認識装置(2)

 
2009/3/1 容量オーバーらしいので分割
 
<注意>
辞書的正しさを追求してませんので、そのつもりで!
 
 
ライフハック
ライフハックとは「デキる男の仕事術」みたいなもの。誰かが自分より優れていることが許せない気持ちにまつわるモロモロ。向上心との微妙な違いに注意。自己啓発そのものよりも、自己啓発“本”に対する侮蔑などを代表する言葉・概念。
「防衛的ライフハック」とでも呼ぶべきものは個人的に推奨する。損は小さくするべきである。
 
 
●怒られ方のコントロール
誰かに怒られなければならない場合、卑屈であってはならない。申し訳ないという気持ちは表現しつつ、卑屈に見えないようにすることが大事
怒ることに慣れている人は絶対的に少ない。怒らずに叱るべき等と言うが、一度怒り始めると怒っていること自体に興奮し、段々とエスカレートする傾向にある。この時に卑屈に振舞ってしまうと「こいつ怒られるようなことをしたんだな」と判断する心理が働き、大した事件ではなくても過剰に怒られてしまうことがある。
 
実際にあったこととして、
全く同じ理由で怒られているのに、私はちょっと注意されただけで済み、友人は卑屈な態度をとったばかりに怒鳴られ、しつこく怒られたことがある。しかも直前に怒られた私は横でそれを見ていた。卑屈に振舞うことで結果が変わる。残念ながら、怒りながら論理的でいられる人間はとても少ない。
 
怒る側の心理を考えれば、誰だって相手に嫌われるようなことをしたくはない。しかし周囲の人間の手前、怒ってみせなければならないことも多い。
例えば遅刻などは大した失敗ではないので怒る必要なんか無いと思ってはいても、ダメなものはダメなのだと示さなければならない。叱るのが嫌で大目にみてばかりいると、真面目にやっている人間を損した気分にさせる。怒ることが出来ないのはそれだけで軽蔑の元になる。
 
いざ怒ってみると、今度は相手からの反撃が恐ろしくなる。嫌われたり、陰口を言われたりするのはやはり面倒だ。反撃が怖い場合、相手を完全に叩き潰そうという心理が働く場合すらある。
だから「自分が間違ったのであって、怒られたからって嫌いになりません」という態度が望ましい。
 
しかし、怒られている時にあまり馴れ馴れしい感じをさせるのも良くない。
「怒っても大丈夫な人間」というイメージを相手に植えつけてしまうと全体責任の場合にも周囲に対する「怒られ役」にされてしまう場合がある。これでは無能のレッテルとなってしまって、異性に対するウケなどが途端に悪くなる。異性に尊敬されない場合、同性からも軽く見られることは避けられない。
「みんなが怒られる代わりに自分が怒られているのだ」と分かっていれば、自己犠牲の精神で誇らしく思える場合もあるのだが、特に女性の場合はそんな事情を考慮するような常識を(少なくとも30代半ばまでは)期待できない。仮に特定個人に良識があったとしても、その子の友人には無い。人間は個人の思想よりも周囲への体面を選ぶ。友人が軽んじている人間をパートナーには選べない*1。そこに良識は関係ない。つまり、貴方の利益とはならない。よって、怒られる場合には適度な距離感を保つ必要がある。
 
一部の人間は怒ることに快感を覚えている。その相手は怒ることに権力や優越を感じている。怒るのは相手のタメになるといった自己正当化をしているだろう。なるべく遠ざかるようにすること。しかも相手は有能なフリをするのも得意だから注意が必要だ。周囲の人間も怒られるのが面倒なのでソイツの仕事を優先してやるように訓練されてしまう。(これが原因で優先順位が変化し、マルチタスク化することもよくある。つまり有害。)当人はそれを自分の有能さだとすっかり勘違いする仕組み。大抵の場合、ソイツ自身はミスだらけなのだが、周囲が仕方なくカバーしているので気付いていないか、気付いているのに当然と思っているかだ。
対処方法は各人の資質によるのでこれといったものは無い。ただ、救世主を待つだけなのはあまり有効ではないのは確かだと言える。
 
●性的緊張感
緊張感には2つある。ひとつは「普通の緊張感」。もうひとつは「性的な緊張感」だ。
幸運にも自分に対してにこやかに振舞う異性が現れたとしよう。いい雰囲気になって来た頃、にこやかに話していたのに突然に変な顔をしはじめることがある。それは嫌悪の表情か、性的な緊張感のどちらかだ。相手が自分に対してニコニコするのが当たり前になってくると、目を逸らされたりするだけでも自分を怖がっているように見えたり、嫌悪の表情に見えたりして「これ以上は進んではいけない」というブレーキやストップのシグナルなのではないか?という疑念が沸く。しかし、なにか薄気味悪い失敗でもしていなければ、その居心地の悪さは「性的な緊張感」である可能性が高い。(つーか、ぶっちゃけこれで大ポカやらかした)
相手は誰にでも公平に振舞う親切な「ただの他人」か、もしくは、もう少し親密になることを望んでいて緊張でこわばっているか、だ。どちらにしろ、親切なだけの他人に対処する方法も可能性も用もありはしない。
性的な緊張感の居心地の悪さから自分と相手とを解放するには2つ方法がある。つまり「その場から逃げる」か、「関係を少し先に進めてみるか」だ。 ………… そういう時は、迷わず逃げろ! 家に逃げ帰って「ぜってー無理ーッ!」と叫ぶのがベストだッ。無事に逃げ切れれば後で笑い話になるぞ。二次元は常に我々の味方だが、三次元に捕まったら奴隷にされてしまう。自由を失うのだ。騙されるな、それはドッキリだ! 美人局だ! ボッタクリだぁぁあああ!!
人間関係について
 
●衝力<衝撃力><インパクト>
しょうりょく。人前では誤解を招いてもしかたないので衝撃力。手で作るもの・脚で作るもの・それ以外とに分かれる。プレ・インパクト面*2を形成し、突破することで大きな衝撃を発生させている。(実はこれもデコピンの原理)
物語で応用する場合、大抵は「タメ」を用意するといった理解のされ方をする。事前に予測させておいてソレをもっと良い形で裏切るのがインパクトの一般理解であろう。ただ勢いよくぶつかってもインパクトにはならないことに注意。
遠回りに感じるかもだが、実際のところプレインパクト面の形成が鍵を握っている。
 
 
●省力<省力化>
しょうりき・省略する能力。しょうりょく化の方が日本語らしく響く。省エネのような概念。電気なら省エネ。運動なら脱力。仕事の効率の良さなどなど。
物語の場合、その理想は「最低限の要素」で必要な情報(総体的なそれ)を表現し、自動的に相互補間される状態にもっていくこと、と記述できる。
省力は共通性に対する認識等を前提とするかなり高等な概念なのだが、高等過ぎるためか、あまり重要視されない。
 
●装飾性
省力の反対? 演出の一部として適度な装飾性は重要な要素となる。
適度な装飾性はこれぞまさしく見せ場を作ることになる。一番目立つ美味しいところ。このためか装飾性も競争性を持ち、インフレする傾向がある。過剰な装飾性・過剰演出はあまり歓迎されないわけだが、これは省力のある人間がバランスを見極められるかどうか?という本質的な能力の話に行く定めである(たぶん)
 
多くの概念はその中心的な発想はあまり目新しいものではない。各分野でそれぞれに違う言葉を当ててしまうため、簡単に分かることも煩雑になってしまう。
 
●乱雑化
人間には不必要なことにまでいちいち反応しようとする超軽薄な認識の性向があって、この傾向が目的達成の邪魔になる。 目先のことに騙され易い人間という付和雷同な認識者は、事態が難化するほどに構成因子の処理に忙殺され、統一的に処理できなくなる。これを乱雑化と呼ぶ。
この用語集の記事が増大の一途を辿っているのも乱雑化と言える。
 
●難化
むずかしくなること。あらゆる理由で難易度は上昇する。……量がいっぱいあったり、内容の質が高かったり、事件がリアルタイムで起こっていたり、自分の処理力が高まってバランスが取れなくなったり、ここぞって時に緊張したり、便意を催したり。
潜在的に目的があることに注意。目的無しに難しくなったりはしない。「成功の基準を決めているのは誰か?」という点に真実が隠されている。
 
●ニッチ
「隙間」等のこと。乱雑化の超軽薄な認識性向がありとあらゆる隙間に入り込んでいく源泉とみれば、乱雑化もそう悪いものではない。(たとえ初期の目的を達成することができなくても……)
「理想とは違っちゃったけど、今の方がもっと楽しい……そういうことだってあるよ!」(アイシールド21)
 
 
●統一化・統合化
乱雑化があるならば、当然のことながら理想的な状態、もしくはより理想的な状態が有り得る。分散に対する集合と似た意味で統合化という。統一的運用。
人間は少なからず統一的な処理を行っているわけだが、常に乱雑化の大攻勢を受けることになる。乱雑化への対応をギリギリ最小化し、共通性を最大化することで根本的な処理力を高めることが望ましい。
その最強の装置は中心軸。これは実体操作であっても情報処理であっても同じ。
 
○分立統合
運動概念。分立構造の統合化。理想的な統合化のカタチのひとつ。
各要素を分立させつつも、全体としての統一性を失わないようなまとまりを持った状態を分立的統合という。一見バラバラなんだけど、芯が通っている感じ。実際にはご飯をたべながら、喋りながら、テレビを見るのも分立統合となりえるため、威力などの要求水準の問題と言えるだろう。(芸術鑑賞においても分立統合的な観かたを追求する記述が見られる)
同時攻防動作などの複数の目的を同時に処理したりするための概念。
 
・同時攻防動作
スポーツの場合その大半がボール等を介することで「攻め」「守り」が入れ替わる。格闘技などは攻守の入れ替わりがルーズで、同時タイミングまでもが存在するため自由度が圧倒的に高く、同時攻防動作が発生し易くなる。ボクシングのカウンターパンチを例にすると、相手の攻撃と同時に自分も攻撃し、相打ちにならないように防御もこなしている。複数の小目的を同時に処理するため難易度が高い。
 
運動パターンの例
自由攻防 → 武術など
交互攻防 → 球技などのスポーツ
 
戦闘機(飛行機)の場合は後ろを取った側が前方を攻撃する形態のため交互攻防に分類されるが、カーレースや自転車、競馬の場合は勝利条件の違いから「攻・防」としては判断しにくくなる。ラストの直線で並んでフィニッシュ的な状態は同時タイミングに見えるなど分類としては曖昧さを残す。
 
 
●本質
ある存在を、必然的にその存在と規定する「内実」…………を本質とした時、人間の本質などというものは外部化されてしまうかもしれない。
貴方は単なる思考だろうか? それとも、魂か?
 
●重心(中心点)〜中心軸
人間の本質的能力のひとつは「重心を把握すること」にある。
あらゆる難化・乱雑化に対抗するためには、重要要素(重心)を見抜いて処理をしたり、要素の共通性を利用して負荷を軽減させることが有効になる。
スポーツであれば、重心に対してより正確に力を加えることが求められる。情報においても重心を構成する有形・無形の中心に適切な力を加えることが求められる。中心軸とは重心を通過する軸のことを言う。重心を高度に機能化したものが中心軸である。
 
例:中が空っぽのボールには重心点には物質的には何も無い。しかし、重心は存在している。その物質的に何もない点に対して正確に力を加えるということがハイパフォーマンスの根本、基礎となる。
 
○重心操作
「腰を落とす」という表現は重心を下げることを意味していて、重心さえ下げられていれば外見が中腰でも十分となる。低い姿勢はそこから起き上がるにも筋力を要するため運動の目的からすればロスが大きく成り過ぎるのだが、指導者の実力不足が色々と面倒を引き起こすことになる。逆に重心を高く保持したまま低い姿勢が取ることが出来るようになると、立つ時にサッと戻れる。高度になって来るとこれら上下以外にも前後・左右の重心操作が出来るようになる。相撲や柔道などでは重心操作のレベルが実力に直結していたと言われる。
 
●デジタルとアナログ
この記事すべてに言えることだが、これらは当サイトでの使い方である。
 
・よりデジタル<デジタル化>
デジタルとは、要素を区切っていること。本来区切りの無いものを区切ること。
そしてより大きく区切ることをデジタル化と考える。
1000個に区切れるものを、10個に区切る方がよりデジタルであると言える。
 
・よりアナログ<アナログ化>
実際のアナログとは川の流れのように区切れないもの・状態。
デジタルとの対比から、より細かく区切ることをアナログ化と呼ぶ。
1〜10までで区切るよりも、1〜1000で区切った方がよりアナログ的と言える。
 
○デジタル族とアナログ族
何の作品をみても「面白い」か「つまらない」しか言わない人々のこと。別に悪いわけじゃないんだけど、細かく話したいときは物足りなくなる。作品批評としては○か×かなので、デジタル化の極地。もっと細かく点数とかつけたりしていくと段々とアナログ化していくことになる。
アナログ族はデジタル族を馬鹿にしがちだが、しばしば自分以外の作品批評は的外れだ!と思う精神状態におちいることになったりする。そんな時にデジタル族が「面白かったよ」としか言わないと、癒されたりするものなのさね(笑)
 
 
●能力
簡易説明。オーソドックスなのばっかり。単品では役に立たない。
 
・柔軟性
柔らかいということは、簡単に言えばポリゴン数の問題。なめらかに動くには身体の反応点を増やす必要がある。「よりアナログ」にも近い。ポリゴン数が多いとコンピュータでも処理に負荷がかかるわけだが、人体でもこの負荷が脳を刺激し、活性化を促すことになる。柔らかさは好循環の出発点。
 医学的にも人体の老化現象とは「肉体の硬直化」とほぼイコールで考えられているため、本来のアンチエイジングとは柔らかさのことを言う。仮に細胞自体が若くても(例は悪いが若年性アルツハイマーが存在するように)機能不全をカバーすることは難しいと思われる。ちなみにここでいう柔軟性は関節駆動域とはあまり関係がない。「関節の自由度が高い超合金ロボ←→全体がふかふかのぬいぐるみ」の差。後者の方が人体の状態として望ましい。柔らかくて暖かいと優しさ。
反応点が増えれば細かくなり(ストラクチャー)、そこになめらかさ・柔らかさ(クオリティ)が加わることで「細やか」となる。たとえ反応点が多くても棘棘しかったらヒステリーになってしまうことに注意。
 
・中心軸
立つという人間の根幹に関わる概念。重要過ぎて説明不可。ポイントとしては体外に延伸されるということ。ある意味では誰でも持っている(いた)もの。通常ではない段階における天才の資源であり性質(併せて資質)。
 
・冷徹(上丹田
頭部の能力。説明は省略。情報のアンテナとセットになると強い。
 
・情熱(中丹田)
胸部の能力。程度の差こそあれ、ごく一般的に見られる。実際、熱いだけではほぼ役に立たないため、他の要素とセットになってないと使い物にならない。駆動力として別の能力のエネルギー源になったりしている。例えば怒りのパワーで(周囲にあたり散らしながら)仕事をこなす有能な人が結構いる。胸に秘める系統もあるし、暑苦しさとして現れることも。
 
・意思力(下丹田
腹部の能力。「重さ」や「充実感」の質性を持つ。信念の強化、恐れの軽減、清濁を併せ呑む等。また、胸部の熱性の上昇を封じる効果もあり、頭部の冷徹さを守る仕組みになっている(→怒りっぽさの軽減)
 
・鋭さ
通常の意味で天才性のこと。キレの良さ。天才性とは「実力」になる前の「高い可能性」のこと。脚部から発する上位の能力で思考にも当然に影響を及ぼす。(思考も運動の一部でしかないため。もしくは運動も思考の一部。)
 
・飛翔感
精神の高度な自由さ。少女漫画とかでいいトコなしのヒロインに「せめてもの価値」として備わっていたりする(笑) 肩〜肩甲骨周辺から発する能力。精神的に浮付くので、ハラとセットになってないと失敗して「地に落ちる」ことになり易い。この時の深い挫折感も少女漫画の原料かも(笑)
 
・前方力(前進力)
人によってはこれが一番重要な能力だと思うであろう前方力だが、これが前方力だ!という決定版は実はない。前後に延びる軸があったり、アクセル筋の活性化だったり、後ろに倒れまいとする支えであったり、背中を押す力の流れだったり、それらの能力を駆動させる熱力だったりするようだ。突破力にしてもパワフルで強引な突破だったり、切り込んでいく鋭さ、スルリと入り込んでしまう滑らかさ等がある。ある意味ではありとあらゆる方法で前へ前へと進む能力は作られている、とも言える。
 
○スターとヒーロー
スター性はフェイスの涼しさと中丹田的な熱量によって構成される。フェイスの涼しさは上丹田と似ているようでいて別物。熱量によって共感し、ほだされ、矛盾するクールなフェイスに魅了されるという仕組み。
ヒーロー性は中心軸と3丹田が揃っている必要があるとされる。物語ではスターを英雄の偽者(偽主人公)として登場させる傾向があり、フェイスと上丹田の違いを捉えておバカとして表現したり、下丹田の無さを使って怯えるところを描いたりすることがある。ただし中丹田は本物であることから、スターが本当に情に厚い部分を見せることも。
 
○内的抵抗と外的抵抗による二重苦
会社などの組織では、会社内部での意思を統一しようとすると内的抵抗が発生する。意思をまとめて実行に移そうとすると今度は外的抵抗にあう。このように「抵抗(摩擦)」は内部のものと外部のものの2種類に大別される。
同様に、水泳では水の抵抗が外的抵抗に相当し、内的抵抗とは身体的な滑らかさ(の無さ)のことを意味する。
この抵抗に対処する方法は「パワーで強引に突破する方法(対抗)」と「ロスを少なくして滑らかにやり過ごす方法(回避or親和)」に分かれる。
内的抵抗の概念が非常に有用なのだが、その応用範囲は非常に多岐に渡るので省略。実際以上に物事が難しく「感じる」といったことの原因となっていたりする。 
 
 
○はやさ ――スピードに関係する概念
・速度
時速○○キロのような通常の意味のスピードのこと。
 
・加速度
加速度は、「単位時間辺りの速度の変化」を扱う概念。加速には時間(距離)が必要。早度との違いに注意。
 
・早度(そうど)
動き出しの敏捷性そのもののこと。格闘ゲームを例にすると、攻撃技の「発生時間の短さ」などを表すことを目的として使う。1〜2秒以下の単位時間限定での高加速度のこととも言える。ロケットスターター。
 
例えば、自動車みたいな最大速度までの到達に数秒を要するものの場合、加速時間帯の関係で、低早度・高加速度がありえる。最初の数秒は人間が走った方が早い、など。
 

青色の範囲にある右ナナメ上へ伸びる矢印が「加速度」の働き方。青色の範囲が概念的に示した人間の通常の認知範囲。これを仮に「加速度系認知」と呼ぶことにすると、赤色の範囲は認知範囲外(=反応できない・無防備)ということになる。赤は「認知範囲外」であるため、本来は名前は無く、存在していないことになっている。この赤の範囲を「達人系認知」もしくは「早度系認知」と呼ぶことができる。早度は時間とともに高レベル→低レベルという風に劣化する概念・認知系。
球技でのボールの動き等は初速が最高速であり、そこから加速することは無いので早度系認知に近しく、格闘技などの場合は逆に筋力の発揮が運動の後半に加速していく加速度系認知に近い現象となっている。
 
○観の目、見の目(かんのめ、けんのめ)
武蔵の「五輪の書」から。見の目とは、集中してしっかりと見ることを言う。時代劇などでギロっと敵を睨んだりすることも見の目に入る。
観の目とは全体をぼーっと眺めることを言い、遠くの星空を見ているような状態を指した概念。何事においても、熟練すれば「そのもの」を強く見る必要はなくなる。実は「観の目」のように良く見ていない状態の方が、反応速度が高まるといった効果がある。
 
○ブレーキ筋とアクセル筋
通常の前方運動に於いてモモ前の筋肉(大腿四頭筋など)がブレーキの役割をし、モモ裏がアクセルの役割をする。モモ裏でも特に、大殿筋(ケツ)と大腿二頭筋(の上部)の組み合わせが重要で、日本語にはこれに相当する用語(→外国ではハムストリング、馬で言う「トモ」)が無いため、専門家はこれを分かり易く「アクセル筋」と呼ぶことにした。特にケツとモモ裏の中間のポイントに秘密がある。
レッグカールはハムストリングを鍛える運動と言われているが、走力などを高める上では全く効果が現れない上に、怪我だけし易くなる。あれはやっちゃダメ。(レッグカールは撲滅せよ)
 
・階段の登り方
階段に脚をかけ、膝下を垂直にして乗せ、体を引き上げるような要領で、アクセル筋が「実際に動くこと」を確かめるようにすること。
 
・美しい脚
まず脚を無駄に太くしないために骨格で体重を支えることが重要。内くるぶしの真下で立つ姿勢など。(個人的には手遅れだった。こういう情報って分かんないんだよねぇ(涙))
次にアクセル筋の発達している脚の方が実際に美しい足に見えるようになっている。ブレーキ筋の方が肥大し易いのだが、どうしてもバランス的に不恰好になってしまう。
ふくらはぎ(下腿三頭筋)も鍛える必要なし。細いほど良い。カーフレイズ系のつま先立ちの屈伸動作は低速運動中にしか需要が無い。つまり、いわゆる全力で走ったり、ジャンプするような高速運動中にふくらはぎの筋肉(→つま先のキック力)を利用しようにも進展速度が「遅すぎて間に合わない」のだ。このため、無理に使おうとするとブレーキになってしまう。(正確にはつま先の進展速度を基準に動作を構築してしまう。)
 
・おまけ

 
●ラフパワー/レフパワー
高岡英夫による運動科学の重要概念で「荒っぽい力」と「洗練された力」のこと。
全身を動員しての筋力発揮はラフパワーに近しく、制御を無視した粗雑な動作となり易い。リファインパワー、略してレフパワーはバランスやコントロールを備えた「実戦的なパワー」のことを意味する。
筋トレ式の測定法によるMAX測定はラフパワー測定に近い。記号的に複雑な競技*3においては、ラフパワー中のレフパワーの割合がその選手のパフォーマンスの高さに直結し易くなる。
例としてパワー比べの一種としてのゴルフのドライビングコンテストでは、道具を介したパワーの発揮にレフな要素が必要ではあるが(初期レベル限定で)ラフな要素がより有効に働きうる。しかしアプローチ・ショットの場合、コントロールをメインとした筋力発揮を必要とし、レフパワー優位の競技構造をしていることが分かる。
 
ラフパワーはコントロールを打ち捨てて全身による筋力発揮を行うため、眉間にシワをよせ、歯を食いしばり、目を血走らせる。(握力測定の時に全身を緊張させる感じ 等)自らの筋力発揮により内的抵抗を強めて力を出した「つもり」になりやすい
レフパワーは顔は涼しげ、もしくは能面のように表情が消え、目は目標より遠くを眺めていて焦点があっていない場合などもある →観の目、見の目
  
イメージ図

マンガなどの場合は、時に極端に強力なパワーによって道具を使用できる耐久度を越えてしまうことがある(ダイの大冒険ネギま!ラカンなど)その場合には「道具が発揮できるパワー」を限度としたリミッターが掛かってしまうことを意味している。これはラフパワー構造であり、「パワーによる道具の使用」になっている。
 逆にレフパワー構造では「道具によるパワーの動員」という逆転現象を起こし、使用者のパワーを越えた結果を道具によって引き出すことになる。道具の性能・可能性を極限まで引き出すことを追求した結果として、「道具に身をゆだねる」「道具に有利な風に身体を動かす」といったような動作が生まれ、その結果としてより高度なパフォーマンスを発揮することが可能になっていく。
 
 
●理力(りりょく)―2009/2/26
管理人による独断的命名。理力というとジェダイの騎士達が使う「フォース」の訳語だが、近年はあまり使われないらしいので敢えて使うことにした。表面的な現象としては「自信がある状態」のこと。自信ならば誰でもなんとなく知ってはいるが、実は謎の現象。「自信力」とするのはネーミング的な問題から避けた。
主な能力として想定されるものとして、
・気圏の(調和的)拡大
・対萎縮、対拘縮、対封殺システム効果(結果的に柔らかさの保全
・非緊張状態・脱力体の形成補助*4
・排他的自己中心性のようなありがちなマイナス側面の回避
 
○パーソナルスペースと調和的な気圏の拡大
パーソナルスペースとは「心理的な私的空間」「カラダの周辺の縄張り意識」のようなもので排他性をもつ。親しい相手に対しては狭まり、他人に対しては広くなる。物理的・動物的・本能的な警戒感の名残りといわれている。
しかし自分としての領域(気圏)を広くとろうとすると、パーソナルスペースの性質とは矛盾することになる。そのため調和的な拡大という逆転現象を必要とする。
 
○萎縮
緊張などで筋肉や関節が収縮し思考や動作の邪魔をすること。より心因性のものをここでは萎縮とした。
 
○拘縮
「拘縮(こうしゅく)」は介護等で使われる用語で、周辺組織の硬直により関節が回らなくなる現象のことを言う。より身体的な(ここでは極めて軽度なものを含む!)硬直を表現するために使用している。肉体は、柔らかい状態のものが硬くなっていく傾向にある。(その第一歩は赤ちゃんの「首が据わる」ところから始まっている)短期的にはカラダの凝り、長期的には老化現象として拘縮が進行してゆく。拘束+収縮。
 
○封殺システム
出る杭を叩くような低レベルな同調圧力や、他人を邪魔しておいて「必要な試練」とか言って平気でいられるような感覚、ちょっとした嫌悪の態度、邪魔ならば排除すればいいと考える特定個人の成功パターン ………… このようなあらゆる方向から他者を平面に均そうとする社会的・人間関係上の複雑な仕組みを仮に封殺システムと呼ぶことにする。
 
 
●対処
図々しいだけの凡人は邪魔をしたいだけなので実力があるならば強気で押し退けて良い。むしろ強い人間に迫害されるドラマを望んですらいるらしい。彼ら彼女らは、こちらの対応を観察していて、強く対応すると去って行く。弱く対応するとカモにしようと近付いてくる。それら被害者になりたい人達を大事に扱い過ぎれば恨まれたり、邪魔を始めることがある。どうやら彼らに陰口・悪口を言う権利を残してあげないといけないようだ。
しかし、謙虚な人達を迫害するようなことは決してしてはならない。誠実に対応すること。
 
●駆逐せよ! 殲滅せよ!
やる時は、やりなさい。どうしても必要になる時はある。覚悟を決めること。悪はまとめて一時に成しなさい。そして善を長く保ちなさい。
 
スペシャリスト−ゼネラリスト問題
オタクは、スペシャリストなのか?という話を含むどうでもいいこと。基本的にオタクはゼネラリストであることを周囲に求められている。
 
スペシャリスト
専門家のこと。これも集中的運用に近い。
 
・ゼネラリスト<ジェネラリスト>
広範囲な知識・技術・経験をもつ人。こちらは分散的。
 
 
○ライト&コアユーザー誤謬*5
・ライトユーザー誤謬
ライトユーザーはライトな作品を好むという誤解のこと。ライトユーザーは、基本的にベストセラーを好む。
一部の「自分はバカだ」と思い込んでいる人がシンプルで簡単なモノが好きだと主張する場合もあるが、ライトユーザーは簡単じゃないと処理できないというのは単なる勘違い。こってりしたフランス料理はたまに食べるから美味いという話でもある。
 
・コアユーザー誤謬
コアユーザーはコア作品を好むという誤解のこと。こちらはもう少し複雑で、ゼネラリストはコア作品を知ってないとダメといった事情があったりする。それらは「権威付け行動」なのだが、ライトユーザーも知ってるようなミーハー作品しか知らないのは沽券に関わると考えるので、マニアックな作品にもそれなりに需要がある。
しかし、コアユーザーが好きなのは名作・傑作・エポックメーキングだ。
 
・エポックメーキング【epoch-making】 (形動)
ある分野に新しい時代を開くほどであるさま。画期的。 「科学史上―な発見」
 
「何事も本質を学びたければ表層ではなく、本源を辿れ」と言い、その本源ってのがエポックメーキング(な作品)のことを指している。あっちの聖書とかこっちの聖書とかそこの聖書とか。
 
 
●ベストセラー 問題
ベストセラーになるには、必ずしも内容が充実している必要はない。これが現実である。内容が充実していることが原因で売れる場合もあるが、それは絶対条件ではない。内容が充実していても売れないことはよくあるし、内容が無くてもベストセラーになることもよくある。
これらはセールスの階層を問題としており、内容の善し悪しは補助的な階層にあったりする。マクドナルドのハンバーガーは、どこよりも美味しいから売れているわけではない。手軽だからみんな食べたことがある、という話でもある。
  
○君はミーハー作品を愛せるか?
マイナー作品を調べ倒して「それなりに自慢できて、周囲だと自分ぐらいしか知らないコア作品」をゲットしなければ“イッパシのオタク*6”にはなれないわけだが、この論理を回避する方法はスペシャリスト化にある。ひとつの作品をどこまでも深く追いかけて、他の分野には触れなければ良い。
 
●枯れオタ 問題
・若オタ
血気盛んな、過去に縛られない若いオタクのこと。出典とも言うべき、エポックメーキングな作品のことを無視したりしがち。
 
・枯れオタ
幾多の駄作と絶対的少数である名作の波に揉まれた古強者。若オタのようにのめり込むことをせず、細部の観察とアイロニーを忘れない年期の入ったオタクのこと。メタ認識に傾倒しすぎて、最後には何もかも楽しめなくなってしまう者も多いと言われる。
 
ロートルか、オーソリティ
枯れオタは自分をオーソリティ(権威ある者)だと思いたがっている。
しかし、オーソリティでいられるのは結局のところ「最前線に立つもの」だけであり、最前線から退いた枯れオタは単なるロートル(老人、ここでは老害)でしかない。どちらにしても楽しめずに文句ばっかり言うようになったら終了である。
 
 
●違和感
違和感の根(原因)は大きく分けて「ある」と「ない」の2パターンが考えられる。
違和感が「ある」時(自己主張している場合)には簡単に気付くことが出来るのだが、違和感の原因が逆に「ない」ことによる場合は「ある」を探していると気付かないことになりかねない。その場の意味だけを取り上げたら「普通」であったとしても、周囲との比較によってその意味・価値が変動する。
また、「本来あるべきものがない」ということに気付くには、一種のメタ認識を要する。しかし、無いことに気付く機会を得る難しさがこの話をより複雑にしていく。
 
 
悪魔の証明<無いことの証明>
「あることの証明」は、特定の「あること」を一例でも提示すれば済むが、「ないことの証明」は、全ての存在・可能性について「ないこと」を示さねばならない(Wikipedia
例1:アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を一匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難、事実上不可能であるというような場合、これを悪魔の証明という(はてな
例2:超能力は存在するかどうか?といった議論で使われ、「本物の超能力者はいるかもしれない」ということは全人類の未来まで含めた全歴史に渡ってその可能性があり、普通の手段では証明し切れないことから「無いことの証明」としては不可能に近いといった性質を帯びる。
 
●陽否陰述(ようひいんじゅつ)<アポファシス>
それ「そのもの」を明示せず、周囲をぐるぐると巡ることで「輪郭」を浮き上がらせ、答えを示す方法。
全部が分かっている時、正解を除いた全てを否定すれば残っているものが自動的に答えになるように、消去法の考え方にも似ている。
 
●モーダストレント対偶><後件否定><間接証明>
命題「AならばB」に対し、
・対偶「BでないならAではない」
・ 逆 「BならばA」
・ 裏 「AでないならBではない」
 
何事かを証明しようとする場合、感覚的には「正しさを確認」することを考えてしまうが、「間違いが間違いであること」を確認する方法についても意識するようにしておきたい。表と裏。
 
 
●反射・反応
人間の行為は、全てが入力に対する反射・反応(リフレクション・リアクション)で出来ている。
最も簡単な図式としては「入力→人間の性格(関数)→出力」となる。殴られたら殴りかえしたり。たまに逆のほっぺを差し出す場合もあるらしい。入力と出力を比べて他者の性格という名の関数を逆算することを、他者を理解する、と言うこともある。
あまりにも出力結果が論理的に飛躍して感じられる場合、反射というよりも創造的と呼ぶ場合がある。
 
●間合い<間(ま)>
超高等概念。時間と空間を融合させた「時空」という概念で特殊相対性理論の四次元時空……というのは冗談だけども、時間的要素と空間的要素を分けて扱わないという点で非常に有効であったのは間違いない。生活レベルから戦闘レベルでの処理まで広く威力を発揮する。1ミリの冗談も抜きに「間抜け」などの教育言語を通じて時間的・空間的に融合した状態での運用を上級者から習い覚えるように使われていた(←過去形)間抜け=バカなのは常識の水準がかなり高かったことを示している。
 
二重思考・中庸と合成能力・極大思考・ロングボディ

二重思考とは、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する思考能力のことで「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」を言う。
儒教に中庸の概念があるように、西洋にはアリストテレスのニコマコス倫理学の中にメソテースという概念がある。これら中庸の概念を字のままに単なる「中間的なもの」と考えてしまうと「何事も程々が良い」ということになり「極める」という特殊な状態に辿り着くことが出来なくなってしまう。このため2方向以上のベクトルを合成する必要が生まれる。例えば貞観政要に「九徳」がある。
 柔にして立(りつ):トゲトゲしくなく柔和だが、事が処理できる力を持っている。
 剛にして塞(そく):心がたくましく、また充実している。
…………等。これらは能力Aと能力Bを合成することと考えられる。
・複雑で様々な条件や考え方を併せ持った「高級な思想」を自分のものとして生きている時、その時々で己が表現し得るものは、その思想のほんの一部分ずつでしかないことに気が付く。ある時は能力A、またある時は能力Bといった具合だ。その時々の部分を繋げていけばとても大きな概念として捉えることが出来るようになる。能力A・Bに接する極大の円(もしくは球)。その円(球体)が充分に大きければ、矛盾する2つの思考を矛盾させないことも可能になる。例えば西と東を向いている2人は、球体であれば同じ方向を見ているという具合に解釈を変えられるからだ。
・日本でも武士道において「潔く死ね/死んでも諦めるな」という矛盾する思考や規範を同時に併せ持つことが要求されている。それらを矛盾なく受け入れるために球形のような厚みを持った空間として概念を捉える以外にも、シュレディンガーの猫のような「状態の重ね合わせ」を持ってきて、「全ての時間(可能性)を内包している」と考えることもできる。時空連続体意識(ロングボディ)
 
 
ダブルバインド<二重拘束>
ベイトソンダブルバインドウィキペディアでもいいので是非とも触れておいて欲しい。
リンク:ウィキペディア・ダブルバインド
 
簡単に説明すると、幼児虐待する方法として観察される理論。(簡単すぎ)
笑え!と口で言うが、笑うと殴る。しかし笑わなくても殴る。
おいで!と呼んでおいて、近付くと突き飛ばす。来ないと怒る。
こういったメッセージ(笑え)とメタメッセージ(笑うな)のような状況に束縛されること。
これはやっちゃいけない。「ダメ!ゼッタイ。」
 
これを教育に用いる場合、「第三の答え」に到達させることを目的に極めて慎重に使うことで大きな成果を残すことが可能と言われている。中途半端に賢いと、最初から「第三の答え」を見付ければいいのだ!という解に陥り易いが「そもそも使うべき・使われるべきではない」ものだ。自分が笑う代わりに命令者を笑わせる、だとか、おいで!されて行く途中に転んで泣き出すとか…………そんなのを正解と呼ぶのは傲慢も甚だしい。
あくまでも物語の中のお約束展開の一部として使われる程度が望ましい。
 
現実では上司が責任逃れするときとか、権威付けの方法*7として使われる。
「ああ、ダブルバインドだな……(嘲笑)」って感じで冷静に対応しよう(難しいけど)
 
○外し・逸らし・ズラし・すかし
会話などで間合い(テンポなど)をちょっと外したりすることで、優位に立とうとする戦術が存在する。ハメの一種。わざと質問に答えなかったり、タバコをふかすなどしてテンポを微妙に遅らせたり、相手が話している途中に自分の話をかぶせたりして使う小手先の技。使い過ぎれば相手に嫌悪感を与えるが、当然に違和感を感じさせない程度に駆使するのが基本。逆にテンポ良く会話することで快適さを演出することもできるので相手に応じて使い分けたりする。
 
頻出パターン:インタビュアーが勢い込んでアレコレ訊こうとする時、勢いに任せて礼節を欠く場合がある。これを黙らせるために、ちょっとの間、無視する。するとインタビュアーは怒らせてしまったか?と不安になる。おもむろにニッコリして「ああ、いらっしゃい」と言うと、ホッとして(なんだ、良い人じゃないか)と思う。これで最初の勢いを挫いてしまってペース(主導権)を握る。剣道のかかり稽古にも近い。余裕をもって対応できない間合に相手を入れないようにしている。よく言えば防衛手段、本質的には権威付け行動。
 
 
●人類最古にして最弱の敵「不安」
最弱すぎて最強の敵。あまりにちっぽけで叩き潰すこともできない。 増幅されれば恐怖となって足を止め、疑念を消せなければ憎しみの芽となり、心配という善意の形をとっては味方の士気を挫く。未来への不安は敵を攻めるために使われる最強の手段の一つ。
 
信じること、励ますこと、そして安心させること。
人は安定を望む。しかし、真に必要なのは安心すること。安心と安定の違いを認識すること。安定とは固まることであり、動かないことをいう。安定するほどに、動くことが怖くなってしまうことに注意。
安心とは、不安に怯えないこと。未来を信じられること。動き続けていても得られるもの。
(ちなみに筆者は引っ越し業者の回し者ではない)
 
 
●高度な思考停止
考えることは、不信を抱くことに近い。信じることは、考えることを止めることのように思われている。
・思考停止
思考停止とは、自分で考えるのをやめて、誰かの言ってることを鵜呑みにすること。
 
・考え続けること(ぐるぐる)
思考停止を嫌えば、何もかもを疑い続けることになる。特に人間の行動に対して考え続けると際限のない疑念が不安を誘発する結果となってしまう。不安は放置してはならない。それはあらゆるマイナスを引き寄せる。
 
・高度な思考停止(高度な常識)
考え続けることは確かに正しいが、確認・検証を通じて分かることもまた多い。一度きりで失敗できない事柄があるのと同様に、やってみなければ分からないことも多い。
考えを廻らした上で、必要な時に決断すること。疑うことによって、信じるものを見極めること。失敗から学び、繰り返さないように徹すること。ゆっくりとでも、前に進むこと。これらが「当たり前」と思う水準を高めることに繋がる。
大切なことは、目的に対してより有効な解を求めることであって、考え続けることではない。疑う以上に、正しく信じることの価値を知らなければならない。安易な思考停止をやめ、無駄な思考もやめ、高度な思考停止をし(間違えたりつっかえたりしながら、それらを修正しつつ)人生を生きる。それが人の道だろう。
 
○判断の停止
全ての出来事に対してその判断を放棄し、感謝に移行せよ。……これは導く者(マスター)への道。
 
ゾーニングによる思考停止
「ここまでは大丈夫だけど、ここからは絶対にダメ」といった区切り・線引きをすることによって、高度な思考停止を悪用することが出来てしまうため、特に注意しなければならない。
○×化(デジタライズ)によって思考を簡略化させ、考えるという負担を排除しようとしてしまう。危険領域を排除していることによって、安全領域を安全なものだという前提に固定させて思考停止したがってしまう。
そもそも領域の線引きは曖昧であるのが自然(=アナログ的)であり、明確な線引きは疑わなければならない。
 
車輪の再発明
既に存在しているものを再び一から作ること。無駄なことをするなという教え。 よく調べて「その存在を知らない」という原因を取り除くように努めるべきだが、人間の行為には無限にも思える積み重ねがあるため、調べ尽くすのにも膨大な時間が掛かるし、その真偽の判断も困難だったりする。また自分に「発見(作成)する能力」があることを忘れてしまうことがしばしばあったり、情報のレベルではともかく、運用のレベルでは上辺の知識などまったく役に立たなかったりと色々難しい。
現状においては経験こそが万能の解決方法。せいぜい腕を磨きましょう。
 
 
●水平思考
なかなか説明しづらい概念なので、詳しくは専門書でどうぞ。
価値観の並列化と、思考の枠組みの再調整(リフレーミング)とを合わせたようなものを言う……と思う(自信なし!)
 
・価値観の並列化
電池の「直列つなぎ」(←垂直思考)に対する「並列つなぎ」のようなもの。
一流〜三流といった順列を無視して、同じ様に価値のあるものとして扱い、それまで無価値だったものに今まで気付かなかった「新しい価値・側面」を見出すようにしたりする。
本命チョコも義理チョコも、同じチョコレート。
 
・リフレーミング
ある枠組み(フレーム)で捉えられている物事を、その枠組みをはずして、違う枠組みで見ること。短所を長所に置き換えたりして使う。
「もう15分しかない」→「まだ15分もある」
「飽きっぽい」→「好奇心旺盛で、いろいろなことに興味をもつ」
「本命チョコと義理チョコ」→「エロスチョコとアガペーチョコ」
 
○垂直思考
水平思考の反対に相当する概念
一流>二流>三流という言葉のままに、通常の価値観は上下にピラミッド型のヒエラルキーを形成し易い。この縦型の価値体系を大まかに垂直思考と言う。社長は偉い、だとか。
 
 
●精神について
自サイト内へのリンク:精神について
http://d.hatena.ne.jp/adagium/20080401
 
●態(相、様態)
一人の人間の複数の側面・状態を表す語句。元は「相」という表現が使われていたが、「態」で表すようになったらしい。(例:世相の反映、怪盗二十面相など。)
複数の状態を、2様態・3様態という風に表現して使うこととする。……これはキリスト教における神概念から来ており、「父・子・聖霊」の三位格をそれぞれ自立した存在と解する三位一体論に対し、これらがひとつの神の様態の変化したものであると考えるのが様態論という。
使用例:「母であり、学者であり、女であった。」 →母/学者/女で3様態。
 
 
●類推
思考の道具のうち、特に重要なものに類推があり、これに匹敵するほど重要なものは殆ど無い。
複数の現象が類似していることを見つけ出し、ひとつの現象について得た結論を他の現象に適用するのが類推である。(『富の未来』アルビン・トフラー
 
 
●真実に関する6つの基準
常識・一貫性・権威・啓示・時の試練・自然科学
 
・常識
一般に皆が正しいと考えているから正しいと思う場合の「みんな」とは3人程度のことをさしている。この基準では3人が1000人になると真実味がぐっと増すことになる。もしくは信頼できる人が信じていることが真実に見えたりすることもある。実際にはそれで問題になることが少ないという利点がある。常識というものは衆愚(付和雷同)と一概に言えるものではなく、「高度な常識(高度な思考停止)」のような共通認識を形成することで、「当たり前」と思う基準を高め、プラスの同調圧力によって人間(集団)のレベルを底上げすることが可能になる。
医者の子供は医者になり易いという。それを「当たり前」に感じるからだ。
 
・一貫性
演繹的であることからか、「一貫していればそれらは正しい」と認識され易い。ダブル・スタンダード二重規範)と言われるような「あの時はこう言った」のに「さっきはああ言った」といったものが攻撃的に使われることもあり、一貫性の無さに対する潜在的な反発もある。一貫している人は賢く見えるし、例え融通が利かなくても単純で分かり易いと思えば怖くもなくなるのだろう。
 
・権威
長年に渡って信頼できたのだから、明日も信頼できるだろうと考えることや、第一人者の専門的な見解であったりすれば正しく見えたりする。盲目的な信頼に陥り易いが、その事が相手に信頼を守る動機を与える場合もある。裏切り者には死を!と考える大衆のプリミティブ(原始的)な残虐さが故に。
権威ある者が、失われゆく自らの権威を守ろうとする時に害悪が生まれる。
 
・啓示
勘は使うほどに正確になっていく能力の一種でもある。もしくは機械的な正確さに陥りがちな人間に、失敗する余地(アソビ)を与え、認識を広めるための手段として存在しているのかもしれない(笑)
無自覚にして複雑な計算の結果である場合や、その共時性が神秘的であることから、唯一解と決め付けて疑わない場合もある。この点に関しては勝敗のスコアを付けることで解決する。
しかし、人間とは啓示を確認しないでは済まない生き物と言える。大体、確認しなければ啓示だったかどうかわからないではないか!
 
・時の試練
昔ながらのもの、時間を経ても通用するものには何らかの正しい法則があったのだろうと思う考え方。時が産み出す権威とも言える。検証済みの正確な科学的知識によって否定されているかもしれないのだが、それが常識として広まるまでの間には力を持ち続ける。
 
・自然科学
実験、追試、二重盲目試験などの方法で再現性が確認・検証されうるもの。
特に重要な部分は、科学がせいぜい部分的で一時的な真実でしかないという認識と、改善されうるものという発想にあるとされる。常識、一貫性、権威、啓示、時の試練の5つはそのままでは評価・修正する術を持たないため、科学に比べて信頼されないものになっている。科学のこの特性を他の5つに活かすことはもはや(高度な)常識と言える。
 
 
●「権威」と「教養」の関係
 全体的に当ブログが「権威付け行動」に対して批判的な理由は、対抗手段が存在していないことによる。
 権威に対して対抗するには同ルール上の更なる権威を持って為すしかない。ルール設定者は半ば自由にルールを決めることができ、そのルールにおける上位者となれる。そのルール内部で上位者に対抗するには権威構造そのものをメタ的に批判して多数の同意を得るか、下克上的に登り詰めるしかない。
 上位者はルール内ではルールそのものの押し付けることができ、下位者に対して同意を得る必要がない。結果、権威に対しては「よく分からないけど従うしかない」ということになってしまう。

 権威を形作るものの多くが教養に拠っている。(資格などもその形態を採ってる)
教養とはその大半が古典のことだし、何が言いたいかといえば「馬鹿じゃねーの?俺はお前よりもモノを知ってるよ」っていうくだらなくも幼稚な事で人間の上下が決まるとか思っちゃって疑わない痛い態度なわけですよ。そういう人間に対抗するには権威主義そのものを批判的に捉えておく姿勢が必要だ。
 それでも権威なんざ存在しないとまでは言えないよ。流石に価値観が完全に並列化することはありえない。人間は平等だけど、年齢の上下はあるし、能力にも上下がある。そして権威は従うためのものだ。責任を果たさせるためには権限を与える必要がある。それでもしばしば無条件に従わせるためだけに使われる。正しい責任を持たないものが利用すれば専制を招くことは自明だろう。

 根本的な話をすれば、この世界はあんまり「唯一絶対の正解」が存在する場所ではないので、そりゃ教養人として知ってることが多ければ(美人と同じぐらいには)有利だし、選択肢は増えるけれど、選択肢が増えることで選択するのが難しくなるという構造問題だって抱えることになるわけで。
まぁ、人間は案外ハッタリに弱いので、権威にひれ伏していると相手が図に乗って馬鹿をやらかすので注意せんとイカンよってこと。
 
○責任と権限 <正義と力>
権限(力)だけを持って責任がなければ、人を殺しても罪に問われないのと同じ状況になる。逆に責任だけがあって権限がなければ、全くの無力で意味はない。
 権限の無い分野に口出しするのは無責任な態度になりがち。かと言って責任を持とうとしない態度は社会に対する無関心=責任逃れの言い訳、に近くなる。逆に広く責任を持とうとする場合は無尽蔵の権限を欲求する化物になりがち。バランスに類する言葉はあまり使いたくはないが、中庸が望ましいのだろうね。
 
●「教養人」と「テクノロジスト」
 教養人はしこたま勉強する人のことなんだから、勉強する意思のない大勢の人々はテクノロジストになるべきだと思われ。
 高校辺りで「数学が分からないから文系」みたいな形で文系と理系に分類されてしまうのだが、テクノロジストが仮に理系だとしたら、これで勉強する気のない連中をまるごと文系に入れちゃうことになる。しかし文系は法律をやらないとあまり意味の無い場所だったりする。
「勉強するつもりの無い人」に対して文学部などを受け皿にしておく構造はかなり不味いのではないだろうか。極論を重ねると結婚相手を探すだけの女子学生は理系に入れておくべきだと思う。
 文系の経済学部には金持ちになりたい人間を集めるべきだし、経済学と同時に実践的なマネジメントや金勘定を学ばせる必要がある。金持ちと結婚したい女子学生には「勉強しなければ出会いなんかはありませんよ」とハッキリ脅すべきだ。ここで脅しておかないから「金持ちを捕まえて玉の輿戦略」の女子はやることがなくなり、美貌を磨いて一発逆転の方向に誘導されてしまう。
 
○「軍人」と「経済人」
「教養人」と「テクノロジスト」の分類で漏れてしまうのがこの2つだと思われる。
日本は最優秀の人間を軍人になるように誘導してない。まぁ、それをやっちゃうと軍部を掌握しての内乱の原因とかにもなっちゃうのかもしれないんだけど、国っつーか「自分達の当たり前の日常」を護るのは本来は軍人の役割だし、そこでは無能な人間に任せておける余地は本来的に無いよね。一兵卒ですら殺される覚悟や殺す覚悟が要求されてしまう。今の軍人の皆様が無能だという意味とは絶対に違う。もっと「軍人になる」って選択を放棄するように誘導している構造があるよねって話。それで勉強するなら教養人かテクノロジストになりなさいね?って割り振っていくわけだ。これは日本経済を支えてる構造かもしれない。「官僚」は天下り利権の話もあるけど、国防を担うの意味では形を変えた軍人の一形態かもしれないね。
 そして大抵の人間はサラリーマンになるって意味で「経済人」になる。
E(従業員)、S(自営業者)、B(ビジネスオーナー)、I(投資家)に分類され*8、その大半が従業員になる。医者でも大抵は従業員だし、弁護士もだけど開業してもSになるだけで、Bにはなれない(自分がメインで働くことになるから)。マネジメントのプロも実はEに近い。最高責任者だったらBに近い位置付けにはなれるかもしれないけれど。
 
 
●萌え
萌えに関しては、特にリンク先を参照してください。
 
馬場秀和のRPGコラム:都ちゃんに萌え萌え(まえがき)
http://www.scoopsrpg.com/contents/baba/baba_20040301.html
 
あとがきまで読むとかなりの分量があります。もう内容を覚えてもいないし、責任はとれません。
現在の私の認識では、動物とかに感じるような「性欲を伴わない愛情」といった感じです。キャワィィ!などなど。性欲を伴うのであればエロスとかの言葉を使えばいいわけで、新しく発見された感情(?)としての「萌え」にはそれらしき意味があった方がいいんじゃなかろうかと思っています。
昔からある「萌え」に関しては(我が友人によれば)「枕草子」を読んで出直して来いとのことです。
 
●知覚 「全ては与えられていて、我々はただ気付くだけである」
 ここで想定する知覚とは、
「1.第6の感覚として、直接的に知る能力」
「2.差異化する能力」
 ………………のことである。
 
1.は何かがパッと分かることを言う。大抵の場合それらは経験の蓄積が産み出した勘でしかないが、その蓄積された経験というものの大半は、この知覚力によるよく分からない情報だったりする。意識絡みの様々な要素は現代では共有不可能な情報としてしか扱えない。
 
2.は日常的な意味の知覚の働き方について述べる。
ギブソンの直接知覚論では簡単に書くと知覚とは差異化のこととされる。
 
・間接知覚論
我々は目や耳といった感覚器官から得た別々の情報を脳の中で「合成」して、あたかもビデオのように再生(間接知覚)しているとする立場のこと。目でみた世界を、頭の中でいじくってから見ているという立場。
 
・直接知覚論
上記のビデオ再生はしていなくて「ありのままの世界」を知覚しているとする立場。目で見た世界をそのまま見ているとするもの。
 
マンガを読んで感想を書くとき、そこに最初から描かれていたハズの絵に突然気が付くことがある。
間接知覚論が正しいのだとすると「世界が増えた」ように感じるハズだが、実際には全から個へと差異化されたに過ぎないのだろう。異論反論はあるだろうとも思うが、知覚の捉え方として差異化という一点は妥当であると考えられる。……また、分析という言葉との関係も興味深い。
 
 
●〆は厳粛に!
終わり良ければ全て良しなどと言うように、物事の〆では身を引き締めるべし。
記憶の仕組みから考えても、人間というのは最後のことは良く憶えているものだ。途中でいくら頑張っても、〆でフザけていたら、フザけていた記憶が強く印象に残ってしまいダラしない奴と思われてしまう。途中で遊んでいても〆をビシッと決めれば「なんだチャンとしているじゃないか」と思われる。
人間というのはとても単純にできている。ここばかりは現実の方に自分を合わせること。突如ペースを変えて、マジメな顔をみせつけてやればいい!
 
・どちらを印象付けるのか?
記憶の仕組みから、最後に語ったことが相手に印象付けられる。良い話をしてから悪い話をすると、悪い話の気まずさが残る。逆ならば、良い話の余韻が残る。
友人との会話のときには、良い話で締めくくること。誰かに注意を促すときは、悪い話で締めくくること。さんざんやっつけていても最後に少しだけ相手のことを持ち上げておく話術もお約束のひとつ。
 
●報告・連絡・相談(ホウレンソウ)
・報告の仕方について
悪い報告は最速ですること。良い報告はタイミングを考えること。
良い報告はあまり急がないので取っておいて、悪い報告をした後に付け加えると効果的(基本テク)アホの場合はこれを逆にしてしまう。動物的に 早く褒められたいので良い報告を最速で行い、悪い報告は怒られたくないのでタイミングを考えてグズグズしてしまう。
(悪い報告は善後策を練るために時間が必要。よって賢い上司は悪い報告を最速でした場合には逆に誉める) →アッティラ大王
 
・連絡について
報告が上に対する情報伝達であるのに対して、連絡というものは横やナナメの関係に対する情報伝達のことを意味する。特別なやり方は無いと思われるが、周知徹底することが基本。周知徹底の難しさは、仕様変更などの「変化」の際に、変更点を反映させることにある。「ひとつ変化すれば、全てが変化する」と胆に銘じておこう。変化によって影響する範囲を見極めること。
ここから仕様変更の回数が直接的に連絡の「回数」「時間」「手間」に直結することになる。手間なだけなら手間をかければ良いのだが、あまりにも変更の回数が多くなってくると、相手から「またか……」という圧力を受けることになる。この「またか……」のストレスが連絡ミスの大きな原因になる。 例えば、相手に対する質問が多いと「またか……」と言われるので質問しにくくなる。(しかし質問しないのは仕様変更の回数を劇的に増加させる) 変更を伝達する時に「またか……」と言われると伝達ミスが発生する。相手のため息が「またか……」に脳内変換されるようになると会いたくない、電話したくないと思うようになる。対策は癌になっている人を見つけて対策を講じるしかないのだが、まぁ、難しいやね。自分のところでまとめておいて、まとめて質問したり、まとめて伝達したりするのだが、実際はこれもミスの原因だったり。せめて自分は嫌そうな顔をしないように心掛けよう(味方になること、重要)。
 
・相談について
報告・連絡が情報伝達であったのに対し、相談とは「一緒に考えること」である。「一緒に悩むこと」、最低でも「一緒に悩むフリをすること」を指して相談と言う。相談する側は、悩んでいるその気持ちを「共有して欲しい」と考えていることがしばしばで、答えを要求していないことも多い。
ところで上司に対して相談を持ちかけるのは「教えを乞う」という意味合いが強く、より良い意見を求めていたり、頼ってみせることで上司を立てていたり、もしくは難しくて無理だということを暗にアピールする意味合いがあったり。理解のある上司ならば自分の意見を言ってみて了承を得る使い方もできる。
 
●整理法……未処理と保留
机に3段トレイを置いて整理する方法の場合、未処理・保留・処理済みの3段に分類するのが基本と言われている。しかし、結局のところ、仕事は「未処理」か「保留」しかないとも言える。処理済みの案件であっても、片付け終わっていなければそれは片付けが未処理なのだ。(要するに2段でOK)
保留とは、電話待ちなどの「相手の都合」に対して一時的に保存しておく場所のことで、マルチタスクする時の保管場所にしてはいけない。電話が掛かって来た時に必要な資料をサッと取り出して対応するための場所にすると便利。
 
●優先順位<プライオリティ>
奥深いとされているものなのでここでは簡単に。「動的な作業」では優先順位がリアルタイムで変更されるので、その場その場で渋滞を長引かせないように動く。常に周囲をキョロキョロ見ておくこと。「静的な作業」では優先順位の変更が頻繁に起こらないので、緊急事項・重要事項などをメインにマルチタスク化が酷くならないように制御していく。
 
○時間階層構造<時階系>
短期・中期・長期の3段階(層)で時間単位ごとの「処理ルールの違い」と「目的意識の設定」が必要になる。動的な作業はより短期なタスクであることが多い。静的な作業はより中期なタスクであることが多い。長期の作業は「自分の人生」や「会社の方向性」、「歴史」などの認識しにくいスパンを対象化するためのもの。短期・中期・長期の方向性が大きく矛盾しないようにコントロールすることが必要。一時的な矛盾は部分最適的なものなので、許容しなければならないことも多い。
 
実は、優先順位の決定は上位の時階系との関係によって正解が変化するところに肝がある。単なる戦術的決定のように思われがちだが、コンテクストとの関係は無視できないし、誰も無視してなどいない。全体スケジュールと部分スケジュールでの相互影響を意識することが上達への手がかりになる。例えば、作業時間をブロック単位で大きく取ることを優先すれば、アポイントなどを何時にすべきか意思設定する「基準」が自然に発生する。これで受動態から能動態へ意識が切り替わる。
 
ホメオスタシス<恒常性>の運用
仕事の優先順位での葛藤とは、「難しい仕事を先にやるのはかなり辛くて時間が掛かる。すると簡単な仕事が何時までも手付かずで残ってしまう。それは不安で嫌だ、気になる。」vs「簡単な仕事を先に済ませて、難しい仕事に取り組む“弾み”をつけたいが、優先事項の処理が後回しになってしまうと(上司や顧客に)怒られるかもしれない。しかも本当はやりたくないので下手すると何時までも先延ばしにしてしまい易い。」という辺りにある。
これは実際のところ「身体の調子」の問題で、身体が起きていない時間帯に難しい仕事をするのは大変だということが潜在的なネックを作っている。例えば、人と話すのは昼食時か昼食後の、満腹で機嫌が良かったり、眠たくなるから喋ったりの刺激が欲しい時間帯を狙うべきなのだが、出掛けてしまっていて捕まらないと困るといった理由で午前中に電話しなければならなかったりする。すると、午前中の頭が冴えている時間帯に難しいパートに取り組みたいが、そんな時に限って電話が掛かってくる、という風に影響し易い。これは早めの時間に起きたり、昼食の量を減らしたりといった工夫をすることで条件設定を多少ならば変更することが可能になる。(ピークパフォーマンスはホメオスタシスから連動するため)
 
○「念のため」の排除
念のためにやっておく仕事というのが世の中にはあるのだが、これはなるべくやらないようにしたい。管理側もシンプルなルールを定めて「対応しない」と決めておくべきである。
念のため仕事は「本質的な価値」とは関係ない部分で発生することが大半で、やってもやらなくてもよい部分にあるために、お金にならない。しかし、「念のため」と言い始めてしまうと、やらなくて良い事だったものが、いつの間にかやらなければならない事になってしまったりする。このため「真面目な性格の人間」ほど損する。システムが複雑化の一途を辿るように、人間の仕事も段々と複雑になって行ってしまう。
部下がこれをやると、お金にはならないが誉めてやりたくなったりする。すると本質的な価値の向上には手をつけず、念のため仕事のクオリティばかり高めようとしたりする。これは本質部分に手をつける権限がないことも原因だが、人が歪みやすくなる。
 
これらの背景には暇を潰すために仕事を作らなければならないという要請がある。仕事を指示する側のスキルや手持ちの作業量によっては、部下に仕事を与えるのはかなりの負担となるため、「念のため仕事」なんかがあればそれをやっておいて?と頼んで要りもしない作業をやらせることになりがち。
これは管理側の能力が足りないことが問題なのではなく、何も仕事をしていないと怒られるというカルチャーそのものに原因がある。
ところで、機能している組織はボトルネック以外のパートには余剰戦力が必要なので、大半の人達は暇が常態になっていなければならない。この「暇」ってのを回避するために、人数を少なめで回しておいて、ボトルネックは深夜残業させつつ、その他のパートはだいたい定時であがれるようにしてたりするわけだ。(でも給料はサビ残でいっしょ〜 死ね! 氏ねじゃなくて死ね!)
 
念のためならやらないように。
顧客から指示の場合は営業に確認するなりしてお金にしようと務めたり、営業が顧客に対して貸しを作れるようにしておきたい。(一部の分かっていない営業は念のため仕事みたいな部分の余剰価値をアピールして仕事を取ってきたりすることもあるので難しいのだけどね)
例外は「放置しておくと重大な失敗に繋がる(かもしれない)」といったケースである。この場合だけは念のため、とっとと済ませてしまおう。この世界を天国に変えるためのチャンスであり、自分があの時ああしておけば良かったのに!と後悔しないための保険となる。
 
 
インセンティブ
ハーツバーグの二要因説(産業心理学)では、労働への対価は衛生要因に過ぎないとし、賃金が少なければ不満要因にはなるが、増やしてもインセンティブになりにくいものだとしている。
労働の動機を促進するものは、成果、貢献、責任といった「能力を発揮したい」という欲求によるとされる。
 
●後片付けが一番大事
大抵の人は準備が6〜7割、本番2〜3割で後片付けは1割といったイメージを持っている。
しかし後片付けは次の準備の開始をスムーズにする効果を持つ「後準備」と言うべきもの。決して疎かにしてはいけない。戦争ならば戦後処理の重要性は論を待たない。武道の残身も同根。
これを割合にすれば、準備6割、本番1割、後片付け3割になる。
本番が終ったら燃え尽きてしまうような計画なら失敗しているのと同じことだ。さっさと家に帰りたいのならば尚のこと後片付けをスムーズに終らせる計画を立てておく必要がある。それでこそ本当の意味で前準備を完全にすることが出来るというものだ。(経験的に後片付けの計画を立て忘れるとかなり痛い目に合う)
誰であれ、本番までは頑張れる。才能は後片付けで創られる。
 
 
■論理と論破について
論理とは、正しく連想するための方法論で、その基本は「事実を記述する方法」のことになる。
最小の形だと「AはBならばC」 例:静岡の県庁所在地は●●である
 
ここから論破する方法は、3つ+1つ。
「前提を疑う」「事実の変更」「間違いの指摘」の3つと「代案の提示」
 
○前提を疑う(前提変換)
そもそも〜と言葉を始めるなどして、前提を「より適切な形*9」に変える方法。言葉のやり取りではコレを使わないとほとんど話にならない。
 
○事実の変更(大きな力)
権力や金の力、軍隊などの大きな力で事実関係を無理矢理に変えてしまう方法。
単なる言葉のやり取りでは行使不能な手段。でも論破は論破。
  
○間違いの指摘
相手が(たまたま)間違えていれば指摘できる。相手が分かり易く間違えているとツッコミが入って炎上したりすることもままある。
 
 
結論としては、使える手段は「前提を疑う」ぐらいしか無いと言える。
しかし大抵の場合、論理は「文章の連なり」になっていて、最短最強のカタチになっているわけでも、県庁所在地のように答えが出せる問題ばかりでもない。そこで別の意見を論じる余地ができる。
 
○代案の提示
より適切な答えを出したり、別の意見を論じるなど。趣味の問題など、多くの問題は「証明できないこと」を利用することが可能なので、代案の提示が可能になる。
 
また、相手が批判だけしてくるようであれば「代案を出せ」の論法もある。
大抵の人間は面倒を嫌うため「面倒なことをしろ」と突き付けることを意味する。そして相手が代案を出してきたら、間違いや矛盾点を探して再提出を迫るなりして消耗を狙ったりすることが出来る(基本戦術)。
 
もう少し規模が大きくなってくると「本当に相手が正しいことを言っているかどうか」を詳細に調べ直すことが始まってくる。作業量がモノを言う物量作戦など。ネット上での議論風なコメントのやり取りの場合だと知識量や調査能力などの戦力差で圧倒するのがベストという意見もある。
ネット上で見られる論戦の大部分は専門の人から見たら論理的というよりは「連想ごっこ」の域を出てないという辺りが実情ではないかと予想される。(後は論理学とかの世界へドウゾ)
 
このあたりまでが論理でどうこうしようという領域。
 
例えば、弁論術の大家キケロの取った戦術は、判断する側である人間の方を動かすものだったという。どんなに論理的に正しくても、それを判断する人間の心を動かせば全て無効になりうる。現代においてもコレが最強の戦術とされている。
つまり人間の馬鹿さ加減はローマの昔から全く変わらないということでもあり、良く言えば論理だけで判断を下せるほど人間は一面的ではない、ということだろう。人間は自分に対する追認に弱いところがあり、見たいようにしか世界を見ないし、信じたいものを信じる。つまり、単純に論理の階層では戦わない。それを支配する別階層での勝負が基本ということ。
 
これらのことから「支持され易い意見」を「上手く伝達する方法」での勝負が含まれてくる。あたかも、第三者による多数決で勝敗が決するかのような状況になる場合がある。華やかな意見、鋭い意見、誠実な意見などが支持され易いように思われる。それ以前に人柄(キャラ)だとか、文章量による威圧とか?(苦笑)
 
議論が始まって以降は「目的を一致させること」を考えること。目的が同一ならば会話は手段となる。語りたいことと、語るべきものは別であることが多く、案外、単にしゃべりたいだけだったりもする。
 
それでも論戦になったときに考えるべきことは、第一に「落し所をどうするのか?」に尽きる。
 

*1:積極的肯定・消極的肯定・積極的否定・消極的否定とがあり、貴方を否定するわけではなく、単に別の人を選ぶという意味で「消極的否定」となり易い。

*2:pre-:接頭語として「以前」「以後」などの意味を表すが、ここでは「前」。 意識によって実際の接触面より手前にインパクト面を形成する

*3:ウェイトリフティングと比較すると、サッカーやテニスなどはテクニカルな側面が多く存在する、ぐらいの意味

*4:リラックスだとより休息的なので不正確で使いにくい。自然体は誤解の総本山なので避けた

*5:ごびゅう:まちがいとか、誤解のこと

*6:ごめん、いい加減書いている俺が辛くなって来た

*7:剣道のかかり稽古など

*8:金持ち父さんシリーズより

*9:誰にとって「より適切か」はまた別の話