雑記(リアリティ考察)

 
●リアリティという名のフィルター
「(北島)マヤ型リアリティ」と「(姫川)亜弓型リアリティ」とかって表面の単語だけ方向付けちゃえば、たぶん巧くいくんだと思うのね。でも、ちょっとめんどっちぃことに気が付いてしまって(苦笑)
 
小林秀雄の言うように現実が狂態であるのならば、物質再現度を高めてもストーリーにならないということになる。例えば、亜弓の演じた奇跡の人(ヘレンケラー)はきつくて見ていられないし、再読したいとも思わない。でもマヤの演じるヘレンは可愛い。話の筋自体は同じなのだから演技の違いによる差異となるし、その演技から得られる感動や感情が異なってくるわけだ。これにシングルエモーション・ダブルエモーションとか名前をつけてみようか?と考えたりしていて、やっていることとしてマヤの方が現実に近しいんじゃないか?と気が付いたわけだ。
 
現実そのものを見ていたとして、それが(亜弓の演じたような意味で)徹底した悲劇だなんてことがあるだろうか?まさに現実で現実の役柄を演じている人間(=普通に生きているという意味)を外側から眺めたりしたら、笑っちゃう場面だって目に入ってしまうのではなかろうか。泣きながら屁をこいたり、大事なところでこけたりしちゃうのが現実ってもんじゃないのかな?ってね。その動きでさえも、当の本人からすれば悲劇の色に染まっているわけで、その人の内的な経験が悲劇を生み出しているということになりそうだぞ、と。
 
……となると、亜弓型リアリティってのは、悲劇や喜劇、ロマンスなどの方向性が無ければ成立しないことを意味しているし、それはフィルターのようなものではないか、そしてそのフィルターに対する忠実度のようなものとして考えた時に初めて「リアリティ」という言葉が意味を成すのだということが言えそうだ。いままでごく簡単な気持ちでリアリティがあるとか無いとか書いてきていたかもしれないけれど、そもそも作品世界はそれらフィルターを通してみている世界なわけで、ことの始めからリアリティ(と思っていたもの)なんかありゃしなかったということになりそうなのだ。なんかやべぇ!と思い、買うだけ買っておいたアリストテレスの「詩学」を引っ張り出してきたら案の定それらしきことにも触れていた。
 
だが、本当に問題なのはマヤ型リアリティとはなんなのか?ってことの方だ。えらく難しいので答えになってはいないのだけど、アレンジだとかの
 
 
 
眠いのでここまで〜