クソリアリズムの洗礼

 
友人に教わったんだけど、厳しい。メタ視に過ぎると物語がつまらなく感じると思うんだけど、漫画を読むための方法の一つなんだと思う。
(このタイミングで「美●の日々」をネタに使うとその友人に確実に捕捉されるという罠(笑))
 
 
クソリアリズムという用語そのものは自分でググってもらうとして、
簡単に説明すると、マンガにおけるクソリアリズムは「本来の歴史」みたいなモノに相当すると予想される。仮にラブひなを例にすると、成瀬川は病死だろうね。そこで救いの無いままに終ると思う。
*1
 
ここで「物語」が発生する余地が生まれる。
乙姫むつみが成瀬川の身体の弱さを引き受けることで死を回避させたわけだ。
(例えば名前をみると、“浦島”と“乙姫”なわけだ。)
 
 
本当なら、ヒロインは誰だったのだろう。フツーに成瀬川は病死して、浦島とむつみが再会して東大に入って…………といったところだろうか。いや、本当に東大に入ったかどうかも怪しいんだけど、再会ぐらいはしたのではなかろうか。
 
こう考えると物語というものは、「介入」とも言える。
 
メタ視で考えると乙姫むつみは病気を引き受け、景太郎もなるに譲ってしまって……と、とても無欲に感じる。
ついでに個人的な妄想書いてしまうと、青山素子がメインヒロイン化しそうになったという有名なエピソードがあるが、前提として無欲なむつみがあったのかもしれない。全てを手に入れたようにみえる成瀬川という存在があった上で、ヒロインが素子に流れてもいいのでは?と考えたのかもしれない……と邪推することだってできるだろう。
 
しかし乙姫はというとハッピーエンドを望み、世界を歪めたとも取れる。それは「強欲」であったのかもしれない。
その後、彼女はヒロインとしての順列には参加しない。ヒロインとしての成瀬川にとって最強の敵…………というか、そもそも勝てないのかもしれない。「本来の運命」といったクソリアリズムの視点を導入すれば、彼女は神にも等しい存在として浮かび上がってくるのだから。(グレートマザー?)
 
 
いくつかの作品では「物語が始まった時点」で、ヒロインの序列という「天元」は既に突破された後なのかもしれない。物語による介入を経てすら勝てないという「事体」をどう捉えるべきなのだろう?…………わからない。
 
この視点・方法*2では感情移入先が変わるだろうし、見る場所も変わってくるだろう。個人的にはあまり捻くれた読みをするのは好きではないし、物語の価値を損なう可能性すらあると思う。それでもやはり比較方法論の一つとして「も」お便利だと言わざるを得ないね。
  
 
 
 
・余談
例えば、ななか6/17の場合には、結果から考えると「輸血→家族化」といった記号だろう、と。他作品で「血の繋がりが無いこと」(家族で1人だけ養子だったりとか)に重きが置かれている場合には、怪我→輸血→血の絆、というルートは珍しくないのだけど、ここの場合、序列二位に対して「疎外感」を煽るのは無駄なわけで。
 
そして作品としては、ヒロが出てくることで自己完結、と。
恋愛部分の役割を割り振って…………シンドイからこのぐらいにしとこう。やっぱこの辺りのメタ視点は諸刃の剣かもしんないなぁ。分析が深くなったとしても楽しめなきゃ本末転倒だねぇ。

*1:某作品ならストーカーの女の子が右手にはならないで自殺、とかまぁそんな感じ(笑)←笑えねーよ

*2:もう少し追求すれば方法「論」にも出来るかもしれないけど