雑記(動ポモ)

 
動物化するポストモダン
買ってあったけど読んでいなかったので。とりあえず2章の終わりまで。うーん、現状認識として正しいのかというと、そんなに合っているとも思えないような?
 
○1章の話への感想 
敗戦後のアメリカナイズで江戸時代以前との断絶があるってのは分かるけど、なーんか色々と違う気がしてしまう。雑って印象が拭えないというか。でも1章についてはそんなに否定的でもないんだけど「伝統的日本こそが正しい」といった立場の設定からくる言葉の選択にはあまり同意もできないし、する気もない。
 
アニソン周りでも似たような状況が起きている気がしていたのだよね。戦後のアメリカナイズで日本のソウルミュージック的なものは失われて、洋楽の影響が強くなり、より日本的な部分はアニソンがその魂を引き継いだ、みたいな。消費傾向の高い(つまり動物化した)音楽からインディーズが分離するように立ち上がって、一部はメジャー化し、一部はアニソンと合流しつつある、とかね。いやぁ、この話は音楽に疎い私が勝手に変な妄想を書いているだけなんだけどさ。
 
(アニソンの音楽性みたいなのはΖガンダム辺りで富野御大が引き上げを行なったという話もあるんだけど、何に向けて引き上げたのか?という意味では西洋的な方向への引き上げだった気がしないでもない。)
 
じゃあなんでアニソンが日本のソウル的な部分を引き継いだのか?という話はアメリカ文化の換骨奪胎であって、それは「日本的意匠」を被せるところから始まったのだと考えれば、アニソンなんかは日本のソウルの受け皿としてまさに適役だった気がしないでもない。Jポップも換骨奪胎だろうし、なんでもかんでも換骨奪胎で説明できる気もする。
それと韓国が日本の文化を換骨奪胎しようとしている現状は、二次創作を元にした二次創作になっていて、白けた目でみている部分があるのかもしれない。
 
 
「日本的意匠」って表現はちょっと注意しないと危険な気がするので保留。小林秀雄を読んだことがないんで(笑)
 
だけど、日本的意匠が好きなのは圧倒的に外人のみなさまだよね。忍者とかサムライとか。巫女なんかに人気があるのは、(もともと萌え要素になりえる「距離感」があった気がするんだけど)アメリカナイズの影響で日本の文化と距離が生まれて、妄想する余地を得たのではないかと。
 
例えば京都への修学旅行はつまらないってイメージがある。これを喜ぶのは「エセ帰国子女」みたいなフジヤマ〜サムライ〜ブシドー〜切腹〜とかに憧れるキャラってのがお約束だろう。じゃなければ教養を得た後に伝統文化の足跡を再発見しにいくかだ。 …………日本的意匠を好む傾向は、どっちかと聞かれればそりゃ前者だろうと思う。
 
 
でも断絶自体は事実(←文語体の喪失の話とかもある)だし、ルネッサンス的に江戸文化の復興を望む圧力が出てくることはあり得る話だ。しかし求められているものは擬似的な江戸の方だろう。というのも、江戸文化の本質は身体文化だからで、運動しなくなった現代人がちょいとエッセンスだけ頂戴しようなんてのは…………浅薄に過ぎる。そこでは本格性を求めたつもりになるより、擬似的でいいんだ!と開き直った方が正直だと思う。もはや江戸時代には帰れない。本格的な方向に向かうことは出来るだろうけれど、それは人生を使わないと成し遂げられないことではなかろうか。
 
グローバリズムの圧力のことを思うと、「今更 江戸ですか?」*1と思わないでもないんだけど、津田雅美の「ちょっと江戸まで」はたしかに面白かったよ(←オチ)
 
 
○2章の話について
データベース型世界ってのがさっぱり意味不明。注釈から考えると、もしかして拡大解釈のし易さまで狙っているのだろうか?という気分になる。
 
ポストモダンってのを脱中心化と捉えているみたいで(ポスト構造主義ポストモダンって同じだったっけ? 哲学わかんねーっす)とりあえず脱中心化がその本質なんだよ!ってのが書かれている。これはいわゆる「外部化」だよね。
 
ボールの中心に核として実体があると思っていたのが、近代に入って「実体が無い事」に気が付いたわけだ。すると、今度はボールの外皮に思考が向かっていく。一度、外部化してやらないと理解できないからね。でも中心は(いわばヴァーチャルに)計算されうるものとして中心に存在することになるんだけど、まぁ、ともかく、外部化なんだよね。
 
物語消費の方は分かるし、簡単だ。「背景世界観」と個別に消費される「物語」の関係だよね。FSSなんかも年表を通じて背景世界を先に提示してて、それから個別の物語を用意して背景世界を楽しむ構造になっている。富野ガンダム宇宙世紀という背景世界があって、共通する世界観でそれぞれの主人公がガンダムで戦ってる。
 それからアルファシステムと芝村さんも同じ戦略を利用している。同一の大きな世界設定から複数のゲーム(精霊機導弾・ガンパレードマーチ式神の城〜)を作っていたわけだ。
 
シュミラークルとやらをこじつけるためにむちゃくちゃ書いてる気がすんだよねぇ。
これなら大きな物語と同列に配置しないで、3層目にセットすればいいんじゃないかなぁ。
 
データベース……オタク文脈・カルチャー(よりメタ的)
  ↓
大きな物語………物語の背景世界観など
  ↓
小さな物語………表層で消費されている物語・コンテンツ
 
 
こう考えれば、大きな物語の喪失で「セカイ系」とか言って済ませることが出来るんじゃなかろうか。キャラ萌え=小さな物語、ストーリー=大きな物語としてやれば、キャラ萌え現象にも説明が付いてしまう。
 
……らきすたとかで見られる聖地巡礼はデータベースの強化なのだろうか、それとも「大きな物語の回復」なのだろうか?
 
 
二次創作なんかも「キャラの外部化」で説明した方が簡単だと思う。作者の所有物だったキャラクターは「作者にしか動かせないもの」だったのが、外部化することで二次創作が可能になった、みたいに。これだと構造的に強靭なキャラは二次創作し易いことになる。それらの強靭な構造は発見されるとデータベースに登録されて別の作品に利用されることになる。それはオタク的なお約束みたいなものでは?
 
これで説明はつくけど、大きな物語との関係は間違っているかも。
メタ認識は超越的というか。「(表層・深層)←メタ認識」ぐらいの書き方の方が安全な気もする。
 
(このデータベース解釈は本の内容とは関係ありません)
 
 
スノビズムって辞書的には
「俗物根性,紳士気取り.権威にへつらい,下にいばる成り上がり根性」になっているのね。
 
しかし動ポモでは、「形式主義」ですね。
名誉や規範といった形式的価値に従って切腹したりとか。その結果として実質としての生命や生きていたい!と思う本能を否定するわけで。
 
欲求と動物とアメリカ人がセットで、
欲望とスノビズムと日本がセットになっているそうな。
 
欲求は身体的なシグナルのこととしている。空腹とか性欲とか。
欲望は精神的なものらしい。例題では「恋人を手に入れた後も他者に嫉妬されたい」「他者の欲望を欲望する」などと書かれているけど、名誉欲みたいなものだと思われ。
名誉欲は他人の名誉欲を前提として成立するものね。(ぶっちゃけるとマズロー欲求段階説の方で理解しちゃってるんだけどね)
 
しかしこの分類だと「自然」や「調和」なんかは「動物」的なものにされてしてしまうなぁ。分類によるズレってものかもしれないけど。
 
 
これで結論は「データベース的動物」化となって、動物化するポストモダンと。
 
 
コードギアスなんかは形式主義な終わり方をしてスノビズムってことかもね。
オタクが要求する動物化は安易なハッピーエンドを志向しているかもしれないね。
私は痛みを伴ってもトゥルーエンドが好きだけど。
 
後は言葉の使い方かなぁ。
リアルとリアリティを別種のものとしてほしいなぁ。「虚構を虚構として楽しむ」と書いているのに、「リアルを感じる」とされてしまうと、虚構であることを忘れているかのようだ。それでは全ての虚構=フィクションで涙を流すこともできなくなってしまう。
 
それと運命と宿命を使い分ける文化があることもご存じないらしい。
単に全てのルートで発生するイベントを「宿命」的としているだけでしょ。運命の相手ってのは、その運命(ルート)では運命の相手ってことだし。その滑稽さはメタ認識においてしか発見されない。もっというとメタ化しているプレイヤーは、キャラクターはメタ化していないという「約束事を守る」ことで、運命の相手に対して「感情移入すべきだ」という約束事が発生していると指摘できる。これは異化と同化の話でもあるし、約束事の遵守はスノビズムでもあるだろうね。
 
とりあえずこんなことろで。

*1:回顧主義やらパラダイス鎖国?みたいなワードに連想でつながっていくかも?とか色々とね