雑記(絶望について)

 
ここでは私の経験した絶望というものを説明する。
 
しかし、簡単に絶望と書いて理解したつもりになることは止めておいた方がいいと思われる。その現れ方は個々人によって千差万別で、程度の違いや質の違いなどは様々だと思われるからだ。
例えば、誰かが死を選ぶような絶望が一体どのようなものなのかを真に窺い知ることは出来ないと思う。だから、誰かを「助けるため」の知識では無いのだということをお断りしておく。
 
私には、大体いつも胸に希望がある。それは「在るか、無いか」で判断されるような極めてデジタルなものだ。通常、胸にあるこのような「意識」と、そこから発する気の塊は胸の丹田であり、「中丹田」と呼ばれる。それは私にとっては正義や希望の源になっている。何もしなくても、ただそこに在るだけで暖かく、不安を軽減する機能を持つ。(夏は余計に暑いかも?)
 
常考えられている「絶望」の苦しみというのは、過程(プロセス)のことで、希望に類するものが失われて行く過程で「しがみ付く」ことと、「しがみ付き続ける」ことを意味する。
この「望みのない希望」にすがり付くことを絶望と言う。地獄に垂らされた蜘蛛の糸のごとく、この希望の糸はどこまでも細くなり続ける。
そして、希望の糸が切れることを何よりも怖れてしまう状態を指して絶望という。もしも希望の糸が切れてしまったら、死ぬしかないのではないか?という風に考えてしまうものだ。
 
だいぶ前の話なのだが、私の場合、胸にあって暖かく自己を保護していた希望が失われた。具体的な出来事は今となってはどうでもいいことであり、本質的には希望が失われつつあることこそが、とにかく問題だった。胸が冷たくなり、不安が増大し、魂が剥き出しとなって傷付けられるような錯覚を覚えた。そして一縷の望み……つまり希望にすがり続ける状態に入っていった。
 
「希望の糸」はどこまでも細くなり続けた。
身体は健康だったし、ありがたいことに私には酒を飲んで辛さから逃げる習慣も無い。それでも身体は病気になりたがっていた。心の状態と身体の状態がズレているため、敢えて病気になって身体を回復させることで、心の方も一緒に癒そうとしているようだった。当時はかなり苦しい状態が続いていた。
 
やがて、ちょっとした切っ掛けから希望が失われ、ぷつんと糸が切れた。終ったのが分かった。
 
私は希望を失い、真に絶望した。(ようこそ絶望の世界へ!)これはマジで死ぬかもしれないなぁ……と死を覚悟しなければならなかった。
 
 
絶望してみると、意外なことにそこは天国だった。
 
考えてみると簡単なことで、相対性の世界ではどん底に落ちると些細なことにも幸せを感じられるようになる。私はこの状態に入り、全ての景色の中に輝く生命をみて(実際にしばらくの間はあらゆるものが輝いて見えていた)この地上が楽園であることを知った。絶望して何の望みも失った時、自分が居るのは天国であることに気が付く仕組みだったわけだ。素晴らしい時間だった。
 
絶望とは、絶望するまでの間の「途中の苦しみ」のことを指している。
だから理屈の上では、絶望している人は、恐れずに絶望し切ってしまえばいいことになるのだが、それは本当のところ、簡単なことではないと思う。
 
そう簡単に捨ててしまえるような希望であれば、誰もしがみ付いたりしない。希望を失うことを怖れて、命を捨ててしまうことを選ぶ人もいるのかもしれない。それは、純粋で崇高な行為であるかもしれない。
 
希望を失い、絶望して生きるよりも潔く死を選ぶことは気高いのかもしれない。それらに比べて、命に執着するみっともなさ、足掻きながら地べたを這いずり、虫けらのように生きることのなんという不様さだろうか……といった考え方もアリなのだと思う。
 
私は、絶望を語るためだけに絶望した人なのだと思う。なんとも安っぽい絶望だなとすら思う。しかし私の絶望は私だけのものであり、誰にも奪うことは出来ない。同様に、他者の絶望を我がことのように扱うことも出来ないのだ。
だから、ここでは単に私のケースではどうだったのか?という情報を提供することを目的にしている。
 
 
今、私の胸には再び希望がある。 まぁ、そんなもんだろうさ。