熱血

 
・熱力アップ応援フェアその2
いやはや、もめんたむの中の人です。今回も暑苦しく語ってみたいかと思われます。えー、前回の「熱意」をまとめると、難しいのイヤン!だったわけですね(実は)。 んで今回は熱血です。熱血? もちろん だいっ嫌い(笑)
 
常識からすれば、熱血というのは おバカ でなければなりません。これには重要な理由があるんですが、残念なことに大抵の熱血人間はおバカな段階で終わってしまいます。どこまでも知的な もめんさむさんは(……何さ?)やっぱ熱いのヤなわけですよ。
例えば文庫本を手に持って読むでしょ、そうすると一番ヒドい時なんかは手のひらから出た熱が本を貫通して顔に当たるんですよ。もうね、気功の気が実在するかどうか?だなんて低レベルの問題はどうだっていいんですよ。「あつい」の。 嫌なの。
 
グラン・トリノに敬意を表して車で説明することにしませう。
つまり、熱血ってのはエンジンだとかガソリンで轟々ちゅうこってす。大分わかりやすいですね。しかしながら、熱血=バカなのはなんででしょうか。いいじゃん熱血、何が悪いの?って感じですよね。でももったいないので迂回しまくりです(笑)
 
修造MADなどがたいがい使いものにならないのは、冷え冷えしているからです。あの程度のモンが好きってことは、熱血マニアか冷血かのどっちかでしょう。本人の近くに行くのならともかく、一過性の熱血なんか使い物になんぞなりません。体力に余裕のある時にがんばってみようか?と思えたら御の字ですよ。しかし社会人にもなれば仕事でラストスパートかけてヘトヘトです。ヘトヘトなのに「もっと熱くなれよ!」とか言われても「何言ってんのコイツ?」と思うのが世界標準というか関の山というか。とりあえず今日は休ませて?って一晩寝たらもう効き目なんてゼロです。そういうものです。
 
賢くあらんとする我々は、じゃあどうすればいいのか?ということを考えなければならなくて、正直、自分で考えろよって感じなんですけどね。真面目な話、努力に関してはテメーで考えないきゃダメっしょ。他人の話を鵜呑みにすると底の浅い人生にまっしぐらだし(笑)
 
 
まぁ、それでも書くんだけど(苦笑)
答えのひとつは既に書いてある通りで、問題は難易度にある。努力の努力感ってものは、難易度からくる抵抗感に他ならない。これをギヌロっと睨みつけると、内的抵抗と外的抵抗とに分類できる。外的抵抗は簡単には減らせない。だから先ずは内的抵抗を下げることを考える「べき」なわけだ。
車で言うと、駆動系のロスを減らすことに似ている。外的抵抗……道が凸凹だったり、坂道だったりは「変えられない」けれど、油を差したり、錆を取り除いたり、シャフトを真っ直ぐなものに交換するとかでロスを減らしていくこと、つまり内的抵抗を減らすことは不可能ではないからだ。
 
熱血とは、これらのロスを減らすことを考えずに、アクセルだ!エンジンだ!ガソリンだ!ターボチャージャーだ!ってことを意味する。というか、ロスを減らすようなことを考えたらそれは最早「熱血ではない」のだ。それは何故か?………… 後述する、かも?(笑)
 
 
ちょっと昔の物語なんかの場合、怒りで頭に血が昇った若造をノータイムで「このバカヤロウ!」と叱り飛ばすんだよね。つまり、若造がバカなのではなくて、血が昇ったらバカヤロウなの。実は「怒り」と「血が上る」はイコールでは無かったりする。でもこの辺はカット。
 
さて難易度が下がったらどうなるか? うまくいけば、それは努力ではなく「単なる行動」になってしまうわけだな。さぁ、困ったゾ! 努力しているつもりが、努力では無くなってしまった〜。どうしよう?(笑)
 
努力していること自体が好きな人にとっては、努力感が無いことは努力ではないわけだ。故に、内的抵抗の高い行動を無意識に奨励する。更にそこに根性だの精神修養だなんだの理由を後付けで用意して正当化を図る。熱血の目的とは、熱血することであり、それには絶え間ない苦痛や苦労が「必要」なのだ。ギアだのシャフトだのが錆付いてギリギリいってるような状態で、アクセル踏んだり吹かしたりするのが、熱血にとっては正しい行為なんだな! 生きている実感?そんな誰かにとっての内側の真実には興味ないけど、実際のところ、それが凡人連中の一般常識とやらにとても近い。
 
内的抵抗を下げることで余るリソースは、成長や駆動に再投入されるべきなのだ。結果、それは外的抵抗との相対的な距離を変化させることに繋がる。坂道を比較的「楽々と」登れるようになるかもしれない。
 
真の熱血とは何か。その本懐とは何だろうか。そんなもんは個々人で決めればいい。俺の知ったことか、とすら思う。
例えばだけど、この世界では時々、どうしようもなく「理不尽」とやらにぶつかる時がある。それは突然に死角からやってきて不可避なことも多い。そういう時、何故だか理不尽や不可能に思えるような高難易度をそれと知ってても打ち破るために行動しなきゃならなかったりする。真の熱血とは、内的な抵抗感を楽しむためのちみっちゃい何かなんぞではなく、世界の理不尽を前にして、尚、それを蹂躙せんとする熱い血潮の滾りか何かなわけですよ。この限りにおいて、熱血のバカさ加減は肯定されるのです。
 
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