夏の感想戦(つづき)

おわってまったー!

ダイの大冒険
たいへん素晴らしい物語でした。毎週の楽しみがなくなってしまうのが最大級のマイナスです。あざました。
敵が魅力的じゃないとこうはならんよなって。大魔王バーンの最終形態の動きが速すぎてヤバい映像に仕上がっていたのも良かったです。あとはマァムとレオナの活躍が限定的なのが原作時点からの問題点かなって。蘇生・回復系の魔法は、緊迫感を損なってしまうのもあってか、恋愛要員ぐらいの扱いになってしまう。アニメ化による問題ではないのでこのへんにしときますけども。
 
アニメでこのレベルの物語を映像作品として体験できることの,なんという贅沢さよ。素晴らしいとしかいいようがない。ありがとうございました。
 
〇シャインポスト
10月中旬までかかってようやくフィニッシュ。こちらも素晴らしく楽しめました。最終回の評価だけは辛口になって65点ぐらい。イメージ的には、最大公約数と最小公倍数のルートがあるとしたら、最小ルートだったなって。算数の話をすると意味がズレるんやが、そういうイメージというかね。必要な要素は漏れなく入ってて、赤点は絶対に回避できるんだけど、プラスアルファがない。中野サンプラザという最終局面で1曲で終わり。ボーっと突っ立ってるやん。新曲用意した時点でマンパワー打ち止めなのがあからさま。それでも作画は崩壊してなかったのは評価できるけどね。少なくとも伝説の良作のラストにふさわしくはなかったかなって。トウキョウ ワタシ コレクション好きなんよ。アニメだと逆に動かせ!って要請が強いからか、曲を流すことすらできないんだろうなー。
 
GYBの意味が分かった場合、そもそもハイレインの無念みたいなものを、簡単に捨てていいわけでもないはすでしょ。でも黒金蓮ってキャラの良いイメージを保つには、一定の理解を示す必要はあるんだろうなって。難しいのは分かってるけど、お行儀のいい子供のおままごとの話なんだとしたら、そこそこにしかならんよね。敵としての見事さを演じるでもなく、ただ道具立てとして、設定として対立してるポーズだけかどうか。たぶんシャインポストを目指すライバルとかの形に昇華させるとは思うんだけど、プロセスが問題よね。
 
あと、関係ないんだけど、芹澤優はアリなんじゃねーかと思い始めた。ギトギトの自己顕示欲つよつよ女子とか苦手というより嫌いなんだけども、そこそこ満たされて、そこそこすり減って、今、丁度いい感じに仕上がってない?とか思ってしまう。私かわいいでしょ?もやり続けるとサービスなんよなぁ。声優としては判別つけるの無理だろってレベルで個性を感じないからアレだが。久保田未夢は路線変更しつつあるのか、どうなるのかね。
 
〇オバロ
善し悪しを付けづらい。王国をあっさりと滅ぼした。対話不能性=モンスター化なので、これでガチの人外になってしまった。題名そのままにオーバーロードになっていく路線なのかな? 人間の国を滅ぼしておいて、それを内政の天才とかいう姫のせいにしたのは小物臭がしてすかん。一応、前段でドワーフの王国を襲ってた亜人とドラゴンを滅ぼしてはいる。亜人やドラゴンは良くて、人間はダメなのはなぜ?という形で2段構え?みたいな構造にはなってそう。何をやってくるかわからん悪の魅力ってのはあるけどね。攻撃性はすなわち魅力だ。テンプレ勇者は、リアクション型のスーパーイエスマンで、自発的な行動は避ける傾向にあるから、逆の位置にある。
 
全体の構図として捉え返すと、テンプレ勇者はリアクション型、戦記物の主人公はアクション型になりやすい。テンプレ勇者は悪(排他性)を排他する存在。悪に対する悪だ。他者を排除するかどうかって点で本質的差異は小さい。
そうした排他的存在は、より戦略的な戦記物にシフトすると主人公になれる可能性が出てくる。いま思えば、橙乃ままれの「まおゆう」は戦闘・戦術レベルの勇者、戦略レベルの魔王でズレてて、だから協力し合えた形にも見える。オバロのアインズも戦記物の展開にシフトして、「行動する悪」の立ち位置に立ったことになるね。滅ぼせるから滅ぼしたってのも、戦記物ならアリかもなぁ。でもピカレスク寄りだし、滅ぼされて終わるんだろうけど。滅びが救いとなるかどうか。
 
 
■棒読み演技のリアリティ問題→それ本当は商業的価値の問題です
チェンソーマンの棒読み演技がまとめサイトで話題に。何回でも言うんだけど、「スパナチュの吹き替えは忘れない」
もともとは、富野御大とか宮崎駿が、声優の演技がクサいとか言ったのが直近の原因だとは思う。実写に比べた時の、アニメを一段低く見られてた時代のジジイどものコンプレックスの発露だからどうでもいい発言ではある。実際、日本の実写になんて大して価値もないし。
 
一応、直近じゃない方の原因を考えると、ミュージカルとかその元になったオペラ、さらにはインド映画みたいなのを想像してもらって、それを「もうちょっと普通に演じたものでいいんじゃないの?」って要請があったわけでしょ。ある種、過剰な表現に対して、リアリティに価値が生まれた成功体験があったんだと思う。でも結局、芝居は芝居で、箱によって演じ方が違うわけじゃないさ。特化していくとテレビと舞台とでは演じ方を変える必要が出てくる。で、あれば、当然にアニメに適した演じ方ってのが必要になったんだよ。その表現方法がインド映画のごとく過剰だ!っていうんなら、新たな表現方法が生まれる可能性はあるよ。そこに適切な商業的価値が付与できるならね。棒読みで商業的価値もへったくれもないと思うけども。
 
日本人が東京を舞台にした作品を撮影しても、どこかのっぺりとした日常になってしまって、事件性とかが感じられないんだ。でも海外のクリエイターがTOKYOを撮影したのを見ると、オリエンタルな怪しい深みが出てくる。何の差? 商業的価値の差だよ。幻想を重ねてみるかどうかだよね。ユーチューバーでまるで再生数も登録者も稼げない配信者と、なぜかどんどん人が増えていく配信者の差はなに?って考えると、運もあるんだろうけど、どこかに幻想とか商業的価値があるかどうかの差だよね。アホは自分の商業的価値の無さに喘いで苦しめばいいと思うね。
 
つまり逆にいえば、オペラとかインド映画ってのは、商業的価値をしこたま上乗せしたらああなったってことでしょ。のっぺりとした東京でありもしない銃撃戦をみせられるよりかは、インド映画の方が面白いだろうけどねー。ま、価値観の違いってことで。