ネタバレ(シン・エヴァンゲリオン劇場版)

そろそろヱヴァを見に行こうと思って、映画館の情報を調べてみたら、なんか空いてるっぽかったので、唐突に時が来てしまい、見に行ってきましたー。はいほい、真打の登場ですよー。
 
というか、過去のヱヴァQの考察、書いたつもりの部分が書いてなかったりして、うわっちゃーと今頃になって頭を抱えています。くっそー、書いてなかったのか。ヱヴァQの最初って、テレビシリーズと本質部分は同じなので、宇宙で封印されていた時間って、エヴァコクピットのLCLっていう液体の中で、液化してたんですよ。宇宙で初号機が一瞬だけ起動して、次のシーンにはヴンダーだかの船が出来てる。要するに、液化シンちゃんをサルベージするのにけっこう時間が掛かっちゃってたのです。それが14年だかなにか。
 
公開から時間も経過しているし、ネタバレでごめんくらさい。いいよね?大丈夫だよね?
 
 
●シン・エヴァンゲリオン劇場版
ほーん「ヱ」ヴァじゃないんですね。まぁ、それはどっちでもいいんですけども。考察として後発なので書いてしまいますが「私小説的~」とかって書いておけば、きっと炎上することはないでしょう。ないと思います。他人の意見を肯定しておくのがド安定というか。んなこた、書かねーけどな! てか、物語三昧のペトロニウスさんが私小説とか書いててビックリしたわ! 「えっ、それ書いちゃうの!?」って。
 
そもそもなんで私小説なの?に始まって、私小説ってどういうのだっけ?っていう「そこから?」状態なもんで。てへへ。
ジブリ庵野を声優として使った何とかって作品があったんですけど、見てないんでカットで。 
 
 
内容に触れたいんですが、視点が問題で、どういった視点で書けば納得がいくのか?とかも考えたんですけど、どうせ私自身が考えた視点でしか書きようがないので、てけとーに書いていきます。ネタバレが嫌なひとは、ここまで読んでないと思うけど、さっさとブラウザバックすることだな! 40秒で支度しろ。
 
 
面白いか面白くなかったかでいえば、面白かったです。ただ、面白いってなんだったっけ?という哲学に突入するレベルでしたが。つまんなかったのを無理やり面白いと言ってるつもりはないんですよねー。単に、面白いってなんだろう?と深ーく考えたくなってしまうのです。規模的にも巨大で、人ひとりが一回みただけで全部をわかろうとして分かるのか?という問題もあります。個人的にはお風呂にでも入って、のんびり思考を回す時間を取るべきかもしれません。面白いというよりは、満足、かな。
 
ここでは作り手側の視点に足を踏み入れて考えていくんですけど、課題としては「どうやったらエヴァは終わるのか?」って話なんですよ。アニメ版のおめでとうエンドと、旧劇場版の「気持ち悪い」と、漫画版の別世界線でアスカと再び出会うのとかがあって、総決算であろう新劇場版のエンディングというか、ともかくどうやってケリを付けるの?という視点ですね。アニメ版が人類補完エンドで、旧劇場版がその否定になっているわけですから、実質的にもう終わってるんですよね。
 
この問題、考えてみるとガンダムのそれとほとんど同じなんです。逆シャアアムロとシャアを諸共殺してケリを付けようとしたんですが、終わらなかった。その結果、正しい結論としてのF91に至るのですけど、アムロもシャアもいないガンダムっていう意味であまり成功しませんでした。ガンダムの側での問題は、アムロとシャアの葛藤の中心には、死んでしまったララァがいた。死んでるので解決しようがないっていう話になってきます。F91では、シーブックとセシリーという二人のニュータイプを出して、NT同士の完全恋愛っていう回答をだそうとしていました。テレビ版には続かなかったんですけどね。その後のVガンダムの壊滅っぷりでいろいろと霞んでしまっていますが、F91が答えなのです。その後、ガンダムからエヴァへと中心的な作品という「メインストリーム」が引き継がれていきます。
 
エヴァはちょっと唐突ではありましたが、完璧な代案を提示してきたんですよねー。ヒロインが居ないから決着が付かないんだから、新しいヒロインを出せばいい!っていう。映画を見終わって、電車の中でちょっと笑っちゃいました。だって空から女の子が降ってきたんだから、ヒロインに決まってるじゃん!ってことでしょ。なんつー安直な。
綾波が母親を元にしたクローンだったりするわけで、正ヒロインには向いていないというか、究極的には無理なんですよね。綾波カワイイんだけどなー。今回も可愛かったです。かといって、アスカだと旧劇エンドになっちゃいますしね。某グランドオーダー的にいえば、アスカ・オルタとしてのマリを出すことで、新劇版を終わらせたってわけです。わかっちゃえばなるほどねって思うんですけど、ちょっち予想外でした。マリルートに派生してエンドって形ですね。それがトゥルーかどうかは諸説あるでしょう。今回、綾波エンドの完全否定が来てるんでテレビ版のおめでとうエンドが綾波ルートで確定ですねー。
 
物語を終わらせるにはどうすればいいのか?と考えていくと、そのキャラクターの中心的な課題を解決させることってなると思います。シンジでいえば、父親との和解なんですけど、父親の方が子供のシンジを避けているので、見事に視点がダメ親父の側に移動してます。これが面白いのかどうかよくわからなくさせている要因ではあるのでしょうね。ヱヴァの主人公は誰だったのか?という問題でもあるのです。ゲンドウとその生物的コピーであるシンジの物語だったということなわけです。確執すらないのが問題だったわけで、シンジ視点で父親と仲良くなって、ヤッター!とは描写されないのが物足りない理由ですかね。ダイの大冒険のバランとダイの関係ぐらいの和解が必要だったかもです。無理だったとは思いますが。
 
エヴァはループしているといったのは、ガンパレの設計をした芝村のおっちゃんなわけですけども、エヴァ2ってゲームでは、都市が破壊されると最終フェーズに突入するんですよね。
外部の都市がないとシンジの精神状態がレッドゾーンに突入するというか。人類補完計画が発動してしまうのです。
この外部都市の安否とシンジの精神状態がリンクしていることが分かっていると、今回の村の描写が「絶対に必要」だったってことが分かってきます。ヱヴァQではニアサードインパクトの影響で外部都市が壊滅していて、そのことを知ったのを切っ掛けにシンジの精神が壊れ、マインドコントロール描写に入っていくからですね。
 
「良い意味で」大人の物語でしたねぇ。
壊れたはずの都市の生き残りがいて、村を作っている。生き残ったんなら、村を興しちゃうもんなのです。自分を罰したかったシンジは、でもひとりじゃ死ぬこともできなくて。「なんでみんな僕に優しくするんだよ!」っていうね。つくづく良いセリフでした。程よい。村がないと彼は立ち上がれないんです。自分のためでは立ち上がる理由にならないので。

 良い意味で、大人になった。先に大人になっちゃったというアスカのセリフも良かった。旧劇版を意識させるような、ちょっぴりエッチなシーンを意識的に配置していて。裸だったり、下着姿だったり、破れたプラグスーツでムチムチだったりってね。初恋を認めて、それが終わっていたことを受け入れて。アスカとの決別もシンジの内的な課題扱いになってましたね。インパクトは弱かったんですけども。
 
 そして最後は「おっぱいの大きなイイ女」ってね。良い意味で即物的人類補完計画みたいな精神世界でハッピーエンドするのと真逆なのって、物質的ってことですからね。ヒーロー、主人公、救世主になったシンジを救うには、おっぱいの大きなイイ女っていうヒロインが必要にゃ。いい具合に即物的だよねー。男が救われるには、おっぱいの大きなイイ女がいればいい。それで十分なのです。永遠の正解っしょ。
 
続編を殺すには、未来の老後や、死を描けばよくて。永遠の14歳が成長したことを示して、エヴァンゲリオンを殺したという意味で、程よく神殺しではありました。マリの謎設定は余韻として残るんですけどね。イスカリオテのマリア。まぁ、下手に突っつくのは蛇足ってものでしょう。
 
良い物語を、ありがとう。
  
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