述法を使う。つまり直接的には描かない。勉強でも自主性を重んじるがどうのこうのと言う様に、自分で発見させるところまでをコントロールしていくことになる。自発性をインスタントに刺激するにはリドル(謎掛け)が有効かなぁ。相手の資質に拠るんでなんとも言い難い。
複数人での対話形式でも描かれていない中心的意見を読者が代弁する、のかもね。
  
●自己言及
自己言及性を心掛けておくと、あまり他者批判が厳しくならずに済む。大体、みんな似たような失敗をやらかして来ているわけで、過去の自分の失敗を忘れて他者に厳しくするのはイカンぞ、と。
批判をする場合、自己を「神の視点」にポジショニングさせて批判の対象外にすると「責任逃れ」の手法に成り易い。一方で自己言及性が強すぎれば自己卑下になり易く、いちいち何事かを言うためには「資格が必要」みたいな事になってしまう。
神の視点は「発言する資格」の必要性から解放されるための手段なのだが、自己言及性とのバランスを取っておかないと実現不可能な理想論に飛び付くことになりがち。それから「資格が無いから言えない」のならば、言えないままでいればいいのだ。それは「潜在的に正義の裏付け(=権力!)」が必要な意見であって、暴論だと告白しているのに等しいのだから。
自己卑下や発言許可を求める謙虚さなんかは「かまってちゃん」みたいな人間関係上の戦略的行動の場合があるから別レイヤー。
 
●自己組織化
組織運用などにおいて自分で全てコントロールしようとするのは効率が悪いとかの話を含む。(自分1人だけペアで取り残される妄想は定番だけどね)(おいやめろ)
 
 
●ありがとうは感謝の言葉
何気なく使っているといつの間にか「挨拶」になってしまったりする。(「挨拶化」の罠)
感謝は結果に先行する(アプリオリ)とされ、未来に於いて感謝されるという結果をもたらすために、先行して願いが叶うなどと言われる。……だから、先に感謝しておけば、願いが叶い易くなると言う。遡及的因果から通常の因果関係へシフトさせろってことなんだけど、半分でも意味が分かったら凄いと思う(苦笑) 俺もワカンネ。
神の贈り物はそれを望むよりも早いというけど、これはしょっちゅうある。無いモノねだりするよりも「手に入ったもの」を大事にすれば良いと言うことになるのだろうね。
 
●いのり
って何だろうね? 俺にはワカランかったよ。現実を受容することかなぁ。
 
●時間感覚の操作
ニュートンの世界だと時間や空間は絶対的で歪まなかったのだけれど、アインシュタインの世界だと光速度不変によって時空間を歪めて辻褄を合わせている。故に、主観時間を絶対化させ、外部時間を相対化させるのがここでいう時間感覚の操作だということになる。
やり方は、現在という「この一瞬」になるべく長く踏み止まる様にするだけ。速く動こうとする(←ニュートン式)と、次の瞬間へと(からっぽのままで)移動したがってしまうのだ。「速く動こうとしてはいけない。」
楽しい時間は飛ぶように過ぎ去ってしまうが、針のムシロのように苦しい時間は何時まで経っても終わらないものだ。時間の充溢は疲れるし苦しい。苦しみですら己の武器とせよ。
 
○高速思考
無限思考になり易いので、フレームワーク必須。ソナーと一緒で拡散しっぱなしだと手応えがなくなってしまう。そしてそのフレームに思考が制限される。ここが肝だろう。
ちょうど超伝導みたいなもので、思考は摩擦熱を発して、知恵熱みたいなものを引き起こす。だから冷却力勝負みたいなところがある(情報量での勝負が許される戦略戦ばかりでは無いので)しかし冷却機能なんてロクに無いので、またもや厨二病的な能力を使うハメになる。いわゆる一つの外気功です。上天の気を取り込むのです。上軸で宇宙の冷たさをダイレクトに引っ張り込むのです(うわぁ〜ホンモノさんだよぉ)(だまれ)
脳は効率の悪いモジュールらしくて、身体はすぐにショートカットさせたがる(手癖とか怒ると手が出たりとか)けれど、そうも言ってられないのよね。(わたしゃ直ぐに無心とか言い始めちゃうんだけどなw)
 
○確実な速さ
残念ながら詳細は不明の不思議なはやさ。仮説としては、自分は急いでいるつもりでも普段のそれよりもそれほど時を稼げていないのかもしれない。結果、確実さによるロスの小ささがウサギと亀的な効果によって…………? んー、スコアを付けにくいので測定方法か評価方法の問題の可能性も?
しかし亀ってのは言い得て妙かもしれない。A→B→Cだとすると、通常のウサギ的速さはABCそのものが速く、亀的な速さはAB間、BC間の繋がりや連携(→部分)が速いというイメージ。
 
●メタ時間
時間を外部から眺められたらちょうどYoutubeとか映像ソフトの「再生機能」みたいな感じに見えるだろう。再生しようと思えば1秒ずつ1瞬ずつ再生される。タイムバーを動かせばその分だけ自由に時間を操作できる。神の創った映像ソフトならば、そのタイムバーは左右だけにしか動かないだなんてつまらないものにはならないと思う。上下左右に前後ぐらいまでは当然いけるっしょ。存在する全てはエネルギーであり、量子の波なのだ。次元タイムバー解釈ってね(苦笑)
これの一番大きな影響は、転生はあり得ないってことかも。過去の時間は完全に保存されている。なにせ「その時間」がそのまま別に存在しているのだから。よって我々は永遠に死ぬことがない。常に生きている時間がどこかに保存(?)されていることになる。
 
●ガイア <基調低音>
場の影響というべきか。主体は常に大地(ガイア)からの影響を受けている。我々は日常においてこれら基調低音の影響を自覚できない。普段、まるでフラットな状態に居るつもりであっても、見え方や感じ方自体が変化しているのだ。たまに外国に行くとその土地のものが物凄く美味しく感じることがあり、普段との差異から(内観やエネルギーに敏感であれば)自分が場の影響下に(常に)あったことを知ることができるだろう(これは風水などに繋がっていく) んー、個人的には箱根の山で妙に怒りっぽくなったり。地熱?マグマ?
 
●対置法 <脱構築
「A」があったとして、後から「B」を配置することで、二元論の両極化させるような意味で「対置させる」などと言ったり使ったりする。対置は脱構築的にそのものの意味を揺るがせる操作に使う。
中心/周辺、主/従、日常/非日常、正常/異常、男/女、のように要素を対置し、これを入れ替えるでもないし、合体させるでもなく、A要素の中にB要素が含まれていることを見せ、二項対立の二項性や対立性を揺るがせる。都会も昔は田舎だったと示したり、男性の中に女性性を見つけたり、日常の中にゾッとするほどの非日常性を見たり、変なものに対してさらなる変なものを対置してあたかも正常であったかのように意味を揺るがせてみたり。
二項対立させたまま一元論的な側面を見せるというべきか。二項のままでなければ、一元論的な要素を見せ付けてもインパクトが無いというべきか。