雑記

 
 
●「財源は?」という論理
常に正しい道が分かっていて、財源が確保できている場合にだけ世の中が変わるのだとしたら、世界が変わる訳がない。
財源は未来にある。未来にしかない、というべきだろう。
 
こう書くと、たぶんキチガイの妄言と大差がないし、そう思われるのだろうけども。
見方を変えよう。勉強が嫌いな子がいるとする。勉強というか努力が嫌いなんだろうけど、やる気を引き出すにはどうすればいいだろうか?
 
答えは、成長させてやればいい。
やる気ってヤツは、成長した時にしか「出ない」仕組みになっている。努力とか勉強が嫌いなのに、その最初の一歩ぶん成長させるのはどうやるの?と言われても、出ない仕組みなんだから出ない。そこに工夫が必要なわけだ。騙まし討ちだろうが、遊び半分だろうが、なんだっていい。
 
逆にいえば勉強が出来る子ってのは、成長できるのが「分かっている」わけだ。だからちょっとの間ガマンができる。だってそうでしょ? ちょっとやれば成長できるって分かってんだもん。その成長のヨロコビを、未来から前借りして勉強だの努力だのができる。そうやっている。自分の頭がいいと思っているってことは、それだけのことなんよ。
逆に頭が悪いと思っている子は、ちょっとやったって上達・成長できないと思っている。苦痛は長く続き、報酬はなっかなか得られない。そう思っている。そういう選択をしているってこと。
しかも、勉強を教える側の連中はたいして頭なんか良くないから、美味しい処を後回しにしようとする。下手すると勉強の美味しさを知らないで教えてるのかもしれない。味覚オンチになっていないか? 「これ知らないなんてもったいないな〜」と思ってなきゃダメなんだよ。自分がいつ、教える側になるかわからないんだから。
 
では話を戻そう。若年層の貧困をどうにかする財源は? 財源なんかねーよ。
 
でも、世の中の大半はこういう仕組みだぜ。戦いは常に準備不足ってのも同じだ。準備する前に準備できてるわけないに決まっている。最初の一歩分のやる気は、現在にはないかもしれない。それが当たり前なんじゃねーの。
 
つまり「財源は?」という論理は、単なる言い訳だったり、現状維持を望んでいるってことにすぎないわけだ。
 
 
……でもまぁ、何にだって失敗のリスクはあるんだけどね(苦笑)
だいたい口先で良い事を言ってるヤツに乗っかろうとすると失敗ですよ(笑) だけど、全部が巧くいったり、全部が失敗ってことにはあんまりならない。成功すると分かっている部分と、そうでない部分とがある。成功すると分かっている部分を先にやるべきだろう。そうやって余力を作って、本丸にジリジリ詰め寄るわけですよ。すると、状況が動いたりする。その新しい条件を観察しながら〜ってなるものだろう。
正しい道、正解ってのは後になってから分かるものに過ぎない。
 
 
●ホワイトカラー3
天才イケメン詐欺師ニール・キャフリーの葛藤が、こんなにも甘く、爽やかで、切ないとは。
葛藤なんてのはたいてい究極の2択のようなもんで、鋭く突きつけられるとそれっぽく感じるのだけど、見てて疲れるというか。だから葛藤の持つ意味とか、本来あるべき物語の醍醐味から自分か離れていたのか?とか思ってしまったほどだ。すばらしい。
悪を主人公としたから現れる、「善への誘惑」。
 
アメリカなどの悪魔の描かれ方では、悪魔は誘惑する存在だ。日本だと悪魔を「人を殺す化け物」として登場させる。後で倒してスカッとするシーンを描こうとするからだけど、向こうの本式の悪魔は誘惑型だ。悪事は本人にやらせようとする。
正義の主人公を描くと、悪に誘惑されることになる。復讐するか法の裁きに委ねるか?といった二択では、どうしようもなく復讐という悪的な誘惑が描かれる。悪に誘惑される。
 
悪を主人公とした場合は、勧善懲悪ではないけれど、懲罰的な結果を突きつけようとしがちだ。正しい道が現れても、悪の主人公は悪を貫き、その結果として悲惨な結末へ向かう。もしくは悪を勝たせて終わりとかね。悪に対して悪魔は囁かない。善は誘惑などしなかった。
 
どうすればいいか分からなくなって、しゃがみこむニールの姿。素晴らしい。
比較すべきじゃないんだろうけど、日本のドラマのだっさいこと。文化の違いなのかなぁ。ホワイトカラーなんか、予算大したことなさそうなのにね。
 
 
●Gレコ
来週あたりからターンエーの展開になるのかな。でもこの見かたはつまらないか。