雑記(ジョーカー 許されざる捜査官)

  
ジョーカー 許されざる捜査官
正義を巡る物語と、その自己言及性。
 
堺雅人のテレビドラマなのだけど、見事につまらない展開で、あまりにつまらないもので考察なんぞかましてこっちで勝手に補間しないと気が済まないとかの話。
 
真剣に見てた訳じゃないんだけど、前半は何回か悪を裁いて、中盤は模倣犯が出てきてお前等のやってる事と何処が違うの?ってのをやって、後半は自分達の行為の正当性だとか自己言及性に対してぐちゃぐちゃやってお終い。外部に敵がいないから、自分達の行為に対して自己言及して罰するべきかどうか?とかそういう話になっちゃってる。
 
ここまでつまらないのって、何がいけないんだろうね。
 
暴れん坊将軍の場合、ピラミッドが3段になってて、将軍が一番上、悪事を働く連中は2段目(将軍の顔を見る機会のある立場)で、最後は民衆になってる。悪代官とかが民を苦しめてて、将軍吉宗が悪事を裏で裁くわけだ。でも冷静に見れば、違法捜査でこっそりバッサリってパターンなんだよね(笑) そして悪事を働いてたらどんなに惜しいキャラでも大半が死ぬ。
水戸黄門との違いは、黄門様の正体が明らかになった途端にお縄に付いてしまうこと(笑) 黄門様にはみんな従うけど、将軍には誰も従わないで殺陣のシーンになるっていう(苦笑)
 
必殺仕事人シリーズは殆ど見てないから分からないけど、まぁ違法に殺しちゃうんだろうね。
 
ジャック・バウアーの「24」の場合は、テロの緊急性が最大限に優先されてて、ジャックの違法行為(拷問とか)を本人も正しいことだとは思っちゃいないんだけど、パターンとしては他のキャラから責められちゃう。だけどテロを引き起こす「外部の敵」がいる事で、ジャックがそういう違法行為をしなかったらテロが成功して多数の死者が出たりすることになるわけだ。
組織内部のそれらが抵抗勢力(内的抵抗)としてジャックの行動を阻むのだけど、因果的に、内的抵抗はテロの成功にストレートに結びついてしまう。メタ視をしている視聴者にはそういう風に見える様になっているわけだ。結果的にジャックは違法行為をしてでもテロの妨害をせざるを得ない。それら違法行為による罰が主人公補正で守られているジャック(1シーズンで3つぐらい命があって2回ぐらい死んでるw)ではなく、その家族や友人達に降りかかってしまう。
 
ジョーカー 許されざる捜査官』が直接的につまらない理由は、たぶん相対的なものだと思う。絶対的な理由を指定することは出来そうにない。それでも指摘できそうな部分といえば、悪を放置して自分達の行為の正当性なんかを声高に言い立てているからだろう。それでも主人公達は違法行為を止めなかった。そこは評価できると思う。それと仲間のやっていた悪事を法で裁いたのもちょっと技アリに感じたけどね。
 
最後の杏と堺が対峙するシーンなのだけど、表と裏の刑事の対比になっている。
これって織田裕二の『踊る大捜査線』と比較するとちょっと面白くみえる。「踊る〜」の方は、織田雄二柳葉敏郎の対比をやってて、現場のペーペー刑事と、警視庁のエリートの構図なわけだ。この場合、縦軸にヒラとエリート、横軸に違法と合法で四象限が作れそうなのだ。同時に、日本の刑事ドラマは悪人が弱いことも見えてくる。ドラマを作る場合の敵との強い対立構造が見えてこない。倒しちゃえば出てこなくなるから、悪人が使い捨てなんだろうけど、脅威度が低いというのかな。
 
倒すべき悪が弱いから、強い正義が育たない。そういう土壌がない。この場合、西武警察みたいに派手な戦闘シーンでもやって、悪をこれでもか!と叩きのめす方がいいのかもね。なんとなく爆発してると敵が強いっぽく見えた時代なんだろうけどさぁ。
 
自分のやっていることは正義ではないかもしれない、けれど、どうしても必要な行為なんだ!という説得力を作るのは、やはり外部の悪でしかありえないのだろう。テレビを見ていて、もうちょっと捜査が上手くやれれば法で裁けんじゃねーの?とか思ってしまう(苦笑)
 
暴れん坊将軍だと違法捜査がそうは見えなくなる。バットマンの映画「ダークナイト」だと、電話の盗聴なんかを違法捜査だ!と味方に告発されちゃうんだけど、それでも敵を倒すためにバットマンはやり通すことになる。殺人以外の違法行為はなんでもござれだものね。
 
逆にCSIシリーズみたいな科学捜査ドラマの場合みたいに、現代の犯罪はどう頑張っても証拠が残ってしまうとかって方が犯罪抑止には効果があるような気がしてしまう。
 
映画『それでもボクはやってない』のように裁判が稚拙って方向も本来的にセットなわけだけど、テーマを絞りすぎているのか、そういう問題に焦点を当てることはできないから、結局は中味の薄いカルピスになってしまっているのかもしれないねぇ。キムタクの「HERO」はここに当てられたパッチだったりするから面白い。まぁ、構造的には弁護士ものに対するアンチなんだろうけど。
 
杏みたいな表の刑事役が、裏の刑事を必要悪?として許容する辺りの説得力がないんだよなぁ。その辺りも気が付いているのに放置していいのか?という問題もあるだろうし、違法行為をしてでも悪人を裁きたいという傲慢な欲求(錦戸の役が微妙にこの方向)と、自分が汚れ役にはなりたくないだけなのでは?みたいな部分との葛藤もあるだろうし、実際のところ表の刑事の方が清濁を併せ呑まなければならないように思えるんだよねぇ。
 
使い捨ての悪人達が構造性をもっていないのも問題なのかも。
それぞれのケースの悪としての根拠が、被害者の悲しみだとかの負の感情なのがいけないのかな?
 
 
関係ないけど、
押尾の裁判って、さっさと刑務所行けよクズが!とは思うんだけど、被害者のホステスだってクスリやって楽しんでたビッチでしかないわけで、被害者家族が被害者ヅラして押尾が全て悪いとか言ってる報道を聞くと(部分的な報道の可能性もあるけど)本人の自業自得だろタコが!とか思っちまうわな。
もちろん、ジョーカーで押尾を裁く必要はないと思うよ、法律で裁くべきだから。
 
 
(……あの緯度・経度って聞き間違いじゃなかったら瀬戸内海か四国あたりの気が?)