雑記

 
半可通の戯言なので本当だと思わないでね。お兄さんとの約束だゾ。
 
●新自由(放任)主義
ホリエモンの発言って新自由主義なんだよね。官僚が首を突っ込むとアホみたいな失敗をするから、民間に任せとけよ!っていうのが自由主義というか。
 
以前にも触れたけど米国で言うとこの考え方は共和党のそれに近い。
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20081025/p1
 
別の言い方を考えてみると、この「官僚による政治」って王政や貴族政治的な、いわゆる「天才が必要な政治システム」の変形なんだよね。こういう風に言い換えれば銀英伝にまで戻ってこられるわけだけどね(笑)
秀才や一部のエリート、王政なら帝王学やらせて愚劣な民衆を従えるっていう方法論。市場を自由にさせてしまうと愚劣な民衆だと滅茶苦茶な方向に行ってしまうだろうっていう考え方に基いている。滅茶苦茶にならないよ、神の摂理でもって上手く回るようになっているよ!ってのに対して、「神様にお任せ♪」とかバカじゃねーの? 人間がアホだったらダメじゃん!ってね。だから言ってしまえば、介入主義とでもいうものになる。そりゃ官僚主義だろうが王政だろうが帝国主義だろうが、ラインハルトがいればなんとでもなんだろうけど、実際には居ないんだよね(涙)……仮に居てもヒトラーみたいなのだと後で困るっていう。(当時はそりゃ英雄クラスだから)
 
すると、ホリエモン側、つまり自由(放任)主義は「神様ならば正しい方向に導いてくれるよララァ!」って話だから、ヤン・ウェンリー側の政治スタイルだよね。だからってホリエモンヤン・ウェンリーみたいに考えるのだけは勘弁してほしいのだけど(苦笑)
ホリエモンの場合は、自由競争によるダーウィニズムな「ダメな意見は自然と淘汰されていく」って発想に近いように思うけどね。自然淘汰自然選択説)みたいな部分に神の摂理を感じるかどうか?という趣味・嗜好はあろうものと思うが、アメリカではダーウィンキリスト教の教えに反するからNGだったりするらしいね!(笑)
 
簡単に纏めると、
・貴族型政治(介入)と民衆型政治(放任)に分類できる。
 
 
で、その新自由主義の失敗が今回の世界同時不況なわけだ。んで、マイケル・ムーアが『キャピタリズム マネーは踊る』って映画を作ったそうな
http://www.capitalism.jp/
 
そっちは好みで観るかどうか決めてもらうとして、町山智浩のコラムは読む価値があると思われ。
http://newsweekjapan.jp/column/machiyama/2009/09/post-60.php
 
町山智浩の映画評論ってあんまし好きじゃないんだけど「キャピタリズム」に関してはぐぅの音も出ますぇん。(観てないのに出せるわきゃないんだけど、それでもこのぐらい書けてたら文句言えないかな)

 ただ、アメリカは実際、これを実現しようとしていたのだ。60年代まで続いたニューディール政策アメリカは国民の平等を第一とする福祉国家だった。ジョンソン大統領は「偉大なる社会」をスローガンに掲げて貧困の根絶を目指していた。世界中があこがれたアメリカン・ドリーム、誰もが豊かになれるアメリカとは、ある意味、社会主義的な理想でもあった。

 ところが、それは経済の停滞を生み、70年代にニューディール政策は崩壊した。だから、平等よりも競争によって経済を活性化させる新自由主義レーガン政権が登場したのだ。

 ニューディール新自由主義も共に失敗した今、アメリカは第3の方法を手探りしている。だが、そうした経済・政治論議にムーアは興味を示さない。

 ムーアの心は神へと向かう。

 え”っ?! 神に向かっちゃうのっ?っていう(笑) 楽しすぎる。
 
 
自由主義の視点だと、ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』が基礎教養っぽい。みんなの意見が案外正しいのであれば、一部の権力者の介入は不必要だと考えることが出来るようになるわけだしね。
 
んと、「みんな」って訳が気に入らないって記事がどっかにあったんだけど何処だったのか分からなくなってた(笑) この本は気になっているんだけど例によって縁がない。別ん場所のコメントによると、群衆の叡智ってのは、群れていない時(付和雷同しない時)に発揮されるのだとか。だから「みんなの意見」って訳だと群れるから集合「痴」だ、とかなんとか。
 
こういうのは池田先生のブログを引用するとなんかわかった気分になれるような、でもさっぱり分からないような気分になれますな。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1484f9fc595f2768c6b1f12a5d48155f

もう一つは、コンドルセ定理のように集団によって「真理」に到達できるかという問題だが、これも一般的な条件では成り立たない。「みんなの意見」が正しいのは、各人の意見が(一定の確率以上で)正しく、それが整合的に集計可能な場合に限られるが、そういう理想的な状況は現実には存在しないのである。ウェブでみんなの意見が正しいようにみえる原因は、こういう論理整合性ではなく、間違いがあったら多くの人が参加して事後的に訂正できる柔軟性だろう。

ウェブっていう手段が、集団の性質をコントロールしうるんじゃないか?みたいな部分ではウェブ 2.0が出てきたりするみたい。でもそっちも把握してないので触れられないなぁ。
まぁ60歳と18歳の意見が同列の1レスとして扱われたりするから、外見からくるバイアスがいい意味でも悪い意味でも消えてたりするわな。
 
 
いまのところ、民衆型政治は「代表者の選出」の形になっているけれど、本当は全員の参加意識が問題。例えばイギリスでもアイドル投票と政治選挙でアイドル投票に参加した人の方が多かった、みたいな話があったりするらしいけどねー(苦笑) んー、ツイッターで政治がどうのこうのみたいな話もチラホラ出始めているけど、結局は多数決の論理で一票の価値ってのをどうするのか?という部分があるよね。
手広く勉強して事情を把握している人の一票も、テレビの偏向報道に踊らされてる正義感だけイッチョ前な情弱の一票と価値は変わらない。しかも世界は勧善懲悪ではない。価値観は立場によって相対化しているわけで、何が正しいかは視点よって変化する。完全に正しい視点なんてありゃしない。どんな人間にも知らないことはあるし、無知の知の話もあるし、人は嘘を付くから知っているつもりのことも分かっていないかもしれない。エヴァ様的には完全に正しい答えなんてないってこった。何かを選ぶことは、何かを捨てることを意味する。感覚的には捨てているのではなくて、興味が薄れていくって表現に近しい。選ばれなかった無限の可能性を哀れむ間もなく、次の選択が、次の扉が、我々を待っている。
 
 
まとめじゃないんだけど、民間の手に委ねてなんでもかんでも巧く行くんだったらアメリカは二大政党の国になってないだろ?って思ってしまうんだよね。新自由主義の背景には、キリスト教が発動しててメガチャーチみたいなところに人が集まって行ってたりしてるらしい。そういう倫理観(つまり中味に相当する部分)は会得しないまま、儲けるが勝ち!ってやってしまう歪んだ新自由主義に対する批判があったりもする。
 
 
全てどっちでもいい話だけど大前研一の心理経済学って本に、空港のハブ化も新幹線の乗り入れも触れられているんで、あの本を読んだんだなーとしか思えなかったりするんだよね。だからって大前研一のオリジナリティとか言うつもりもないんだけど。世間って案外、狭いんだなーっていう。
 
 
●視聴率とかの話
これもどっちでもいい話なんだけど、姉ファルファのたけしの記事を読んで色々と考えるのであります。
http://alfalfalfa.com/archives/379989.html
 
映画に関しては映画館に対する幻想もちょっとあるんじゃないかと思ってしまう。考えてみると、「人気作ともなれば、すし詰めになって他人と一緒にみる映画館」と「一人で停止したりトイレに行ったり、寝っ転がったり自由な自宅」だと、後者の方が豪華なんだよね。個人でそこそこまともなホームシアターを作れないから、2000円ぐらいの料金を払って、映画館っていう他人の環境で観ているわけでしょ。200万もあればそこそこまともなホームシアターが作れると思うし、例えば、細かい映像の質だとかにこだわりたくても映画館のそれは個人ではなかなか「所有できない」のね。大画面=凄い!みたいな大艦巨砲主義なんだろうけど、モビルスーツに乗りたいのが心情ってものではなかろうか。結果、早く観られるからとか「お出掛け」(=体験性)だからってのが利用価値の中心になってしまうと思う。
 
テレビの視聴率に関しては、もっとわからない。似たような番組ばかりになれば脳みそが飽きるのは間違いない。だからって斬新過ぎるものには人はついていかない。間違いないのは「認識を低い方に合わせちゃダメ」だってこと。人が望んでいることをそのままやってちゃダメで、ちょっと上を行かないと直ぐに飽きてつまらなくなる。
まぁ、テレビの面白さは昔と大差ないって意見もあるから、そうなると受け手にとって陳腐化しているだけって可能性もある。
 
視聴率システムなんかはジャンプ漫画のアンケートとも共通している方式なんだよね、あのやり方だとどうして面白くならないんだろう?ってことなんだけど、前提変換から入れば、単に自分の感性がジャンプ漫画のターゲットやレンジから外れて来ちゃっているかも?だとか、「人気」と「面白さ」ってのが案外ズレてたりすんのかな?だとか、損切りや利確が早すぎてあんまり儲けになっていないんじゃね?だとか …… アンケートの方はその方法論自体は吟味すべきかもしれないけど、ともかく「みんなの意見は意外と〜」の理屈に近いものになっている。人気投票だしね。
後は、自分の印象にバイアスが掛かっている可能性があるのかな。成功作品は数が少ないから、損切り作品ばっかり数が多いって印象に残ってしまう、みたいなギガジン見ても読み切りやらの数がハンパないし。…… これを逆に言うとジャンプ漫画って全部の作品が面白くなることってないんだろうね。人気の無い作品は打ち切られるんだから、そういう打ち切り候補作品が必ず誌面に踊っているわけでしょ。1/3なのか1/7かは知らないけど、その分だけジャンプの価値は目減りしているのかもしれない。(金を返せ)ジャンプ黄金期って時代は、ほぼ全部の作品が面白かったような気がする。それも記憶の美化かもしれないけど。
 
 
・のいじ絵
……ってのは絵の上手さとかじゃなくてともかく目立つことに価値がある。ともかく目立つの。それが武器。下手とか言ってもまったくの無駄。それが分からないと延々と絵が下手とかの見当違いの優越感に浸ったまま、頭の弱い発言を繰り返すことになりかねない。(こういうのは普段書かないよ。何せ、俺は絵が描けないからね。)こういうレイヤーの違いに敏感にならないとどうもにならないと思う。まぁどうにもならないんだけどね。個人的な好き・嫌いの表明ならいいよ、それは趣味の問題たがらね。だけど、実力が無いのに売れてるのはオカシイ的な発言は事態を冷静にみれてない。人気と実力はイコールとは限らない。愛される人間が賢いとは限らない。でも、実力者に人気が無いわけじゃないし、賢い人間が愛されないわけでもない。