放課後ウエディング

 
●放課後ウエディング 新庄まゆ
 
というわけで、ネギま!の感想そっちのけです。まゆタンの読み切り作品について語って行きたいと思います。
 
http://www.j-comi.jp/book/detail/2101
 
Jコミは無料ですので、一読するのも良いかもしれません。
 
 
さて、本作品ですが、物凄い駄作臭がプンプンします。……という訳で、前置きで落とした場合、「でも実は〜」と続くのが定番です。
 
内容は「彼氏は旦那でチョーカッコイイ! スキ!」みたいな中身ゼロなものになっています。
 
まぁ、フツーに読んだらそのままのその通りなので、本気で価値ゼロなんですけど、ある程度マジメに構造を拾っていくとどうなるでしょう?というやり方で行きます。
 
 
テンプレ型の話なのですが、逆にテンプレ型だからなのか、構造面がしっかりしてたりします。
まず手っ取り早く一番簡単な構造は、「大好き!」→「不安になっちゃった」→「でも大丈夫だった!」……です。前にちょこっとだけ書いた、谷川史子せんせーの話もそんな感じだったんですが、純愛系の基本路線はたぶんこの「不安になっちゃった!→でも、大丈夫だった!」なのでしょう。
 
まゆタンの作品は、ちょいワイルド風味までオマケで付いてきます。前半のセックルシーンなんかがその要素なのだと思いますが、要するに、完全なる純愛路線なのに、ちょいワイルドな味付けに変化させてあるんですよ!こんなクッソ単純な話なのに、です!これはただのバカに出来ることでしょうか?無理ですね。偶然?……だってまゆタンですよ?
 
それならば、こんな作品であること自体にも理由があるってことですよ。後述です。
 
 
前半での注目ポイントは、優越感の演出ですね。これはネギま!とかも同じようにやってることです。ネギてんてーが魔法使えるのを知ってるバレメンバーだとか、アーティファクト貰ってる子とかで優越感を利用してお話を盛り上げたじゃないですか。事情を知らない子がキモッ!とかダサッと言えば言うほど、優越感に浸れるという逆を行く仕組みが炸裂しているのですよ。単純、故に、強靭。
放課後ウエディングの場合だと、正直、笑っちゃったんですけど、ダサい→実はカッコイイ!みたいな、ド直球・ウルトラど真ん中!思わず剛速球かと思うような潔いド真ん中っぷりですよね。 もう笑うしかない。…………でも、たぶんこれが構造的に一部の少女マンガで使われている本質そのものだと思います。
 
我々は、普段読んでいるものが「別のコンテクスト」なので、これを見て「変なの」だとか、「くっだらねぇ」とか言えるのであって、少女マンガの背景文脈を有していないから、そのお約束に染まっていないから、愚かにも「変なの!」とか言って笑えるだけなのです。これらはたぶん、フツウとかの分類で処理されているものでしょう。変だ!と言って吐き捨てる人がいたら、その人はマンガに詳しくないんだと思います。
 
 
後半の注目ポイントは、「いったん別れる」→「帰って来てハッピーエンド」というハーレクイン・システムを採用している点ですね。このレベルの物語にしては構造が凝っている、もしくはテンプレの完成度が高いんじゃないでしょうか。
 
別れた相手ともう一度、なんやかやで結ばれる、のが女子の燃えポイント?らしいのですね。
しかも、まゆタンの話は前後でメリハリも入れてます。前半はセックルシーンを入れてワイルド風味。後半はより純愛風味でまとめています。セックスで肉欲を強調しておいて、別れるんですよ。で、再びくっつくのは、より精神的な満足度を求めていて、純愛を強調している様です。だから、そのためのセックスシーンだった、ってことですよね。
 
 
こんな単純な話なのにねぇ〜…………マジで。
 
さて、大体の構造的なポイントが見えて来たところで、読み返してみたんですが、やはり中盤は謎だらけですね(笑) 特にあのプールで溺れた時に、友達の子にバレるのとか意味が分からない(苦笑) 自慢したかったんでしょうねぇ。やっぱりバレの瞬間に優越感が最大化するんでいいのかな?別れてパリコレに行く前フリとして、自分が原因の失敗感を煽っているんでしょうか?分かりにくいですねぇ。でも、モトカノの女優(笑)と会っているのを教えてくれる役回りに瞬間的にシフトしてますね。友情?んー。パス。
 
しかし、まぁ、女の子の敵は女の子なんですねぇ。
 
あっと、パリコレなんかの話もありましたっけね。アレは、社会的な地位までゲットして帰って来ているんですよね。カッコイイ+社会的にも認められている!っていう意味で、ハーレクイン系での基本アイテムらしいですね。男の価値はトコトン高い方が良いんでしょう。
ここも潜在構造的には、冒険しにいくのは男性の仕事なのですよね。微妙に臆病な女子のハートに配慮があるような気がします。
 
 
しかし、現実の女の子は現実的、らしいのが不思議なところですね。
 
 
全体的に「フツーに読んだらどうでも良いレベルの作品」であること、の原因は、妄想を邪魔する夾雑物の排除、にあるのでしょう。これはBLと同レベルの高感情移入系の作品構造だろうと予想できます。BLだってロクに読んじゃいませんが、たぶん女の子の妄想の邪魔をするのは作中の女子の存在なんだと思います。
 
次に、女子のマンガの読み方は、男子よりも脳内が強めなのかもしれないという予測が立ちます。つまり、男子は物語をそのまま読み、女の子はマンガを媒介として、自分の妄想を炸裂させる読み方を好むのではないか?というものです。故に、マンガ作品自体には妄想を喚起する切っ掛けがあれば良くて、余計な情報(やリアリティ)は無いほうがむしろ良いのかもしれません。
 
 
自分だけを見てくれる男性が好き!みたいなのが強いですね。平等に配慮するタイプは嫌われるといいますが、不安が大嫌いなのはどこまでが女性の本能なのか、ジェンダーなのか、教育なのか?という感じです。
……それと微妙に匂いますね。女性側にも漂う処女幻想の臭いが。いや、正確には、男性の処女幻想と重なりつつ微妙に違うのは、最初の男性を特別視する視線、ですかね。この視線が女性側にある限り男性側の処女幻想は消えません。当然でしょ。まぁ、笑ってナイナイ!とかいえるようになってたらビッチ判定されるので参考意見にしかならないという罠があります(笑)
基本的に臆病な、あまり冒険とかしたくないフツウよりも弱め女子ってのに配慮があるような感じですね。
 
 
こんなところでしょうか。