戯言

 
●ヲタク批評の未来について
結論を考えると、漫画やアニメを語るのと同じレベルで政治や経済のことを論じられるようになるものだと思う。そんなことを言っても個々人は得手不得手がそれそれあるわけだから、実際に個々人がその方向を目指すかどうかはともかくとして、(1)作品の時代性、(2)国家などマクロの題材に対する知識の必要性、(3)非ジャンル性・越境……なんて辺りが根拠として考えられる。
 
 
(1)作品の時代性(社会性)
 作品を論じる場合にその背景となる時代を分析する認識力が必要だ。作り手側ってのが結果的に時代を反映した作品を作ることになるのは周知の事実。よって批評も時代性との関係が問われるようになる。「社会性からの現実逃避」は心地好いのだけれど、ブームかジャンルでしかありえないと思う。国民のふいんき←何故か変換できないとかでね。
 
まぁ、個人的には過剰に分析的って方向はあんまり好きではない。そもそもの目的からはブレていく運命だと考えるからだ。批評がある程度コンテンツとして魅力的だとしても、そこに何の目的があるのだろうか?(話を飛躍させてしまうけど)結局は批評・論評は「新しいヒット作を生み出す土壌」足りえないと思う。論理的に正しい作品作りには貢献すると思うんだけど*1、それって大ヒットを保証するための仕組みじゃないよね。批評なんかしてねーで作品作れよ!と言われてしまうだけだろう。すると大ヒットを飛ばした経験者しか物事を語れないことになってしまう。
 
批評側は批評によって問題点を指摘したり、アイデアを生み出す下地を作ったり、解釈の基本レベルを底上げする機能を持っている。「当たり前」と思うレベル、共通認識の押し上げとして(それが目標というのではなく、結果的に)機能するべきものだ。批評家が作り手より偉くなれるわけじゃない。
 
作り手本人がマーケティングに精通していって強化人間になるのはその世界で成功するための方法の一つだから何の問題もないけれど、批評者が過剰な分析を振りかざして作り手(+予備軍)を威圧する構造になってしまったら社会的に害悪となる。それは批評者自身が自らの知の証明として自滅すべきだろう。
 
個人的にサブカルブームに乗っかっていないから変な意見かもしれないけど、サブカルで全般的にやっていることって科学や哲学による洗礼であったり、洗練化なんじゃなかろうか?というイメージ。(←間違ってるかもしれないけどね)勝手気ままに感想ともつかないままの分野であったものを、科学化や哲学化の文脈で整理し直す奴が出てきたら、そりゃ勝てるだろうし。(いわゆる学問化)
でもそれで過剰なものに仕上がったら「おまえら何がしたいの?」という意見を言わないといけない。それをやれるのは同じ土俵に立って論破できる知識のある者達だけだけど(笑)……私が何を言っても無駄無駄無駄無駄ァ!!なわけで。
 
結局、この手の話にしても社会性の問題だ。そりゃ色んな意見を論じられるだろうし、正しくないように見える意見でも許容するフトコロが無いとイカンということもある。たとえば「作品のことだけ論じていればいい」という意見は、自己批判性を否定する意味でよっぽどカルト宗教に近いと思う。
 
 
(2)国家などマクロの題材に対する知識の必要性
海外ドラマの「24」はテロに対抗する話で、9.11の悲劇が下敷きにある。それからコードギアスみたいな作品はやっぱりマクロのダイナミズムが大きな魅力になっている。または「狼と香辛料」みたいな作品は経済ネタがラノベとして目新しくてネタの新鮮度→ジャンルの拡大という要素をもっている。
 
24もギアスもマクロの題材を扱っているわけだけど、24の方は現実の政治に興味がないと分からない部分があるかもしれない。政治オンチや経済オンチのままでは作品への理解で問題が生じるかもしれない。そんな状態だといい加減な作品でも問題視されなくなるだろう。(「ねーよwww」が言えなくなってしまう)批評側が活性化することで、作品の質を引き上げるための適度な刺激にも期待したい部分があるのだ。つまり批評者は専門性が高くなりすぎてもいけないし、いい加減過ぎても駄目なんだろうなーとか思うわけだ。←当たり前の話しかしてないつもり
 
政治とかの話がなんでヲタク批評者と関係あるのか?というと、結局のところ、物語ってミクロな話と、マクロな話しかないんだよね。
まず「舞台・社会・世界観・世界設定」があって、次に視点キャラや感情移入先の「主人公」がいて身の回りの話をやる。それから「マクロな状況やそれを担うキャラ」が関係してくるという3つのレイヤーで作られているのだ。
極論してしまえば、身の回りの話以外は、もうすべてマクロの話だろう。たとえばロミオとジュリエットなら親の世代の闘争を背景として、本人達の恋路が邪魔される。舞台設定とそこに現れる社会や社会性が生み出すタブーなんかと親世代の闘争がマクロ的な動きを形成するわけだ。いや、本人達だけでイベントが進む話だってたくさんあると思うんだけど、そうじゃない作品だって多いわけで。
 
……要するに、マクロの話題はある程度から先は「不可避」だと思うわけだ。漫画政治感覚やアニメ経済観念みたいな閉鎖空間上の知識は……言葉は悪いけど「近親婚で子供に障害」みたいなマイナスがあると思うわけで。
題材に組み入れるべきは現実に即したものであり、現実そのものに観察される面白さだと思う。そこから抽象化するのは作家の腕であり、それを上手に楽しむのが批評側のマナーだろう。
 
偉そうに言葉を振り回しているけど、私はもっとお勉強しないといけない(苦笑)
 
 
(3)非ジャンル性・越境
オタクに限らず、人間の集団はホットな方向に流れる。それがヲタク批評では結果的にジェネラリストを形成することにつながっていくんじゃなかろうか。だから、基本的にはボーダレスの性質をもっていると考えられる。
 
……この傾向が強くなりすぎると、好きな作品なんか無くて、ファンにならない客を増やしてしまうかもしれない。表面的な消費がオシャレか?と考えれば、単にペラッペラなだけだ。それはいわゆる「ゆとり乙」なんだけど、「必ず部活動に所属しなさい」(=何かの作品のファンになれ)みたいなアホを言えるわけでもない。
 
ちょっと脱線だけど、立ち読みみたいな消費活動に言及する。
立ち読みに関してはサービスの二重取りを指摘をしておきたい。たとえばコンビニで立ち読みして、その雑誌を買わないで別の品物を買ったとすると、サービスの二重取りができるんだよね。それがどんなにみみっちい行いでも、金銭感覚的には間違っていないと思う。雑誌を単に買うのと、雑誌を立ち読みして他の商品を買うのでは明らかにお金の効率が違うからだ。……まぁ、それでデザートなんて買ってたら成人病まっしぐらなんだけど(笑)
 これで困るのは作り手側で、しょうがないからと消費者のモラルに訴えるぐらいが関の山だ。つまり、立ち読みするのは最低の行いだ!とかなんとか言って、消費者の自尊心を汚して喧嘩を売るわけだね。しかし最高の宣伝は?というと、そりゃあ無料サービスしかない。購買意欲を刺激するには、タダで試し読みさせるのが一番良いからだ。(タダに依存させるのとは区別すべきだけど)
 
それなら雑誌をタダで立ち読みさせて利益を誘導しているコンビニに出資するように求めてみては?なんて考えたりできる。企業としては金を稼げばいいんだから、別に消費者から直接とらなくてもいいわけじゃん。食料品に雑誌代を上乗せしたって同じことだもの。そりゃこんなのは寝言でしかないけど、私が知らないだけで実はそういうことになっているのかもしれない。そして、もしもそうなっていたとしたら、雑誌+食料品を買うって行動は「料金の二重払い」という現象になるわけだよ(笑)その上で雑誌を立ち読みで済ます小市民はみっともない!とか言ってたら物凄い厚顔ということになりはしないかな?(笑)
これなら雑誌を読み捨てにさせられるし、コンビニに卸す場合には今より安く(=コンビニが儲かるように)設定できるかもしれない。(雑誌の影響力が弱い時期には無理な相談だろうけど)つーか、これだって物語に出てくるようなお約束の解決策をてきとーに書いてるだけだし。
 
立ち読みの話はいいとして、
コミュニティ形成では「同じ話題の共有」のために閉鎖の方向があり、
消費行動としてはベストセラーに流れていく開放的な方向にある。
 
個人的には、閉鎖的である方がより正しいと思っている。人間は結局のところ、どっかで認識を深めていく契機をもつことになるし、そのことに対して対処療法的な行き当たりばったりになりがちだ。ほっといたって行き当たりバッタリになるんだから、テメーの自由の利くところでは準備する方がベターということが言える。(だから本を読め!みたいな文脈にも接続させ易いね)
 
……で、ここでの問題は、閉鎖していなければならないのか?という部分にある。
 
美学として個々人が閉鎖的であることを選ぶのは構わないのだけれど、上記したように専門性が高くなって作り手を威圧する構えになっては駄目だと思う。
 
そして逆に、お前らには関係ないだろ?ということで閉鎖させられてしまうのも納得がいかない。(ワガママw)それは今度は「近親婚で子供に障害」の方向になる。他ジャンルを勉強できないと、新しい血が偶然に入って来るまでアイゴー!と嘆いて待つだけになってしまうだろう。
 
そもそもボーダレスなものに対して、自分で枷をはめるのは自由だけど、「枷をはめるのが当たり前だ!」という意見にしてしまうのは賛同できかねる。他者を拒むということは、自分も他者から拒まれるということを意味する。暖かく受け入れりゃいいじゃないか。自分だって他者から暖かく受け入れられたいもんよ。そのためにはマナーが大切。ご利用は計画的に?
 
ゴーンさんからは他部門との交流(クロス・ファンクショナル)が解決策として提示されている。それには、まず閉鎖的であることによって専門性を高めることが必要で、次に他部門との交流が可能な開放性が求められる。
データが揃っている場合に、ジャンルを問わずまともな判断を下すことのできる分析力を持つ知性・悟性を共有することが求めるべき状態ということが言える。
 
 
○まとめると、
結局、漫画やアニメを論じることがそのまま政治や経済を判断することにつながっていくハズだと思う。というか、敢えて政治や経済という言葉を使っているだけで、個々人は複数分野のなんらかの集約的存在であり、それぞれが何を集約しているのか?が個性の問題として認識されうる。境界線は邪魔でもあり、便利でもあるのだから、便利なものとして邪魔にならないように運用すべきだと思う。
 
漫画の話をするということは、そのまま政治の話をすることに近しく、経済を論じることはアニメを語ることと大差がない。そう成れ!というつもりはなくて、そうなっちゃうんじゃないの?という疑問系でもある。

*1:そのためにリアルであることに高い価値を置きたがる傾向とかがある