オスティア祭 展開予想・キャラ編(その4)

 
……結局リバースさせました。そして最初から書き直しとか切り貼りするも、終わらず(涙)無駄な文章をバッサリやって、それでも長いっていう。最後には飽きて遊びました。
 
●人格とかの話
少しでも楽をするためにリンクを貼ります。
 
スゴ本:衝撃のスゴ本「17人のわたし」
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2008/10/17-758d.html
 
渡辺千賀さん:誰にも勧めないすごい本:Switching Time
http://www.chikawatanabe.com/blog/2008/01/switching-time.html
 
読めばわかるんじゃないかと思うんですが、要するにビリーミリガンとかのめんどくさそうな本をちゃんと読むか、書評サイトを読んでとりあえず誤魔化すか、だと思います。
読み物としての面白さを否定するつもりは毛頭ありませんが、私は多重人格の人とお友達になる予定は無いので、読みもしないウチから使い道の無い知識だよなぁーと思うのが本音です。自信をもって、興味なし、です。
 
だから、興味の無い人は誤魔化しちゃえばいいと思うんですよ。詳しい人から話を聞いて全体像だけなんとなーくつかむとか。……そりゃあ知識の使い道がある人は別ですけどね。がんばって読むといいんじゃないでしょうか。しかも原書とかどうです?(笑)
 
えーっと、「スゴ本」の方は人格と記憶の関係について触れられていて、渡辺千賀さんの方は、能力うんぬんについて「も」触れられています。統合すると以前の能力はなくなっちゃうのねー、みたいな。
 
要約の要約みたいになってくるとホントに無意味極まりないのですけど、多重人格はそれぞれの「人格」が「記憶」で構成されている、と。だから「別人格」である時点でもう記憶を共有していない。その共有しないってことを利用して、虐待とかの記憶・経験を他の人格に飛ばしたり押し付けたりして自分を守るわけですね。そういう中で人格ごとに役割だとか能力が設定されていったりする。最終的に人格を統合していくのが治療になる……らしいのですね。
 
私は読んでませんので、詳しいことは聞かないでください(笑)
ザンヤルマの剣士という古いラノベで「フェニックスの微笑み」がこれ系のネタだったんですけど、シリーズの中でも特にお気に入りの一冊です。このシリーズはラノベに必要な機能を十分に果たしてくれていたと思います(笑)
 
で、リンク先を読んだ前提で考えると、
ネギま!の衒学的な(知識で圧倒してくるような)要素からして、現実の多重人格障害の知識を要素として取り込んでくる公算が高いわけですね。
だから、例えば無口でかわいい黄昏の姫御子ちゃんと、元気いっぱい神楽坂明日菜とが人格的に統合されると能力ダウンじゃないかなぁ、と言いたいわけです。だ〜か〜ら〜、モード切替型でいいんじゃね?としつこく言い続けていたりするわけですよ。
 
 
実際のところ、アスナは虐待されたわけじゃないので「魔法的な現象」による擬似的な多重人格ですよね。虐待じゃなくて何よりですね*1。従って、魔法理論的な結果になる可能性も十分にありえます。
 
魔法的な現象の応用でいうと、ネギの右肩の傷と幻痛(幻肢)なんかが、魔法を上手く応用した例でしょう。リアルでは切断された手足が元に戻るのは稀*2なので、幻肢が現れたりするわけです。
一方、ネギま世界は魔法があるので穴があいた部分が一瞬で綺麗に直ったりする。そこで「右肩の風穴」を永遠に失ったネギには、幻痛が現れた、というわけですね。
 
こういった事情から、リアルに近づけていくか、マンガ的な味付けに近づけて行くか?というのは一つの見所となっているといえます。
 
 
スプリガンの文脈とか、ライフサイクルとか。
問題になるのはスプリガンの文脈ですかねぇ。
スプリガンでは「戦闘機械」として虐待的な教育を受けた主人公が、無を発動させると殺人機械となって大活躍するのですが、最後の最後で戦闘機械では人間の強さには及ばない……ということで、「人間性>無」という位置付けにしちゃったわけですね。
そして人を殺すことにタブーを感じない無の精神性を「冷たい」ものとし、人間性に「暖かみ」を付与した、と。
 
ここで「無」を欠損とみるべきかどうか、というのがポイントですね。マンガ理論としてはなかなか良い落としどころなのではないかと思います。
 
 
一方で、「人間性」ってのは「自然」と対比して使う概念だったわけです。例えば、「人工物」とかですね。ここからエヴァの言うように「人間性=悪」といっても差し支えないものになるわけですね。
生命サイクルの初期段階では、自意識というものは世界システムからの離反によって成立するものです。この段階では自意識が十分に独立するまでは世界システムから距離をとりたがる傾向があります。いわゆる非調和的なことをやりたがる、というか。
子育てだと反抗期とかもその一部でしょうね。やることと言えば人に迷惑をかけて「ボクを見て!」みたいな。……なんかずいぶんみみっちぃ話になったような(笑)
 
そして「無」と「自然」を結びつけた時に見えてくるものとは、「あるがまま」ということです。自然やら大自然に対してどういうイメージを持っているか?というのは個々人の認識の話になってしまうのでしょうけれど、「あるがまま」というものを前にした時、「生死」を「善悪」と強引に結びつけようとする「歪んだ主観」の姿が浮かび上がってきます。「狩られる側の動物しゃん、可哀想……」ってのを間違った意見と決め付けるつもりはありませんが、パンダみたいに肉食だったのに笹の味にハマる変なのばっかりとはいきますまい。
 
そして、
生命サイクルの後期に入り、自意識の独立性を十分に確保した生命は「総体」への回帰を望むようになります。その初期傾向というのが、無による善性の回復だとか無を使った高性能化ですね。その中でひとつになったり、離れたりを繰り返しながら「境界が無くなること」を楽しむことができるようになるわけです。メタファーでもなんでもなく性交だとか、生命だとか宇宙観にも関わるごく基本的・普遍的な性質に関わる話でもありますね。
 
 
●これって展開予想じゃなかったっけ?の話
1周目を考えると、アスナの入れ替わりに気が付かないまま儀式魔法が発動。アスナごと反転封印しようとするヘラス・メセンブリーナの両陣営はかく乱されて連携がとれないまま敗北。ネギはフェイトと戦って戦術による逆転勝利を狙うものの、ここでは敗れて永久石化されてしまいます。ネギパーティはこれで降参するでしょうね。刹那も月詠に敗れて死ぬか重症。まぁ、右腕ちょんぱぐらいは覚悟した方がいいでしょうね。そして楓が中心になって現実世界に帰還、これはいわゆるお情けですね。ネギが永久石化から回復するのは木乃香の成長した8年後だった……みたいな後日譚が語られて終了ですかね。
 
で2周目はこの反省を活かして、でもプレイヤーは知っててもキャラクターは知らないので変な行動もとれないという状況ですよね(笑)だいたい秘密主義が状況を悪化させるのがパターンだったりするんですけど、決定的な介入はバカを通じて引き起こされる偶発的なイベントか、勝つことしか考えてないようなキーキャラクターの論理性かってことですね。ストーリーテラーとしては主人公によるあからさまな介入は1回程度の大きなイベントで済ませたいでしょうから、結構シビアなんですよね。その辺まで考えると、2周目は引き分けか、微妙に負けってところですかねぇ。
反転封印させたら「今度も」明日菜を助けることは出来ないので、10年後か20年後、もしくはネギが中年になった頃に封印がとけて、「あんたがネギなの?」「なかなか渋くて、私好みに育ったじゃない」とかおちゃらけた強がりを言ってエンド。
 
何もかも巧くやるにはどうすればいいのか?と考え始めるのが3周目です。だいたいはフェイトを殺してしまうことによるグッドエンドか、もしくはアスナまでは助けたけど魔法世界は消滅みたいな一歩二歩足りない系かではないかと。
フェイトを殺した場合、父親に辿り着く可能性は非常に低くなるでしょうね(笑)
作品論的には、カッコイイ演出の模索も必要です。アスナを儀式から救い出すのはいいけど、儀式発動前だと「みんなの力で世界を救った!」の形にならないっていうか。作者って大変だなぁ〜と遠くを見つめながら4周目へ突入です。
 
4周目ぐらいだと遊び心が発動する頃合ですね。本編に使われるアイデアが出てくるのもこの辺りからじゃないかと。例えば、アスナが偽者だって気が付いているのに「ほっといて泳がせる」だとか、じゃなきゃラカンが栞との人質交換を要求したりとか。でも実は帰ってくるのはアーニャだったり、とかね。
そのときは勿論、「この娘の命が惜しかったら〜」とか言いながら、服を脱がせたりするわけですね? わかります(爆)さすがのフェイトも命の危機ならば必要な犠牲として処理できても、貞操の危機となると……っていう高度な駆け引きが!(笑)
 
 
こんな感じで、6周目か7周目がマンガになる本編でしょうね。いや甘いぞ、12周目だ!とかだったらごめんなさい。
アレですよ、読者側の認識が低い場合はだいたいから必要最低限のことしか発生しない傾向が高くなり、読者の認識がキテる場合には変なことが起こる可能性が高くなるわけです。
下手すると感想サイトのうちらにはわかるけど、一般読者には付いていけないんじゃ?みたいなネタが発動したりすることもあるので、作者ってのは大変な職業だと思います。
 
 
●ナギは、姫子ちゃんの幸せを望んでいた、のこと。

うーん、切ったネタが惜しくなって貼ってみる

*1:勘違いして欲しくないのは、多重人格障害の大半は虐待された被害者の話だってことです。能天気に自慢していい知識と、自分を戒めるべき知識とに分類するとしたら、これは明らかに後者に属する性質のものです

*2:残った手足の部分がよほど状態が良くて、しかも医者がいて、その技術でなんとか出来る範囲、といった幾つかの幸運が重なれば……?