コードギアスについて

 
走り書き〜
 
●日本人はあえて愚かに描かれている?
頭の良いのは、シュナイゼルルルーシュのようなブリタニア人に限定されている。有能と名高いディートハルトも当然のごとくブリタニア人。
科学者も同様で、ロイド、ラクシャータは日本人ではない。
 
通常、国際社会で日本(人)の特性を描く場合、技術力の国として描かれることが多い(歴史ものでは日本刀やゼロ戦とか)。少なからずいい所があって、それを我が国の誇りに思うようになっている。
 
しかしコードギアスにおいて有能な日本人はスザクや藤堂のような武人しかいない。カレンはハーフだし、やはり武人だ。
 
 
この作品では日本人から高等教育を奪っているのだろう。日本製ナイトメアが無敵っぽく描かれない理由は、これらを背景とした戦後処理の問題としてみた方が合理的だ。
 
例えば、雷句誠関係の記事やアキバでの無差別殺人に対するブログの動き方をみていても感じることだけど、必ず対立する視点が提示されている。これらの話だけではなく、様々な問題で同じような行動が見られる。この手のバランス感覚に優れていて、正しさの追求に余念が無いわけだ。これを分かり易く言ってしまえば、生意気なんだよね。
生意気も過ぎてしまえば可愛くはない。人間としての未成熟さそのままに意見を合わせることをしようとしないのであれば、大きなムーブメントを起こすことはまず不可能だ。余程大きな危機にでもならない限り、大きな力は振るえないだろう。
 
 
「100万のキセキ」を可能にするには、大衆は愚かでなければならなかったのではないか?などと思えてくる。
 
ゼロのコマとしての日本人は、衆愚でなければならなかった。
逆から言うと、日本人が衆愚だからこそ、ゼロという指導者を受け止められたのでは?と。
 
 
そうすると、段々とこの演出が意図的なものに思えてくる。その狙いはなんだろう?……さっぱりわからない。