共通リアリティについて

 
 
●メディア間コンバートと、リアリティ、共感覚について。
私はアニメ化、ドラマ化といった、メディア間コンバートを話題として良く取り上げるのですが、京アニのような一部の成功例を除けば、一時に比べて遥かに良くなって来ているにしても、そんなに巧く行っているようには思えません。
 
アニメや漫画、小説、実写ドラマ、その他のメディアは表現技法を異にしています。それぞれのメディアには得意とする部分と、苦手とする部分があるように思われます。よりそのメディアの表現方法に特化した仕掛けをもつ作品であれば、他メディア化するのは難しくなってしまうのかも分かりません。
 
メディア間コンバートをすることを前提として作品を考えてみると、よりコンバートし易い作風で作品を作ればいいことを思いつくはずです。
 
用語を乱造しますが、マンガ・リアリティをアニメ・リアリティにコンバートするのなら、マンガ・リアリティに特化させず、「共通リアリティ」で作品を作ればよいことになるのでは?というものです。

 
もはやリアリティという用語は死んでいます。
この場合のリアリティとは、絵画の写実主義的な、写真のような現実性のことではありません。
インプレッション。破綻していないギリギリまでの範囲でデフォルメ(強調)させた、メディア特化型のリアリティのことです。「それらしく」辺りが適切な訳語でしょう。
 
 
マンガでそれらしいものを、アニメでそれらしくする。無理がありますね。だから、いったん共通的なそれらしさへと変換し、そこからアニメに再度変換する。たぶんそうしているか、それをしていないために失敗しているか、などだと思われます。
 
ここで問題は、その共通的なリアリティによって、ラノベだかマンガだかを描こうとすることは、その作品を傑作にする決め手となるのか?といった図々しい問題でしょう。小説の形式の良さを捨て、アニメ化されることを前提に作品を作る。それで名作になるのかどうか。
そんなのは作者のスタイルの問題でしょうから、向いてないものを作ってもダメだとは思いますが、やれる人は幾らでもいるんじゃないかと思います。
 
 
共感覚 ―視覚化と体性感覚化―
簡単に言うと、文章を映像にする場合には視覚化が行われています。
 
もう一歩踏み込むと、心情を描くのに視覚化を行うのでしょう。情動と呼ばれるもの、音楽を聴いたり、美味しいワインを飲んだときの感覚を、視覚化して表現しようとする。それが、アニメ化などのメディア間コンバートを行うときの基本的な考え方になるでしょう。怒ったら炎、悲しかった雨、孤独を表現するのに誰もいない四角い部屋だとかですね。
 
ですが、視覚表現化することによって、全て「安っぽく」なるでしょうね。理解できる形に落とし込むのだから、当然、理解できる程度に全てを区切って、切り捨てることになる。お約束が形成され、背景に心の炎だとか、美人を描くのに後ろに花だとかを配置するのがお約束になれば、薄っぺらい視覚化の完成です。様式美と言えば聞こえは良いけど、安直なパターンでしかありません。みんな同じことをすれば直ぐに飽きるでしょう。
 
なるべく体性感覚側に落とし込んでいかなければなりません。身体性を刺激していく作品を作らないと、どうでもいい絵の羅列でしかないのですからこれは当然というものです。
 
 
日本語には「身言葉」と呼ばれるものがあります。
 
例えば、身にしみる、目が肥える、耳が痛い、鼻を折る、口が滑る、手を切る、肩を持つ、胸が裂ける、腰が低い、腹が黒い、足が重い。
 
これらは一部です。身だの目だの手だので辞書を引くと、成句になっているものの多様性を見ることが出来るでしょう。これが、日本語の持つ力、日本人の才能の在り処です。
 
身にしみる。漬物ですか?
目が肥える。目が太ったのですか?
耳が痛い。耳鼻科に行くべきですね。
鼻を折る。軟骨の骨折ですね。
口が滑る。油っこいものでも食べましたか?
手を切る。痛そうですね?
肩を持つ。おんぶですか、だっこですか?
胸が裂ける。内臓が飛び出る?
腰が低い。しゃがんでいる?足が短い?
腹が黒い。内臓の病気ですか?
足が重い。太りましたか?
 
違いますよね、日本語が少しでも分かっていれば理解できる言葉ばっかりですよ。
 
 
あなた方は、身に沁みて理解なぞしていないのですよ。目が肥えていないからです。事実を言われたら耳が痛いですか?あなた方のプライドなど私にはどうでもいい。鼻っ柱を折られた気分はどうです?たしかに私は口が滑ったかも知れません。私とは手を切ってもいいですよ。肩を持っていただかなくても結構。悪口なぞ言われたら誰だって胸が張り裂けるような気がするものです。それでも言わなければなりません。もっと腰を低くしろと言われても無理です。私は腹が黒いのですから。正直にいって、こんなことをやろうとすれば足は重くなるのですが、それでもしなければならない。
 
 
初歩的には、視覚化すれば薄っぺらくなり、体性感覚化すれば重厚になるのです。これは、もともと含まれている情報の質が違うためです。まさしく、相手に響かせるには、相手の身体に響かせなければなりません。心みたいなものを抽象化させ過ぎているのです。心とは、目であり、耳であり、胸なのです。
 
アニメ化によって視覚化されれば、体性感覚化が失われてしまう。その傾向はこれからの深まっていくでしょう。どんどん薄っぺらくなっていくハズです。メディア間コンバートの中心に、映像化のための、視覚的なパターンを増やしていくことによって、日本語から価値が奪われ、身言葉を中心とした、心身一元的な感覚が失われていくのです。
その結果、日本人は才能を無くし、つまらないもの、誰かが作ったのと同じものを再生産するだけになっていくでしょう。視覚文化は、身体性の裏打ちが無ければ、表面的なパターンをなぞるだけのものに堕する。まだ人は、自分が何かを理解していない。
 
ハンコ絵はよくても、ハンコキャラはダメです。じゃあ、中身をどうやって入れるのか?中身とは何か、なのです。身体性ですよ。
 
共通リアリティに成りえるもの、抽象性をささえられるものも同じです。言語・身体感覚。身体的言語感覚しかないのです。さすがに一朝一夕というわけにはいかないでしょう。口をすっぱくして言わなければ、耳にタコができても、口にし続けなければならないでしょう。